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第35話
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「ねえ、忘年会が始まるまでちょっと付き合ってくれない?まだ一時間はあるでしょ」
銀座のレストランで勤務先の店舗の忘年会があるので同僚の女性と二人で表通りを歩いていた優留は、この通りにある老舗の宝飾店へついて来てくれと頼まれた。
「何か買うの。自分で」
「買・わ・な・い。ヤな男ね。ハガキ持ってくとシャンパンのサービスとノベルティでパール付きのポーチを貰えるの。ほら見て可愛いでしょ。でも一人で行くのは恥ずかしいからついて来て。元カレのよしみで」
二つ年上の彼女の言葉通り、二人は優留の入社当時から少しの間付き合っていた。互いの性格から恋愛関係を続けていくことができず破局したがその後は悪友同士として案外うまくいっている。
「自分の男と一緒に行けばいいだろ。ついでに何か買ってもらえば?」
「だって今日だけだもん。ていうか。ヒモ専の私にそんなの期待できないって知ってて言ってるよね?」
夕闇にビルや店舗のショーウィンドウの照明が映えて格好のデートスポットとなっている街の中を、喧嘩かと思うような会話をしながら二人は宝飾店に向かった。店舗の入り口から中へ入ると、吹き抜けの天井に向かってそびえるクリスマスツリーがすぐに目に入った。それを囲むようにショーケースが配置されていて、流石に時期が時期だけに賑わっていた。暖房が効いて暑いので、優留は素早く自分の着ていたコートを脱ぐと、同僚が黒のカシミヤのコートを脱ぐのに手を貸した。
「神崎くんてすごいよね。女嫌いのくせにフェミニストの振りするのはホントに上手。…だから始めは騙されたんだけど」
優留の洗練された扱いを受けて、同僚は感嘆とも呆れたとも取れる溜息を漏らした。傍目にはさぞイケてるカップルに見えているだろう。
「営業の基本ですから」
同僚がハガキを手にしているのを見て、店員が『ミニコンサートとシャンパンのサービスは二階奥のサロンで行います。お二人ともどうぞ』と丁重に上階行きのエレベーターのある方向を示したので、始めから買い物には興味のない二人はまっすぐエレベーターへ向かった。
「…どうしよう。貰うもの貰ったらさっさと出ようと思ってたんだけど…ちょっと出て行きにくい雰囲気よね」
サロンの受付でハガキと交換でノベルティの入った紙袋を受け取り、給仕されたシャンパンのグラスを手に、同僚は辺りを見回した。奥にピアノが置かれていて、その前に椅子が並べられていた。
「まだ全然時間があるし、座れるし、聴いてけばいいじゃないか。あと五分で始まるって受付で言ってたろ」
「そっか…あ、あっちにチョコレートが置いてある!貰ってこよっと」
席を取っておくからと言って、優留はできるだけ端の出口に近い椅子を二脚確保して、そのうちの一脚に腰を下ろすとその途端に眠気が出てきた。同僚が受け取った紙袋の中にミニコンサートのプログラムが入っているようだが、興味も沸かなかった。
ちゃっかりチョコレートを味わってきた同僚が戻ってきて隣に座り、手持ち無沙汰そうに紙袋の中を覗いた。
「えーと、コンサートのプログラムか。歌があって…この人何て読むのかな。『門脇麻矢』でかどわき…まや、か。あとは、歌のピアノ伴奏をする人が独奏もして…三十分くらいで終わるんだ。ちょうどいい時間」
やがて真っ赤なシルクサテンのロングドレスに身を包んだ、はっきりした顔立ちで三十代前半ほどの女性がピアノの前に進み出た。後ろから男性が一人付いて出てきたが、優留はうとうとしていてその顔は目に入っていなかった。
赤いドレスの女性が歌手らしい。自らマイクを手に本日はようこそ、等と挨拶をした。自己紹介と二言三言トークを交えた後、この日演奏する曲の紹介とピアニストの紹介を始めた。
「本日私の伴奏と独奏をして頂きますのは、松波亨さんです」
隣で寝落ちしかけていた優留の半身がびくりと跳ねて、身を起こしたのが横目に入った同僚が『ちょっと、寝てたの?』と振り返った。しかし優留の表情が険しくこわばっているのを見て眉を寄せた。
「どうしたのよ。気分悪いの?」
「いや、何でもない」
ここに亨が出てくるなど想像もしていなかった…。優留は端の席に座っておいて良かったと思った。
「松波さんは私と同じT学園のピアノ科の出身で、先日開かれました同大学のOBの演奏会で初めてお会いしたばかりなんです。ですが彼の演奏に大変感銘を受けまして…無理にお願いをして本日ご出演頂きました。後ほど彼にも二曲演奏して頂きます。最後までごゆっくりお楽しみください」
わあ、あの子かわいい!と同僚がピアノの前に座っている亨の姿を見て無邪気に喜んでいる横で、優留は俯いていた。幸か不幸か優留の席から亨の顔はあまりよく見えなかったので少し気は楽だった。そういえば歌手の顔にも見覚えがある。確かにあの演奏会で、亨の前に出てきて歌っていた。
門脇というソプラノ歌手はまず、古典的なクリスマスの歌曲を二、三歌った。高音もか細くならず力強くて艶のある、中々に恵まれた声質だ。
その後でこれがメインのプログラムなのだろう、アヴェ・マリアを歌った。歌手のとうとうと響く一切ブレのない歌唱もさることながら、優留はやはり亨の伴奏に耳がいった。歌手の声量に合わせて絶妙に音を加減しながらも実に流麗だ。歌とピアノの掛け合いがとても生き生きしているように感じる。おそらく、亨の方がうまく寄り添っているのだろう。
歌手のプログラムが終わって拍手を受けると彼女はピアノの前から退いて、左手に用意された椅子に座った。代わりに前へ進み出た亨が一礼する。その様子を優留もつい、客席から伺ってしまう。立ち見も出ていて混雑してはいたが会場は余り広くない。もし目が合ってしまったら…
亨は黒の礼服を着て前髪も少しスタイリングしているせいか、いつもと雰囲気が違った。相変わらず少し緊張しているのか表情は硬く、殆ど笑顔も見せないままピアノの前に座り直した。
イベント向きの選曲らしく、亨はまずリストの『愛の夢』を演奏した。大きなリアクションは一切なく、演奏する姿は実に淡々としているが、亨がその指と鍵盤で紡ぎ出す音は痺れるほど甘く柔らかで、それでいてダイナミックだ。ロマンティック…という、この曲を一般的に形容する言葉が亨の演奏に対しては足らないと優留は感じる。十一月の演奏会でも感じたことだが、亨はあの外見や普段のキャラクターから受ける控えめな印象と、思いがけずスケールの大きい彼のピアノの演奏から受ける印象はかなり異なる。それは二曲目の、ショパンの『バラード第一番』の演奏を聴くと一層顕著になった。柔和さと繊細さ、包容力さえ感じる一方で、身震いするような激しさと冷酷なまでの鋭さが見え隠れする。
亨がピアノに向かって本来の力を見せるほど、彼は一層複雑で謎めいたものになっていく。そして自分も…彼が演奏の合間にふっと翳りを帯びた空白を編む刹那、生まれる妖艶さに心を乱され引きずられるのだ。
諦めるしかないのに、出来ない。日ごと不可能だと思い知らされる。
どうやって、振り切ったらいいのだろう?
演奏が終わるとすぐに優留は席を立ち、混み合うから出よう、と同僚を促し真っ先に会場から外に出た。優留は一切後ろを振り返らなかったが、大きな拍手が彼の背を追ってくるのを感じていた。
「このコンサート、毎年やってるんだけど…終わるまでお客が一人も帰らなかったのは今回が初めて。あなたのお陰ね」
コンサートが終わってバックヤードで休憩している間、門脇麻矢はずっと満面の笑みを浮かべていた。
「僕のお陰だなんて、とんでもないです。呼んでいただいて本当にありがとうございました」
亨は門脇に丁重に礼を言った。この銀座の宝飾店は国内のトップ宝飾ブランドの本店になるのだが、門脇の父親が店長を務めている関係で毎年このイベントが開催されているようだ。
「それにしてもあなたの伴奏、本当に歌いやすくて良かったわ。もうずっとお願いしたいくらいだけど、そんなことしたら鷲見先生に怒られるわね。お前の子分じゃないぞって」
「まさか…あ、お借りした服、クリーニングしてお返ししたらいいですか」
「そんな心配要らないわ。バックヤードのどこかに置いといて。それより本当によく練習してるわよね。鷲見先生にレッスンを受けてるの?」
「はい…月二回だけですが」
「どう?厳しい?」
「厳しくして下さるのは全く苦になりません。それより海外へ行ってコンクールに出ろってうるさく言われるのが困ります…」
「出たらいいじゃない。あなたは出るべきだと私も思うわ」
また始まった…亨は俯いていつもの言い訳をするしかなかった。
「でも、経済的に厳しくて。貯金もないし、親にも頼れる状態じゃないですから」
しかし、亨の言い訳に対する門脇の反応は予想外のものだった。
「あらやだ!そんなことなら私に言って!この会社、音楽家を支援する財団を持ってるの。私も財団からスカラシップを受けて留学したから」
彼女の父を通して支援を受けられないか掛け合ってみるので、鷲見に推薦状を書いて貰うようにと門脇は亨に指南した。
亨はその後、出演料と『食事に誘いたかったけど、どうしても抜けられない用事がある』と門脇が本気で残念そうな顔をして渡してくれたサンドイッチのボックスを受け取って、店舗の裏口から外に出た。そのまま地下鉄の駅へ向かって歩く。
日が落ちて空気が冷たく透き通っているのを感じながらふと見上げると、立ち並ぶ建物に光が灯ってキラキラ輝くのが目に入った。
その光がふいに、涙で曇った。
あれは…優留だった。
演奏が終わってピアノの前から立ち上がった時、サロンを立ち去ろうとしている男女のカップルが目に入った。あの背格好、見間違うはずがない。
優留と同様、すらりと背の高い美人だった。きっとあの店へはクリスマスのプレゼントを選ぶために来ていたのだろう。
彼のような男が一人でいるはずがないと思ってはいた。だけど実際に見てしまったら…。
彼のことを考えるとやっぱり涙が出る。辛いから思い出したくないのに思い出してしまって。どうして自分はこんなに馬鹿なんだろう。
東京から消えていなくなってしまいたい。亨は初めてそう思った。
ここにずっといたら、またあんな風に優留が誰かといるのを見かけてしまうかもしれない。もう嫌だ。耐えられない。
『ご支援を頂けるのでしたら、ぜひ受けて留学をしたいです。申請の仕方を教えてください』
門脇に財団の話を聞いた時、自分でも驚くほどきっぱり答えていた。金銭の問題だけではない。本当はその勇気がなかったから経済的な問題のせいにして考えないようにしていたのだ。それに…まだ心の片隅に優留のことがあった。だけど、もう彼をいくら想っても駄目なのだと思い知った。
日本から出よう。優留のいないところへ行って、全く違う生活をしよう。
そうすればいずれ、彼のことも忘れられる時がくる。
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