アダルトコンテンツが含まれます。
18歳以上ですか?
- 文字サイズ:
- 行間:
- 背景色:
-
133
-
促されるまま外へ出ると、秋も終わりの少し冷たくなった風が頬を通り抜ける。
熱を持った身体にはちょうどよく、冷ましてくれるような夜風はどこか気持ちよかった。
「タクシー呼びましょうか」
「いや、いい。歩いて帰る」
「危ないですよ。そんな状態のまま帰すわけにはいきません」
「へーきだ。誰に物を言っている」
そう言って家に向かって歩き出す。
が、不意に手を引かれた。
そういえば神谷に手を取られたままだった。
「紺野先生の家はそっちじゃないでしょう」
神谷は俺の家を知らないはずだが、読心術とは家を知ることまで出来るのか。
思わず感心していると、勝手に手が引っ張られていく。
薄暗い住宅街を歩きながら、ぼんやりとした頭で熱い手のひらの感触を追う。
まるで七海みたいだ。
離そうとしても離れない、問答無用で引っ張るような行動に、ふふと声を漏らして笑ってしまう。
神谷がそんな俺に気付き、どこか困ったような顔を作った。
「…ああ、いけませんね。そんな表情をされては」
「まるで七海みたいだと思ったんだ」
「七海…?ああ、強引にされるのがお好きなのですか?」
「え?」
キョトンと首を傾げたが、不意にふらりと足がもつれる。
だが神谷がすぐに俺を抱きとめてくれた。
「…あ、すまない」
「紺野先生」
どこか熱を含んだ口調で名前を呼ばれ、同時に強く身体を引き寄せられる。
そのまますっぽりと抱き込まれてしまった。
突然暗転した視界に驚いたが、耳元に感じる息遣いに神谷に抱きしめられていることを知る。
「…すみません。こんな事をしてあとで冷静になったあなたに叱られるのは分かっています。ですがそんな笑顔を見せられてしまっては堪りません」
酒が入っているせいだろうか。
いつもはこんなことをされたらすぐに頭に血を上らせて怒っているだろうが、今はそんな気にはならなかった。
むしろ落ち着いていて、ぼんやりとした頭で神谷の行動の意味を考える。
「やはり俺はまだあなたと一緒にいたい。変わっていくあなたなど本当は見たくなかった…っ」
力強く抱きしめられる感触。
すぐ近くで神谷の胸の鼓動が驚くほど早く聞こえた。
変わらない俺とは大学時代の頃の俺だろうか。
コイツは大学時代からずっと俺を見てきて、まだその姿を追っているのか。
「…ああ、そうか」
ぽつりと呟く。
ふわふわとした頭のまま、俺はそっと神谷の背に自分の手を回した。
「――えっ?」
驚いた声が落ちてきたが、構わず背に回した手でよしよしと子供をあやすように撫でてやる。
自分から抱きしめてきたくせに、俺の行動にどこか動揺したように神谷は息を詰めた。
「…お前はそうやってずっと長い間、誰よりも俺を心配してくれていたんだな」
「こ…紺野先――」
「すまなかった。俺がお前の気持ちをたくさん縛ってしまっていたな」
そう言葉を紡ぐと、神谷がハッとしたように身体を硬直させた。
俺を抱きしめるのは俺よりも断然大きな体で、神谷と言い七海と言いデカい図体のくせにどうしてこう甘えるように人に縋ってくるのだろう。
ふふ、と表情を緩めてまた笑うと、俺は神谷の身体を離して見上げた。
「もういいんだ。今の俺はきっと、お前が憧れた当時の自分とはかけ離れている。でも俺はそんな自分を、ちゃんと納得しているんだ」
「…俺はただ、あなたに後悔してほしくなくてーー」
「後悔はない。それに俺が教師としてしたかったことは、もう叶ったからな」
そう言って夜風を吸い込む。
ふわりと風が髪を揺らして、心地よさに一度目を閉じてから再び神谷へと視線を向ける。
目が合うと、神谷はハッとしたように顔を赤くして視線を彷徨わせた。
「俺は子供の頃から趣味の合うやつがいなくてな。若いうちから自分と同じように数学に興味を持ってくれるやつが増えればと思い、高校教師になった。そして動機は不純かもしれないが、七海が興味を持ってくれた。それだけでもう十分なんだ」
酒のせいだろうか。
妙に饒舌に舌が回り、余計なことまで口から滑り落ちる。
それでも気分は良く、七海のことを口に出せば表情は驚くほど緩んでしまう。
神谷はしばらく惚けるように俺の顔を見つめていたが、やがて緩やかに一つ息を吐き出す。
いつの間にか俺を抱きとめていた手は滑り落ちていた。
「…ああもう、最後まで七海ですか。少しくらい付け入る隙きを与えてくれてもいいじゃないですか」
神谷はそう言ってどこか脱力したように苦笑した。
帰宅して、部屋の電気を付ける。
歩いて帰ってきたため大分酔いは覚めてきていたが、結局神谷はマンション前まで送ってくれた。
帰ったら水分を取ること、飲酒後の入浴は気をつけること、など事細かに世話を焼いて帰っていったが、なんだか酔っている間に大分神谷に辞職について言及された気がしてならない。
時刻は日付を回る手前で、スーツの上着を脱ぎながら神谷との会話を思い返す。
神谷は俺が辞職することを随分惜しんでくれていた。
確かに七海との関係は今年からで、瞬きする間に色々なことが起きて心境の変化があった。
それこそ次に瞬きした時は七海の気持ちも俺の環境も変わっていて、ぽかりと穴が開いたような自分だけが取り残されている可能性はある。
高校教師を辞めることに後悔はないが、七海の気持ちが離れることは怖い。
ネクタイを解いてソファに投げると、ふらりと窓際まで歩く。
七海の心変わりについては、考えても仕方のないことだ。
だがさっきまであんなに強気な態度でいれたのに、一人になると途端に気持ちが不安定になってくる。
おまけにしばらく七海が来ていないこの部屋が、どこか殺風景な気がしてならない。
ポケットから携帯を取り出す。
文化祭の時に不安になったら電話をしていいかと聞いたら、いつでもしてくださいと七海は言ってくれた。
今がするべき時なんじゃないだろうか。
きっとアイツの声を聞けばこんな気持ちはすぐに楽になる。
あの元気な声が、俺に安心感を与えてくれる。
だが携帯を見つめたまま、通話ボタンに触れる勇気がでない。
このまま酒の力を借りて、と思えば思うほど酔いがどんどん覚めていく。
考えている間にあっという間に時刻は日を跨ぎ、未成年に電話をかけていい時間ではなくなる。
明日は週末で休みだから、まだ起きているかもしれない。
だが勉強をしているかもしれない。
邪魔をしてしまうかもしれない。
どうしよう、どうしようと気持ちばかり焦るが、それでもアイツの声を聞きたいという気持ちは止まない。
散々悩んだ挙げ句なけなしの勇気を振り絞って、俺はようやく七海へと電話を掛けた。
現在の設定
文字サイズ
行間
背景色
×
141 / 209