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june.15.2017 男を磨く
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「気まぐれで人間ドックに行くんじゃなかったよ」
「でも結果的にはよかったじゃないですか」
向かい側に座る三木田さんは面白くなさそうにため息をついた。人間ドックで隅々まで調べた結果、癌の類はみつからず、内臓の状態は申し分なかったらしい。ただ限りなく黒に近い糖尿予備軍と診断され、中性脂肪と悪玉コレステロールの基準越えがセットでついてきた。さらに7kg体重を落とすことを命じられたらしい。
三木田さんが検査した病院は祖父の代からのかかりつけで、小さい頃から診てもらっている主治医に頭があがらないらしい。主治医の息子が跡を継ぐことが決まっていて、父子二人の医者から釘をさされたと聞いたのは1週間前。
「手足が壊疽になって切断、眼底出血して失明、インスリンの注射を自分で打てるのか?人工透析になったらどうする?とヤイヤイ言われてな。その診断がでてから、食卓は一気に質素なものになったよ。味は薄いし、まるで病院食だ。白飯は毎回量りで分量をチェックされている」
「奥様も真剣ということです。有難いじゃないですか」
三木田さんはまたもやため息をついた。
「そんな三木田さんに楽しい食事をと思ってここに」
「いい匂いがしているな。そうは言っても俺が食べられる品は限られているだろうし」
「シェフにお任せしました」
由梨がはまりにはまっているSABURO。何度か来たが確かに旨い料理ばかりだ。自分を取り戻すきっかけになった店。大人気ない対抗心や嫉妬心がないとはいえないが、結果を踏まえれば喜ぶべきことだろう。何からなにまで自分が手掛けられるものではない。
様々な場所や人から影響を受けて厚みを増していくのが人間だ。その点由梨はハイスペックなアンテナを持っている。
「おまたせしました。ビールとサラダをお持ちしました」
ビールは飲んでいいアルコールなのだろうか。冷えたグラスはうっすら白い。どんなに外が寒くてもやはりビールは冷えているに限る。
「糖質フリーのビールです。次は赤ワインをお持ちします。こちらのサラダはサニーレタスとフリルレタス、水菜、パプリカ、大豆、焼いた揚げ、ジャコ、砕いたナッツ、オニオンチップが入っています。ドレッシングは自家製ですので安心してお召し上がりください」
目の前の皿はけっこうな大きさで野菜が大量に盛られていた。普段ならシェアして食べる量が一人前らしい。
「ベジファーストは血糖値の上昇を抑えてくれるらしいです。色々な食感をおたのしみください」
よどみない説明。普段ホールで目を光らせ、キャッシャーに立つ彼はいつもすっきりとした佇まいだ。さすが高村さんの秘蔵っこ、そつがない。
三木田さんは皿を見てため息をついた。
「俺は馬か?」
諦め顔がおかしくて笑ってしまう。たしかに「馬に食わせるほど」のサラダであるから、三木田さんの気持ちもわかる。
「でもこれだけのサラダは自分で作れませんから」
「俺は生野菜が苦手だよ。味は美味しいと思うが、食べるのが面倒くさい。バラバラとっ散らかるし」
「子供ですか?諦めて食べましょう。色がきれいだし、色々入っていますから美味しいですよ、きっと」
ドレッシングをかけてブラックペッパーをふる。一口含むと、ドレッシングの程よい酸味。柔らかい葉物野菜とは全然食感の違う数々の食材が口の中で踊るのが楽しい。噛めばそれらが味のハーモニーを奏でる。これなら全部食べられそうだ。
「このドレッシングはマヨネーズ入っているよな。マヨネーズ禁止になったから、妙に嬉しい」
三木田さんは諦め顔を笑顔に変えてサラダを頬張っている。サラダに取り組んでいると会話が途切れがちになった。
モシャモシャと噛みしめていると身体にいいものを食べているという満足感が広がっていく。ベジファーストか……覚えておこう。
サラダを食べ終わる頃、グラスのビールが空になった。「馬に食わせる量」のサラダとビールで空腹感はなくなり、それどころか充足感もある。食材が多く含まれているせいだろう。
「旨かった……これなら毎日でてきても食べられる」
「ですね。一人暮らしだと野菜不足になってしまいます。レタスやキャベツを丸ごと買いませんし。千切りのパックはけっこう固いですしね。それに絶対栄養素は流れてしまっている、そんな味がします」
「一人暮らしね、ふーん」
三木田さんはニヤリと表情を変えてフォークを置いた。何を勘ぐっているのやら、これだから大人は困る。
空になった皿が下げられ、赤ワインとともに次の料理がテーブルにのせられた。
「こちらはポークの肩ロース、牛の肩ロースのグリル、鶏むね肉のコンフィ、炙りベーコンです。付け合わせはホワイトアスパラとグリンアスパラ、隠元。ベーコンはアップルベーコンなので風味がいいですよ。こちらの塩でお召し上がりください。メカブ入りなので柔らかくて甘いです」
甘い塩?
半信半疑で肉にパラパラとかけて食べてみる。……美味い、そして甘い。
「この肉柔らかいな!ただ焼いてあるだけだと思ったら違った」
「煮たあと焼いたのでしょうか。塩だけで充分美味しいですね」
「赤ワインがすすむな」
三木田さんは最初の暗い顔を忘れたのか笑顔を浮かべながら食事を楽しんでいる。食事制限=病院食、そんなイメージだったが今食べている料理はまったく違うし、三木田さんの言う様に毎日でも飽きないだろう。プロの仕事は違う。
その後でてきた料理は魚介のクリーム煮とパン。海老とホタテの旨味がスープに馴染んで優しい味だった。パンで皿を拭う様にして食べるほどの美味さ。クリーム煮か、疲れている時にいいかもしれない。
デザートはイチゴ。ホイップした生クリームが添えられていた。
「けっこう苦しくなりますね」
「まったくだ、大満足」
三木田さんはシェフと話をしたいと申し出た。奥様の作る料理との違いを聞きたい気持ちはわかるし、俺も興味がある。
「お口に合いましたか?」
テーブルの横に立ったシェフは想像より若かった。厨房で忙しく働く姿を遠目にしか見ていなかったせいだろう。清潔な白衣とエプロン。袖はしっかり巻き上げられている。
「合うもなにも、驚きっぱなしです。大変美味しかったです。いくつか質問してもいいですか?」
「なんでしょう」
「ドレッシングにマヨネーズが入っていましたよね。カロリーが高いからダイエットの敵みたいに女房に言われましてね。食べても大丈夫なのでしょうか」
シェフはニッコリしたあと説明を始める。
「ダイエットというより糖質をコントロールするとした場合、カロリーではなく「糖質」に重点を置きます。ソース、ケチャップ、ドレッシング、マヨネーズ。この中で糖質が一番低いのはマヨネーズです」
「ええ?そうなんですか?」
「ええ、中濃ソースやドレッシングを食べるならマヨネーズをオススメします。ただしカロリーハーフをうたった商品は糖質を添加していますから注意してください。ゼロカロリー、カロリーオフがイコール低糖質ではないので、よく成分表をチェックしたほうがいいですね」
カロリーと糖質の差……まったくベースのないジャンルはなかなか頭に入ってこない。
「カロリー、カロリーと女房は呪文のように言っていますよ」
「確かにハイカロリーの物を食べすぎると低糖質の食事でもダイエットになりません。でも今日みたいにまず野菜を摂る。できるだけ多くの食材を使うことでバランスを得られます。ホワイトシチューやカレーは糖質が高くなります。ルーを使うものは全般高めだと覚えていてください」
「でも、クリーム煮でしたよね」
「はい、牛乳と生クリームで仕上げていますので、小麦粉は使っていません。バターとチーズも低糖質食材ですよ」
ハイカロリーが低糖質?それは乱暴すぎる括りか……。
「中性脂肪やコルステロールを考えたら乳製品はどうなのかな」
「肉やオイル、乳製品を避ければいいと思いがちですが一概にそうとも言えない。糖質を抑えた食事を続けるとコレステロールと中性脂肪の数値は下がります」
「……きちんと勉強したほうがいいな」
「そうですね。糖尿病専門医が解説とレシピを掲載している料理本もでています。まずは基礎知識を学んだほうがいいでしょうね。お家で食べるだけではなく外食をする機会もあるはずです。その時メニューから何を選べばいいか知識があれば適切なものが選べる。
ちなみに今日の料理の糖質はざるそばより低いです」
「ええええ!!」
いい歳した男二人、驚きの声をシンクロさせてしまった。
シェフはヘヘンと言いそうな表情を浮かべて頷いている。ざるそばより?ヘルシーイメージのトップ選手じゃないか、蕎麦は。
「蕎麦にはビタミンBが豊富ですし、毛細血管を強くするルチンのような他の食材にない成分を持っている食材です。ただ基本炭水化物なので糖質が高い。ごはん、蕎麦、うどん、パスタやピザと同列です。それにそばつゆはみりんをタップリ使いますので糖質が高くなってしまいます。
和食=ヘルシーも危険ですね。使う調味料を工夫するだけで糖質を抑えられますよ。砂糖ではなくラカントを使うのも方法の一つです。
アマニ、オリーブ、グレープシード、エゴマ、ヘンプシード、ココナッツ。最近はオイルのバリエーションもありますので、風味を楽しむことができます。ドレッシングやソース代わりにして召し上がるのもいいですね。グリルした肉に塩コショウとオイルをかける。カロリーはソースより高くなりますが糖質はゼロです」
「何も知らないと損をするってことか。ざるそば食べるなら今日の食事のほうがずっといい。う~む、これは真剣に勉強するべきだな」
シェフは「今度奥様とご一緒に来てください」と三木田さんに言って厨房に戻っていった。
「石田、久しぶりにテンションがあがったぞ。会社の将来にメドがついて、少々腑抜けていたところに糖尿病の危機だ。もう一生美味いものを食べられずに生きていくのかと思ったら、やる気どころか全部面倒くさくなった。しかしどうだ?やりようによっちゃ、健康になりつつ美味いものが食べられるってことだぞ?
仕事も食事もやりようか……基本知識が必須なのも同じだな。あとは経験値を積めば俺なりの形にできるだろう」
面白い仕事を見つけたときと同じ顔をしている。このままジジイになって老いぼれるのかと意気消沈していた2時間前の三木田さんはもうここにはいない。
由梨の言うように、この店は特別だ。料理一つで三木田さんのやる気をあっという間に復活させたのだから。
「それはそうと石田」
「なんですか?」
「俺の目には大人の色気ってやつを振り撒いているように見えるが、気のせいか?」
……不意打ちすぎる。おもちゃを見つけた子供じゃあるまいし、そんな顔をしないでほしい、まったく。
「気のせいですよ」
「ほおお?しらを切るつもりか?相手は俺だぞ?」
「……」
「浮いた話を聞かないからもったいないなと思っていたんだ。どこで見つけた?」
「……長い事モニターしていた対象の状況が整ったので踏み出しただけのことです」
三木田さんはアハハハと豪快に笑った。そんなに俺はわかりやすいのだろうか。浮かれて見えているとしたら気を引き締めないと。
「モニター、サーベイランス……受動的偵察だな。長年見守ってきたがしびれを切らして押し切ったと素直に言えばいい」
「少々強引にいかないと逃げられそうだったので。手のひらで転がしたいところですが、そんなに甘くはない。すぐ跳んでいきそうです、困ったことに」
三木田さんはつまらなさそうに表情を変えた。
「あのな、石田。自分の手のひらが小さいと思うならデカくすればいいじゃないか。いくら跳んでも外には跳びだせない、そんな器を身につけろ。けっこうなキャパをすでに持っている石田なら造作ないさ」
「ここにきて叱咤激励ですか」
「いや違う。褒めたんだよ。それに石田にそういう相手ができて俺は嬉しい」
嬉しいという言葉はこれほど温かいものだったのか。
「俺は栄養学、石田は男磨き。仕事以外にやることがあるっていうのは幸せなことだ。モチベーションが枯れることがないからな。しかし今日はシェフにしてやられたな……見事すぎて気持ちいいくらいだ」
イチゴをつまむ三木田さんは嬉しそうだ。してやられたこと、俺のこと。食べる以外のものが確かに存在する店。
高村さんと北川さんが由梨をここに引き込んだ。途切れてしまいそうだった由梨と俺との結びつきは少しずつ力を持ち始めた。そして待ち続けたタイミングがきてようやく由梨を手にすることができた――縁。
三木田さんを介してどんな縁に繋がっていくのだろう。SABUROは少しずつ縁を取り持ち大きな円となる。
由梨の顔がみたい。
今晩電話をしよう。顔が見たいから帰ってこないか?そんなことを言って甘えてみようか。
いや……さり気なく由梨の予定を聞く。時間に余裕がありそうだったら、週末東京に行こう、内緒で。
いきなり俺が目の前に現れたら、由梨はどんな顔をするかな?
いきなり跳びだしていかないように、たっぷりドキドキさせてやる。プランニングは俺の得意とするところ。
楽しみながら、男を磨くとしよう!
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