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夜、7時過ぎ。
ガチャッとリビングのドアが開く音がして、俺はソファの上からそちらを振り返った。
「あっ、火宮さん。お帰りなさい」
「あぁ」
軽く顎を引いた火宮は、感情の読めない無表情で、テクテクとリビングのソファまでやってくる。
「雑誌か。買ったのか」
俺の手にあった料理雑誌をチラリと見て、火宮はドサッと俺の向かいのソファに腰を下ろした。
「あ、はい…」
別にそれ自体は悪いことをしているわけではない。
欲しいものがあったら好きに買えと、常日頃から火宮には言われている。
だけど何となくギクリとしてしまったのは、これを買ってきた本屋での一件があるせいか。
「ほぉ、料理雑誌か。何だ。俺に美味いものでも食わせてくれるのか?」
何の雑誌かを認識したらしい火宮が、ふと表情を緩めて、いつもの癖のある笑い声を立てた。
「ククッ、最近はあまり夕食までには帰れていなかったからな。いない間に腕でも磨いたか?」
楽しそうに目を細める火宮の機嫌は悪くはなさそうだ。
「あの、えっと…」
まさか聞いていないなんていうことがあるのだろうか。
もしかして、真鍋が止めてくれている?
「どうした?」
変な顔をしてしまっていたんだろう。
火宮の気遣うような目が向く。
「あっ、いえ、腕…腕はですねっ、どうでしょう?でもレパートリーは増やそうかなって」
「ふっ、そうか。翼、来い」
足を大きく開いて、その足の間を示す。
「っ、は、い…」
唐突だけど…。口でしろってこと?
急な命令が理解出来なかったけど、俺はスッとソファから立ち上がり、火宮の前に行った。
そのまま床に跪こうとした瞬間。
「何してる。こっちだ」
パッと腕を取られ、グイと引き寄せられてしまい、俺はフラリと火宮の上に転びそうになった。
「っ、わ…」
「ククッ、華奢だな」
クルンと身体を軽々回され、火宮の足の間に、火宮に背中を預ける形で、ストンとソファに座ってしまう。
「え…」
「ククッ、翼。おまえは、俺の、何だ?」
ギュッと後ろから抱きしめるようにしながら、火宮が上半身の体重をグターッとかけてくる。
「な、に、って…」
「主従か?所有者と所有物?」
「違い、ます…っ、あ!」
「ククッ、そうだろう?恋人だろう」
ぎゅう、と腕に力を込めた火宮が、仕置きだ、と言わんばかりに意地悪く、レロッと耳の穴を舐め上げた。
「ひゃぁっ…ごめっ、なさい」
「ふっ、新しい料理を覚えたら、俺に1番始めに食わせろ。その日は何が何でも早く帰る」
ククッと笑いながら、甘い甘い台詞を紡ぐ。
「っ、初めて作るものなんて…自信ないですよ」
ゾクゾクッとなったのは、火宮が耳元で囁くせいだ。
「ククッ、恋人の手料理は、何だって美味いものさ」
「っー!もう、何壊れたこと言ってるんですかっ」
どSのくせに。
時々こうして甘々なのがズルい。
「あぁ、好きだなぁ…」
思わず漏れてしまった想いは、うっかり口に乗っていて。
「ククッ、可愛いことを言う。翼。俺は、おまえを、大切にしたい」
チュッと頭の上に落とされたリップ音と、優しく温かい言葉にハッとして、後ろの火宮を振り返った。
「っー!火宮さんっ」
「なんだ」
「俺っ…俺」
「あぁ。今日、会ったそうだな。元同級生か」
やっぱり聞いてた。やっぱり知ってた。
なのに頭ごなしに切り出して来なかった火宮の想いを感じる。
「はい…。高校の、同じクラスだった、女子です」
「真島冴と言ったな。少し調べさせるが…気を悪くするか?」
この火宮が。
俺様何様火宮様が。
やけに遠慮がちに尋ねてきて、俺は思わず目を見開き、フルフルと首を振った。
「火宮さんのいる世界では、仕方がないことだって分かっています」
「そうか」
近づいてくる人間全てを疑ってかかって、その接近に裏がないか調べ尽くす。そうして信用が置けるまで安心できない。
それはとても寂しいけれど、そうしなければ守れないものもある世界。
火宮がいるのは、そんな世界だ。後悔してからじゃ遅い。
「まぁ報告が上がる前におまえに聞くが。元カノってやつか?」
横向きに俺を抱き直した火宮が、スッと目を細めて俺を見る。
「はっ?」
思わず素っ頓狂な声が出た。
「何だ、違うのか」
「えっ?違いますよ。ただの友達です」
どこからそんな話になる。
「名で呼び合っていて、親しそうだったと」
「あー、浜崎さん?」
主観って怖い。
「名前は…俺なんてマスコット的な愛称ですし、うちのクラス、男女分け隔てなく、やたらと仲が良かったんですよね。なんか、高校生にしてはちょっと幼いかもなんですけど、和気藹々とじゃれ合ってる感じっていうか…」
思い出の中の高校生活は、まだ中学の延長のようで、それでいて新しい仲間たちと、ワイワイ楽しくやっていた記憶だ。
「おまえはきっと、人の輪の中心にいたんだろうな」
「どう、だったかな…」
まぁどちらかといえば賑やかなグループの中にいて、常に周囲には何人ものクラスメートがいて、囲まれていたけど。
「モテただろう?」
「俺が?まさか」
プッ、と思わず笑っちゃうくらい、俺にはそんな甘い話はなかった。
「そうなのか?容姿もいいし、性格だって悪くない」
「ははっ、容姿は…なんか愛でられるっていうか、男扱いされないっていうか…それこそ可愛いだとか、翼ちゃんだとか揶揄われはしたけど…」
惚れてもらえるようなものじゃなかった。
「ふむ…」
「性格はよくわからないですけど、なんていうか、つーは優しくて好きなんだけど、彼氏って感じじゃないんだよねー、みたいな。何度言われたかわかります?」
「なるほど。いるな。いい人止まりの、異性とも友情を成立させてしまうタイプ」
まったくね。
「まぁ翼の魅力は、ガキには分からんか。ふっ、むしろ分かってたまるか」
「あはは。俺は、火宮さんにだけモテていたら、それでいいです」
俺のどこがいいのかいまいちよくは分かっていないけど、火宮がいいって言う俺がいい。
「クッ、言うようになった。なぁ翼、懐かしいか?」
「っ、まぁ、そう、ですね」
「戻りたいか」
「っ…」
ビクリと震えてしまった身体は、きっと触れている火宮にも伝わった。
「っ、俺、は…」
「翼?」
「一度、死んだ身です」
「翼…」
伏し目がちになって、だけど言葉は続ける。
「あのとき全てを諦めた。あのとき全てを捨てたんです。友達だった人たちのことも、俺は…」
「翼」
「っ!俺には、火宮さんに生かしてもらって、今があるけどっ…本当は、2度と会うことがなかった人たちです。2度と会えるはずのなかった人たちなんですっ。そう、諦め、俺は選んだ」
だから、だから俺は、今更戻りたいと、あの日々を取り戻したいなどと、言えない。言うわけにはいかない。
「翼」
「っ、俺は…」
そうでなければ、あの時の覚悟が。
あの時選んだ道が、答えが、間違いだと思わされてしまう。
「俺は全てを捨てると決めて、あそこに立った」
後悔はない。
だけど揺らがないわけじゃない。
「だから、戻りたく、ありま、せん…」
ギュッと拳を握り締めた俺を、火宮は優しい微笑みで受け止めた。
「無理をするな」
「っ、無理なんか…っ」
「生き長らえた命だ。欲だって願望だって、当たり前のように出てくる。当たり前なんだ、それでいい」
「っ、でもっ…」
死を選ぼうとした自分を否定したくない。
「おまえを無理矢理生かしたのは俺だ。おまえの選択は間違っていない。その上で、今のおまえがある」
「っ…火宮、さんっ…」
なんでそんな風に、俺をピンポイントで掬い上げるんだ。
「新たに得た生だ。あのとき死のうとしていたおまえがいたから、俺はおまえと出会えたんだぞ」
「っ…」
「だからおまえは堂々と望んでいい。懐かしい過去の思い出も、諦めた友との再会も」
正しい、ときっぱり告げる火宮が、あまりに強くて優しくて。
「っ、ズルい…」
格好よすぎて、頼もしすぎて。
スゥッと目から伝い落ちた一粒の雫は、温かくて少ししょっぱかった。
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