アダルトコンテンツが含まれます。
18歳以上ですか?
- 文字サイズ:
- 行間:
- 背景色:
-
第5話
-
一方、この日は亨の両親が赴任先のフランクフルトから一時帰国してきた。彼らの小さな一軒家はにわかに騒々しくなり、亨はレッスンの合間に墓参りだの買い物だのに付き合わされて一息入れる時間もなかった。
だが日曜日にはレッスンもなく、両親の用事も一通り終わったので、松波家の親子三人に例の叔母も加わった四名で朝から駅前のカフェKOZAWAへ繰り出した。その日は雨ではなかったが、薄日がさせば気温が三十度を越すことが多くなる季節とあって、少し外を歩いただけでも汗ばんでしまいそうだ。
暑い暑いとしきりに口にする熟年三名を引き連れて亨は行きつけの、と言っても高くつくので店ではコーヒー一杯飲んだこともないが…駅前のカフェの扉を開くと、休日とあってこの時間から客席は殆ど埋まっていた。窓際の四人がけテーブルをどうにか確保して落ち着くと、熟年たちは早速テーブル脇に立てかけられたメニューを取り上げて物色開始だ。
「朝ごはん食べてないからお腹すいたわねえ。この日替わりサンドって今日は何なの」
「コーヒーの種類も多いし、浅煎りと深煎りってのは何だ?さっぱりわからんな」
静かな店内が急にうるさくなって他の客の顰蹙を買わないだろうかと、亨は冷や冷やしながら様子を伺っていた。マスターが水と紙おしぼりを持って注文を聞きにやってくると案の定質問攻撃を受けていたが、支離滅裂に飛んでくる質問をいつもの穏やかな顔を一切崩さず丁寧に答えていくところは流石だと言うしかない。
「コロンビアの深煎り一つにエチオピアモカの浅煎り三つ、日替わりの…マサラポテトのホットサンド二つ、レアチーズ一つと季節のケーキはメロンジャムのカリソン風タルトで三つ。以上でお間違いありませんね」
散々時間をかけてようやく決まった注文をマスターはにこやかに復唱すると、軽く会釈して彼らのテーブルから離れた。普段は彼一人で切り盛りしているが、今日は混み合っていて亨たちのテーブルに限らずフードメニューの注文も多いためだろう。マスターの奥さんらしき女性もキッチンで忙しそうに働いていた。
道行く人々は手で日差しを遮ったり、ハンカチで扇いだりしながら歩いている。空調が適度に効いているから店内は快適だが、外はかなりの暑さになっているようだ…そんなどうでもいいことを考えながら、亨は両親や叔母の会話を適当に受け流しつつ、窓の外をぼんやりと見つめていた。時折マスターが淹れるコーヒーの香りが微かに漂ってくるのが心地いい。
「あれ…もしかして、松波先生?お早うございます」
聞き覚えのある声が頭の上から響いてきて、はっと我に返った亨が見上げると、松波家が陣取ったテーブルの前にあの神崎優留が立っていた。
「あ…神崎さん。お早うございますってその格好…日曜日なのにお仕事?」
苦笑いして頷いた優留はこの蒸し暑い中、綺麗にシャツを着てネクタイを締めている。いつも彼がレッスンに来るときに持っているブランドもののビジネスバッグも携えて、明らかにこれから営業といった様子である。
「そう、ほぼ確実に契約にこぎつけそうなので、日曜でも何でも出てくるしかないんですよ」
「ちょっと。イケメンじゃないの!亨ちゃんのお友達?」
両親と叔母は優留に勿論興味津々だ。
「先生にピアノを教えていただいています、神崎と申します。初めまして」
「僕の両親と、母方の叔母です」
亨が優留の挨拶に応えて家族を紹介した。
「ご両親は海外から帰国されてらっしゃるんでしたよね。折角ご家族でお楽しみのところをお邪魔して申し訳ありません」
スマートな所作で会釈する優留に亨の母と叔母がすっかり見とれているが、父は全く気に留めない様子でにこやかに優留に挨拶を返した。
「息子がお世話になっているようで…差し支えなければどんなお仕事をされているのか伺っても?」
「願ってもないご質問です。名刺を差し上げたくてうずうずしていましたので…」
軽口を交えつつ優留が差し出した名刺を受け取った亨の父も思わず笑ってしまった。
「なるほど…こりゃあ、赴任中じゃなければ危ないところだった」
「亨には買えないものねえ」
二言三言会話をした後、客への訪問の準備があるからと言って優留は亨たちのテーブルから少し離れた二人がけの席へ着いた。マスターにコーヒーを注文してからノートパソコンを開いて作業を始めたが、何となく亨たちのテーブルの会話が気になった。彼らは注文したものが運ばれてきたのであれこれ感想を口にしながらブランチを楽しんでいる。
家族や親類で集まって、他愛ない会話をしながら休日を過ごす。ごくありきたりの風景だ。亨の両親も彼のおっとりした人柄から想像した通りの、少し品が良くて…平凡そうな夫婦である。
職業柄何となくわかるのだ。多少の問題も抱えたことはあるかもしれないが、彼らはずっと…
概して平穏に、当たり前のように寄り添って生きてきた人々なのだと。
世間が言うところの、普通の家族。
だが俺は…恐らく生まれた時から、その「普通」とは無縁だった。
優留は気づかれないようにそっと、亨の姿を見つめた。
親たちの言うことに時折呆れたりイラついたりしているが、彼らを見る亨の目は始終穏やかだ。だが他でもない、あの家族の中で彼の性質は育まれてきたのだろう。
自分の家族とは違いすぎて…遥か遠い世界を見ているようだ。
優留は作業を終えると、そっと席を立って、店を出て行った。
「あ…、神崎さん、もう行っちゃった」
いつの間にか彼の姿が消えたことに亨が気づいた。
「きっと忙しかったのね。立ち話させちゃって悪かったかしら」
「ねえあの人、本当に亨ちゃんからピアノ習ってるの」
「ええ、本当にピアノ習いに来てるんです」
確かに一見そうは思えない雰囲気だから、叔母や母の疑問は尤もである。
「それで、いつもああいう…何て言ったらいいのかしら、ピシッとした感じなの?」
「うん、いつもあんな感じ」
亨はこくりと頷いた。
「言うこともやることも兎に角ソツがないんだよね。見てて自分がイヤになるくらい」
亨自身は典型的なダメリーマンだっただけに彼の普段の様子を思い浮かべると溜息が漏れてしまう。そこへ、今まで黙って三人の会話を聞いていた亨の父がぽつっと呟いた。
「だが、ああいう感じの奴はな…」
「どうかしたの、お父さん」
「あ…?いや、何でもない。…このコーヒー、本当に美味いな」
呟いた時の父の表情には見覚えがある、と亨は思った。父がこんな顔をするのは、大抵自分が子供だった頃のことだとか、昔を思い出している時だ。
父は優留に出会って何を思い出したのだろう。
現在の設定
文字サイズ
行間
背景色
×
5 / 45