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第30話
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大きな窓から、東京の夜景が一望できる。一番いい場所の二人用テーブルに案内されて、亨は思わず凄い、とつぶやいた。展望台だの高層ビルの飲食店だの、敢えてこういう場所へ出向く発想を持たない彼には、それなりに新鮮な光景だった。気に入ったかと矢代に聞かれて、亨は頷いたが
「でも、カップルに開けておく席を男二人で占領したら悪いかも…」
と苦笑いした。周りを見てもそれらしき客が増えてきている。
「照明がこれだけ暗かったら誰も気にならないよ。何飲む?腹は減ってない?」
黒のシンプルだが上質そうなニットに、矢代もブルーデニムを合わせていたが、明らかに量販店のものとは違う。彼は学生時代から着ているものは黒が殆どだったが、今も変わらないようだ。小柄なイメージがあったが、先日の演奏会で初めて間近で顔を合わせてみたら、案外長身だった。優留と同じくらいだろうか。彼よりも痩せ型だが…
メニューを渡されて手にしたまま考え事をしてしまった亨ははっと気づくと『すみません。じゃあこれを…アルコール半分で』と、メニューに印刷されたカクテルの一つを指さした。矢代はスタッフを呼んでオーダーを取らせると、亨の顔を見つめて疲れているかと尋ねた。
「こんな遅くに呼び出しちゃって悪かったね」
「いえ、全然大丈夫なんです。ボケてるのはいつもだから」
二人ともそれぞれ夕食は済ませていたので、チョコレートだけをつまみに頼んで、亨にはオレンジジュースベースのカクテルを、矢代にはスコッチウィスキーのロックが給仕された。しかし矢代のウィスキーとともに櫛切りのレモンが来たので、レモンをどうするのか亨が尋ねると、これをかじってウィスキーを飲むと美味いのだと教えられた。無論メニューにないが、試しに頼んでみたら対応してくれたらしい。
「親父の受け売りだけどね。クラブなんかに行ってつまみはいらないけど何も頼まないんじゃ…って時に頼むらしい。これじゃあお金が取れない!ってお店のママに文句言われるってさ」
関西の出身でありながら、矢代の言葉には殆ど関西弁が出てこない。彼の両親は関西生まれではないが、父親の仕事等の成り行きで住むことになったという。彼自身も高校から東京に下宿してT学園の高等部に通っていたから尚更だろう。
極端な無口ではないが、矢代は決して饒舌ではなかった。優留は客商売をしているだけに、鬱陶しくない程度に会話を切らさず、話し相手を楽しませることに長けていたが、矢代といると度々会話が途切れた。その度に少しすまなさそうな顔をして窓の外を眺め、何か思いつくとぽつりぽつりと話し始める。しかし酒が入っても彼は相変わらず穏やかで、時折訪れる沈黙も亨には決して心地悪いものではなかった。だが、無意味なこととわかっていながら、優留と比べてしまう。感じも良かったし相手を気遣う男であるのは同じだが、今になって思い起こせば優留は常に…周囲に対して緊迫感を張り巡らせていた。矢代は両親とも仲が良く、音楽に没頭できる恵まれた環境にいたせいもあり、まず感じるのは育ちの良さだ。彼にもし悩みがあるならば、専ら自分の音楽表現がいかなるものか、あるいは演奏家としてどう生きるのか、殆どそれらに特化されているだろう。
これだけイケメンで実力もあるのに、未だに独身のみならず特定の相手もいないというのは…本人曰く少しの間付き合った人もいるらしいが…、余りにも清冽な人間性に皆が近寄りがたさを感じるのではないか、と亨は思った。世間に疎い自分が言えた立場ではないが、俗っぽさがなさすぎる。『残念』呼ばわりされるのもわかるような…
こんな風に、亨にしては冷静に相手を分析していた…はずだったが、彼の推察は実は若干ずれていたのだ。亨の考える矢代の近寄りがたさとは、実はある理由のために敢えて纏っていたものだった。
「…それで、松波くんは、プロの演奏家になろうとか思ったことはないの。本当に?」
「先日もお答えしましたけど…ほんとに、全っ然そんな発想なかったです…ていうか、そんな資格もなかった。モチベーション低かったし」
矢代は亨が答えるのを聞いて、すっと表情を曇らせた。また会話が途切れてしまうと、矢代は小皿に盛られた櫛切りのレモン一切れをつまんで左手で覆い隠すように持つと、亨に一切口元を見せずにレモンをかじった。その残骸も見せないようスマートに皿へ戻しながらウィスキーと氷の入ったグラスを右手に持ち、口に運んだ。一口飲んで亨に顔を向け『ごめん。さっきから妙なことやってて』と恥ずかしそうに微笑んだ。
「いえ…でも本当に美味しそうですね」
「じゃあ試してみる?」
「ウィスキーなんて、飲んだら一口で倒れそうなんで…」
「あのさ」
不意をつくように、矢代が話題を切り替えた。
「俺…学生の頃、一度だけ見かけたことあるんだ。君のこと。君はまだ…一年生だったかも」
「えっそれ…本当に僕だったんでしょうか」
「間違いないと思う。何か用事があってピアノ科の練習室の前を通りかかったんだ。ショパンの練習曲が聞こえてきて、その音色に凄く引っかかっちゃった。俺さ、ショパンの曲は…彼の生き様とか人間性を思うとあまりロマンティック過ぎる演奏は好きじゃないんだけど、その時聞こえてきた演奏はまさに、俺がショパンの曲ってこういうんじゃないかって思う、そのまんまの音だったんだよ。鋭くて、綺麗なんだけど激しくて」
こういう話になると矢代の口数はぐっと多くなる。
矢代はその当時、吸い寄せられるように練習室の前に立ってしばらく耳を傾けていたが、どんな奴が弾いているんだろうと次は当然そのことが気になってきた。練習している学生の邪魔にならないように、そっと教室の扉を開けて中の様子を伺った。
「すっごく綺麗な子がピアノ弾いててそのまま目が離せなくなっちゃったんだよね。ぱっと見男か女か、あの角度じゃわからなくて」
しばらく見ているうちに男だとは気づいたが、そうと知っても何故か落胆しなかった。覗き見をしているのを誰かに見られると困ると思って、仕方なくその場を離れたが、この時見た光景がずっと頭に残っていた。もう一度会ってみたいと思ったが名前もわからないし、用もないのに毎日ピアノ科をうろつくわけにもいかず…学内で彼を見たのは結局、それが最初で最後になった。そこまで話すとまた矢代は黙って、外の夜景を眺め始めた。
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