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殺伐
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『私、あなたがいなきゃ生きられないの』
付けっぱなしのテレビから聞こえてきた切実な台詞に、思わず顔を上げて失笑した。
画面の中では向かい合った男女が別れの愁嘆場を演じている。『私をひとりにしないで』などと、いかにも安っぽい恋愛ドラマにありがちな台詞回しに、志槻(しづき)慧(さとる)は鼻を鳴らしてリモコンを手に取った。涙ながらに抱擁を交わす二人に冷めた視線を送り、画面を黙らせる。
「まったく……下らない」
他人ひとりがいなくなった程度で人生が終わってたまるか。そこまで他人に期待して、依存して、一体なにを得られると思っているんだ。
ひとりにしないで、なんて。
そもそも、人間は生まれてから死ぬまで始終孤独な生き物だろうに。
そんな常識すらないのかと、白けた感情で薄く笑い、リモコンを放り出す。
ソファに深々と背中を預けて読書に戻ると、しばらくして浴室の扉が開いた。
「なんだ、テレビ消しちゃったのかよ」
「耳障りだったもので」
出てきた男は、濡れた髪を乱雑に拭いながら隣に腰を下ろしてきた。
「展開どうなったのか聞こうと思ったのに」
「……泣く泣く別れていましたよ。迫真の演技でした」
苦笑交じりの言葉に答えつつ、本から顔を上げはしない。男は「ふうん」と気のない相槌を打ち、こちらに身を寄せてくる。
「さっきからなんの本読んでいるんだ?」
その質問は無視した。人が読んでいる本の内容を知りたがるなんて、詮索趣味も甚だしい。
行きつけのバーで目が合い、まあまあ好みのタイプだったから連れ込んでしまったけれど、明らかな失策だった。ベッドでのテクもいまいちだったし、話も面白くない。一時の快楽はおろか、気休めすらも与えてくれない男の名前など、とっくに忘れてしまった。
今も空気を読まずこちらの太腿をいやらしく撫で擦っている男に胸中落胆し、さりげなく脚を組み替える。
「なあ――もう一回しないか?」
冗談じゃない申し出に薄く微笑んでみせた。その笑みが相手にどう映るのか、全て計算づくだ。
自分で言うのもなんだが、容姿にはある程度の自信を持っている。線の細さに見合った小顔。すっきりと通った鼻梁。笑うと冷たさに拍車が掛かる切れ長の瞳は、十代後半で時を止めたかのような童顔に独特な色気を添えているということも知っていた。少しばかり癖のある黒髪も、二十五という年齢からすれば却って洒脱な印象を与えるだろう。
この容姿のせいで痛い目を見たこともないではないが、それを看過して余りある端麗さはコンプレックスになり得ない。
これで性癖がストレートでさえあれば、自分という男は完璧だっただろうに。
さすがにこちらの拒絶を察することができないほど鈍感ではなかったようだ。冷たい笑みに息を呑んだ男は次いで軽く眉をひそめ、気まずそうに視線を逸らして立ち上がる。
「じゃあ、また」
「ええ、機会があれば」
恐らく二度とないが。胸のうちで裁決を下し、出て行く男の背中に呟いた。
玄関の扉が閉まる音を耳にしてから立ち上がる。
やっと戻った静寂にやれやれと首を振り、男が使った風呂場を覗き込んだ。案の定、床に髪の毛やらアソコの毛やらが散乱していて、うんざりと顔をしかめる。
セックスが下手な奴は、どういうわけか皆揃ってだらしないのだ。
流水で床を洗い流し、ついでに浴槽も磨いた。人並み外れて綺麗好きというわけではないが、他人につけられた汚れというのはどうしたって不快なものだ。
しばらく男を連れ込むのは控えようと決め、三十分ほど風呂掃除に時間を費やした。
痛む腰を軽く擦りながらソファに戻り、本を開く。恋愛ドラマは嫌いだが、恋愛小説は好ましい。否、恋愛ものに限らず、小説という虚構の世界そのものが好きだった。そこには愛と救いが満ちていて、現実世界には決してない温かみが詰まっているのだ。
日本語という複雑な言語で綴られる小世界が、作り物とは思えないほどのリアリティをもって自分の中へと浸透していく。その感覚に束の間溺れた。
心温まるエンディングに息をつき、本を閉じる。悪くない話だった。だが、所詮作り話だ。
この現実世界において、永遠の愛なんてない。無償の愛など笑止千万だ。他人に優しくするのは単なる自己満足で、温もりも触れ合いも、快楽という見返りがあるからこそ求め得るものではないか。
一瞬でも、他人に心を許してしまえば必ず痛い目に遭う。男同士の関係に〝恋愛〟という単語は不似合いだ。ただ一時の快楽さえ得られれば、恋情も愛情も必要ない。『愛している』などと、浮ついた甘言をいくら耳元で囁かれても興ざめするだけだ。
そもそも〝恋愛〟という概念そのものが、所詮勘違いに惑わされたフィクションに過ぎないのに。
慧は本を片手に立ち上がり、テレビの隣にある本棚にそっと差し込んだ。居間として使っている十二畳の空間には、ソファと脚の低いガラステーブルの他、テレビ台が一つある。空間の中央はがらんとしているのに、全体としてどことなく圧迫感があるのは壁際にずらりと並んだ書棚のせいだろう。高さ二メートル半、横一メートル半という大型書棚が五つある。側面に二つずつ、背面の三つを挟んでコの字に並べた書棚は既に読み終えた本でぎっちりと埋まっていた。軽く四千冊――我ながら呆れた読書量だ。引っ越してきてからたった三年でこんなに増えてしまった。
苦笑を洩らしつつ、寝室へと向かう。乱れたままのシーツを目にして顔をしかめた。いちいち片付けなければならないのも面倒だ。
シーツを取り替え、ようやく寝支度を整えた頃には、既に深夜三時を回っていた。明日も仕事だから、遅くとも七時には起きなければならない。
浅いまどろみの淵に立ったとき、懐かしい男の顔がちらりと見えた気がした。
『――――』
歪んだ笑みを浮かべた男が自分になにかを言い、聞こえたその言葉に心が砕け散った。未だ、この悪夢は終わらない。
人と違う性癖を持つ自分には、一方的な恋情を抱く権利すらないのだ。十年前、その現実をまざまざ突きつけてきたあの男は、今どこでなにをしているのだろうか。
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