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― ep.3 ―(7)
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昨日夜中までかかって家で下絵を完成させてきたので、
今日は最初から色塗りができる。
中学の時はやることを自分で選べなかったけれど、自由に活動できる今は、
こうして美術室を使える時間はなるべく全部を着色に当てられるようにしている。
自宅の部屋は狭いので、あまり絵の具などを広げられないし、
机は画用紙を置いたらいっぱいになってしまうので、
床に水バケツを置いて蹴り飛ばしたことも一度ではない。
だから道具を広げる必要のある着色作業を部活中に思う存分やるために、
家でもできる鉛筆書きは睡眠を削ってでもやれるだけやってくる。
宿題を完璧に終わらせてきたような達成感も手伝って、
ウキウキした気分でスケッチブックの上に色を乗せていく。
やっぱりこの作業が一番好きだ。
少しの間隔を取って横の位置に座る阿部先輩は、
黙々とキャンバスへ木炭を走らせ、頭の中の世界を目に見える形に表してゆく。
窓の方では部長が手元にいくつもの資料を並べながら、
そこにあるのと全く同じ色を忠実にパレット上に再現し、
寸分の狂いもなくキャンバスの下絵に添ってその色を配置している。
美術室の中心辺りでは副部長が、
長身にそぐわない手のひらサイズの小さな木片を、
眼鏡の奥から射抜くように鋭く見つめ、
彫刻刀1本でみるみるうちに細やかな和草の形を彫り込んでゆく。
亜稀が欠けている分はどうしても埋められない物足りなさがあるけれど、
いつもの美術部の風景に目をやって、
いつもと違うそわそわした気持ちを大分落ち着かせることができてきたようだった。
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すっかり絵に集中できるようになっていた頃、
何となく視線を感じて振り向いたことで、
やっと手に入れた心の平静が一瞬にして葬り去られることとなった。
「わあぁっっ!?」
「えぇ〜…? そんな驚かなくても…」
振り向くと、いつ足音も立てずにやって来ていたのか、
すぐ斜め後ろで砂原先輩が俺の絵をジーっと見ていた。
「す、すみません…。
集中してて気づかなかったから、振り向いてびっくりしちゃって…。
…あの、いつからそこに?」
俺の大声にちょっと引いていたはずの彼は、
聞くやいなやすぐにクスクスと笑い出して、面白そうに答えてくれた。
「けっこう前から居たよ?
キミの絵ずいぶん面白いんだなって思って、しばらく見てた」
「え……?」
思わぬ言葉に、どう返したらいいものか迷ってしまった。
これは、褒められていると思っていいのだろうか…?
――いや、そんなのどっちだっていい。
俺の絵に興味を持って見てくれていた。
それだけで、これ以上ないほど嬉しかった。
「水彩でこんな力強い絵を描く人って、なかなかいないよね」
あー、やっぱりそこか。
予想通りというか、そこは中学の美術部でも 一番よく言われたところだった。
「ウチ、あんまり裕福じゃなくて、
自分の作風に合わせて画材を選ぶことがちょっと難しかったんですよ。
中学の時に用意できたのが、授業で強制的に買わされる絵の具セットだけで」
ふと周りを見ると、部長達も興味深そうに俺の話を聞いていた。
阿部先輩だけが変わらず黙々と作業を続けている。
「先生とかには、逆に水彩に合わせた淡い画風にしてみたら?とか言われたんですけど。
そんなの悔しいと思っちゃって。
そしたら、なんかどんどん、こう……」
「ますます力強くなっていった?」
「そうなんですよね〜…」
まぁ、半分はそんな意地みたいな気持ちだったけど、画材に合わせて作風を変えるような器用なことはできなかったっていうのがもう半分というか…。
水彩ならではの柔らかくて繊細な絵は、俺にはどうも向いていなくて。
だからキッパリ諦めて自分らしい絵を描いていたら、だんだんとそれが個性として認められるようになってきたんだ。
真剣にプロを目指して美術をやっている人だったら、きっとそんなふざけたことは許されないんだろうけど。
趣味でやっている身としては、ただ自分が楽しいと思うことを好きなようにやりたいっていう、それだけなんだよなぁ。
「キミって、素直なんだね」
「――え? そ、そうですかね?」
(まぁ、それもよく言われることではあるんだけど……)
これは、どういう意味で言われているんだろう…?
何となく、どこか含みのあるような言い方に聞こえた気がして。
その顔をついじっと見つめてしまったけれど、人懐っこく輝かせたお決まりの笑顔からは、何も読み取ることができなかった。
……いいや、どういう意味でも。
というか、もう……何でもいいや………。
この距離が、時間が、何も考えられなくする。
小学校の時、好きだった女の子がその子のほうからキスしてきた時も、こんなふうにはならなかった。
自分の中で眠っていた、目覚める予定のなかったものが、こんな短い時間で次々と呼び起こされて……
急激な変化に飲み込まれるのが恐ろしくなる。
ここは部室なのに。みんな見ているのに。
――今みんなが見ている俺が、いつもの普通の俺じゃないということが、自覚すればするほど恐ろしくてたまらなくなった。
いてもたってもいられなくて、ここから逃げ出したいと思い始めた時。
凛とした声が、意外な横槍を入れた。
「逸彦、お前はもう帰れ」
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