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プロローグ
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「野川先生、お疲れ様です。」
穏やかな口調で、しかし明らかに自分を追いかけて階段を急ぎ来たのは、副学科長の石倉英彦だ。
ここには尊敬すべき教員がたくさんいて、この人物も正しくその一人ではあるが、この後の言葉を想定済みの身からすれば、いささかウンザリであった。
「石倉先生、お疲れ様です。」
「まぁ、そんな顔しないで。聞かせてください。いかがです? 黒木先生は。」
研究室が並ぶ研究棟で少し声を潜めた石倉と、互いに似た類の苦笑を浮かべ、しばらく沈黙する。
こんな時、それでもちゃんと考えていることを石倉は解っていて、野川の二の句をおとなしく待った。
この距離こそが、通常、野川にとって心地よいものであった。
黒木のいつもの様子を思い出し、苦い気持ちになりながら、真逆にも野川は穏やかな微笑を浮かべた。
「とても優秀な方だと思います。頭が良くて、要領も…、他の大先輩の先生方に、さっそく可愛がられているようですし。今のところ目立った問題点は見受けられません。ご存知の通り、お若いのに広い知識をお持ちの方で、深い議論をしても、他の先生方に決して引けを取りません。」
野川一個人として他に言いたいことなら山とあったが、客観的に見ればそうなるから仕方がない。
割り切るようにそう言った。
面接を担当した者としては非常にホッとしています、とも付け加えておく。
不本意であるような、そうでないような。
ため息混じりのセリフは、野川が終始浮かべる穏やかな微笑みのおかげで、傍目には安堵の吐息と映っただろうか。
「それを聞いて私も安心しましたよ、採用担当の一人として…ね、人事委員長殿。」
一層優しく眉尻を下げて言った石倉に、苦笑いを返した。
そうなのだ。
大御所教授勇退のせいで、国文学科としては本当に珍しく欠員補充の公募をしなくてはならなくなった今年度。
選りに選って一番若輩の自分が、クジ引きなんかで学部内の人事委員長を担うことになってしまった。
その為、彼の存在について誰にも文句を言うことができない。そればかりか、何かあれば、自分に責任が降りかかってくる。
…そういう事情があるから、安心しているのは確かだろう。
しかし、面接で彼があんなことを明言してしまったから、教員は他学科の者まで皆興味深々。
講義を終え自室に戻る途中、同じことを聞かれるのは、今日もう何度目だ。
件の人物のことを誰かに聞かれる度に、こんな風に褒め続けなければならないことは、野川としてはやはり不本意だとしか言いようがないと思えた。
特に学部生全体に向けて必修の【国文学概論と国文学史Ⅰ・Ⅱ】の講義を行うときは、今のように自分に充てがわれた研究室に戻るのにも結構な距離を移動しなくてはならない。
その行き帰りの質問責めには本当に滅入っていた。
「そう言えば、歓迎会をしないとね。」
不意に、石倉が真剣につぶやいた。
表情を変えず涼しい微笑みをした野川は、いつもの通り幹事役を買って出た。
「そうですね、ご本人にも希望を伺って、11月中にはできるよう日程と場所を手配しておきます。」
では、と目の前の自室のドアを開いたところでふと視線を感じ、石倉を見た。
答えを求めるように首を傾けたが、ジッと見つめていた割に、石倉はためらっているようだった。
「? どうかなさいましたか?」
やっと自分の室に戻ったので、早く入ってしまいたかったが、こらえて促した。
「ああ…、その…例の、黒木先生の話、…アレ…お受けになるんですか?」
ためらいながらも最後はハッキリと聞いた。
好奇心というよりは、副学科長として今後の研究活動を心配している表情だ、と野川は感じた。
…自然とウンザリは引っ込んでいた。
「いえ、ありません。あり得ませんよ。」
自分のためにも石倉の心配のためにも、一切疑問など挟ませてはならない。決然として言った。
しかし。
「藤沢先生とも話したんですが、野川先生、私はね、…悪い話ではないと思っているんです。」
意外な言葉が返ってきて、野川は内心とても驚いた。
実際には、その眼を少しばかり大きく開いただけだったが。
「……」
返す言葉もなくして沈黙する野川に、石倉はもう一足踏み込んで言った。
「野川先生と黒木先生の、共同研究だなんて、考えただけでもう、ウキウキしてしまいます。」
絶句だ、文字通り。
「国文学はもっと若い世代に台頭してきてもらわなくては衰退してしまう。我々の学問の為に、一肌ぬいでいただくことはできませんか?」
真面目をうまく取り混ぜながらこんな風に言われると、只々困惑してしまう。
『野川先生と共同研究をしたい』
他に名だたる教授が居並ぶ中、面接中にあんなことを言い出すとは、全く困った人だ、とあの時から千回目を数えるかと思う同じことをまた思った。
それとも断れないようにする為の、あの男の強かな作戦なのか。
「時代によって流行り廃りはあると言えど、国文学科という学科は今や全国的に続々と、閉鎖に追い込まれています。文学を究めても、飯は食えないというわけです。」
まずい。石倉がヒートアップしてきた。
「お二人なら容姿も申し分無いですし、いやむしろ、メディアに却って喜ばれるほどでは…」
「石倉先生、すみません。次の講義の準備もありますので、これで…。あ、また飲みにでも行きましょう。そのあたりのことについては私も、言いたいことはたくさんありますので。」
「野川先生、」
なおも言い募ろうとする上司に、失礼します、と優しい笑顔で無情に言い渡し、やっとの思いで自室にすべりこんだ。
「…はぁぁぁ……。」
そうきたか。と、野川はネクタイをぞんざいに緩めながら、新しい酸素を求めるように深く息をした。
そしてそれまで張り付けていた笑顔を仕舞った。
…いやはや、日本文学研究の行く末をまるごと託されても、ちっぽけな自分の力など一体何になろう。
自分が興味を持ったことに関して、知識と、経験に基づく洞察力とを駆使して古典を紐解いていくその過程は、取り分け自分が専門とする上代、中古文学においては、専門的かつ甚だしく個人的な作業であるというのが、野川の持論である。
科学的なアプローチによって新たに明かされることは稀にあるものの、それ以外については研究論文も結果も、ある意味出尽くしている。
そこにまた分け入って、独自の視点、観点から小さな糸口を見つけ、点を線にして行く、それを繰り返す。
そこにある手掛かりなど、専門家でなければ絶対に判らないし、それで良い。
メディアが面白がったりするような、真新しい研究テーマを作ろうとしてもうまくいくものではないのだ。
文学はそこにあるのだから。
もちろん共同研究そのものの可能性も意義も、認めるところだが…。
本来石倉は、野川と近い考え方であったはずなのに。
いや。
…解らないではないのだ。
端麗な容姿、若さ、才能、そして恐らく性格が良いことも合わせれば四拍子も揃っている、黒木建という人物の輝かしい未来を想像して、目が眩む気持ちを。
その彼との共同研究と言ったら、それはもう、学会内での話題性、将来性とも大いに期待できるだろう。
しかし、野川からすれば、それを叶えるのは、自分で無い他の誰かでなくてはならない。
ただでさえ大した理由もなく黒木の世話係を任された状態なのだ。
これ以上、自分の生活を侵食されては堪らない。
11月初旬の昼下がり、空は心地よく晴れ渡っている。
室の窓からは、少し当たりは冷たくなってきたものの、程よく風も入ってくる。とても好きな季節である。
しかし。
「はぁ……。」
突いて出る溜息を止められない。
現実は、二ヶ月前に黒木の面接をしたあの日から、野川にとってまるで前途多難の様相を呈していた。
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