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雨の中で出会ったのは
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◇
脳に慣れた異国文字の中で、たった一つでも知らない単語が出てくると無性に苛立つ。
瀬田(せだ)巽(たつみ)は奥歯で煙草のフィルターを噛み潰しながら舌打ちし、くたびれた鞄から仏英辞書を取り出した。窓を打つ雨音にさえ苛立ちながら、裕に二キロ弱はある分厚い辞書をめくる。
なんとか目当ての単語を見つけ出したものの、辞書の翻訳自体が英語のため、それをさらにどんな日本語に置換すべきか、また頭を悩ませなければならない。肩を怒らせながら乱暴にキーボードを叩き打っている間、知らず悪癖の舌打ちを繰り返していたのだろう。
「あんまりカッカしないでよ巽君。他のお客さんが怖がっちゃうでしょうに」
コーヒーのカップを下げながら小太りの店主にたしなめられ、苦笑とともに煙草をねじけした。
「他の客って……。どこに俺以外の客がいるってんだ? あ?」
「わあもう口が減らないなー。コーヒーのお代わり有料にするよ?」
薄暗い店内をわざとらしく見回して言うと店主である日阪(ひさか)がムッと唇を尖らせた。ぷくぷくとダルマのような体つきをしているせいで、威厳を出そうと腕組をしようにも腕の長さが足りず、一人で苦戦している。大学時代からまったく変わらない友人に爆笑しつつ、ちゃっかり六杯目のコーヒーをオーダーした。
「あーヤダヤダ。遠慮のないお客さんってほんと迷惑」
「その客を目の前にして言うか」
やれやれと首を振りながら去っていく背中に苦笑する。まあ、遠慮がないのは事実。
翻訳作家を生業とする巽にとってここは第二の自宅と言っていい。長時間の執筆には気力と集中力が必要だが、一所で延々と同じ作業をするよりも、時折場所を変えた方が効率的だと知っている。それに、いくら友人が経営する喫茶店とはいえ、ここなら睡魔に負けてつい横になってしまうということもない。自宅だとすぐに眠ってしまい、よく締め切りを落としそうになるのだ。
平日ならうるさい客はほとんどおらず、何時間いようとさほど文句は言われず、美味いコーヒーは飲み放題。こんな穴場の仕事スポットはそうそうないのだから、入り浸るのは当然だろう。
とはいえ、もうかれこれ五時間になる。さすがに肩の筋肉も凝り固まってきたし、そろそろ帰って一眠りした方がいいかもしれない。
そう思いながらもなかなか重い腰を上げられず、本日何本目になるかも分からない煙草に火をつけた。
「それで、どうなの?」
「なにがだ」
コーヒーを運んできた日阪の問いに空とぼける。進んで話したい話題でもなかった。
「真志(しんじ)君、まだダメ?」
だというのに、この男もしつこい。舌打ちをかろうじて飲み下し、ふーッと煙草の煙を吐き出す。
「出て来ねぇよ。俺の顔なんざ見るのも嫌らしい」
こちらの端的な答えが気に入らなかったらしい。日阪はお人よしそのものといった温和な顔を僅かにしかめ、肩を下げる。
「またそんなこと言って……。君がちゃんと向き合ってあげなきゃ、ずっとそのまんまだよ?」
「うるせぇな」
真摯な言葉に今度こそ舌打ちし、やけ酒代わりにコーヒを煽った。どんなに美味いコーヒーでも六杯目となるとさすがにきつい。
「ったく、余計なお世話だっつってんだろ。毎回毎回」
心底煩わしく思いながらテーブルの上に乱雑した私物を鞄に突っ込んでいく。
今さら、誰かに説教などされるいわれはない。日阪にしてもそうだ。
大学時代からもう十年来の友人だが、私生活にまで踏み入ることを許した覚えはなかった。心配してくれているのは分かるが、正直に言ってありがた迷惑でしかない。
「じゃあな。また来る」
「ちゃんと向き合わなきゃダメだよ。巽君だって、今のままじゃつらいだけでしょ」
「分かってる」
小うるさい友人に苦笑を返し、店を後にした。
今年の梅雨はうんざりするほどの豪雨続きだ。小走りで車に駆け込み、家路を目指して発進させた。
途中、コンビニに立ち寄って弁当とコーラを買う。部屋から出てこようとしない真志のためだ。
(あいつってなにが好きなんだろうな)
今年八歳になる息子のことを、巽はなに知らない。血は繋がっているが、生まれてから一度も会わずに過ごしてきたのだ。
大学時代、ちょっとした好奇心で女と寝た。もともと自分は男にしか興味がなかったのだが、二十代始めにして、一度くらい女を抱いてみたくなったのだ。さしたる覚悟もなく手を出し、最終的には逃げた。
他人に対して、人並み以上にストイックでドライな関係を望む傾向がある自分にとっては、彼女の心はやや重すぎた。
最初こそ面白半分で付き合ったが、そんな好奇心はあっという間に枯れる。自分の性癖を隠して無理に笑うのにも限界があった。彼女が自分に惹かれれば惹かれるほど、こちらの心は急速に冷めてしまった。
なんの前触れもなく別れ話を切り出した際、当然彼女は激怒し、泣きじゃくった。左頬を打った鋭いあの手のひらがある種の恐怖を呼び覚ましたことを、今でもはっきりと覚えている。
ずっと幼い頃、自分がただ一人縋れる相手であったはずの母親から、幾度となく同じ痛みを与えられた記憶があった。
やっぱり自分に女は無理なのだと再確認するはめになっただけで済めば、まだ良かっただろう。だが、運命はとかく残酷なものだ。
愛も恋もせず、ただ一時の欲情に身を任せた結果、子供が出来た。分かったのは別れてから数ヶ月経った後だ。
あの時、自分はまだ二十二。彼女も二十三で、結婚はそもそも考えられなかった。
『俺は女を愛せない。お前のことも愛してない』
別れる際、はっきりとそう告白してしまったことを、あのときになって初めて後悔した。彼女は自分と一緒になりたがったが、その言葉を取り消すことなど出来るはずもない。
愛せないのに、傍にいるなんて不可能だ。そんな歪な関係は遅かれ早かれ破滅する。
どうしても子供は産みたいと言う彼女に、しぶしぶながらも頷き、認知することに関しても同意した。条件はたった一つ。
『産むのは勝手だけどな、俺は絶対にそいつにゃ会わねぇぞ』
きっぱりと告げ、それきり彼女とも会わなかった。どこまでも自分勝手に突き放し、己の過ちから目を背けて逃げ出したのだ。
だから、罰が当たったのだと分かっている。
けたたましい警告音とともに遮断機が下がり始め、舌打ちとともにブレーキを踏む。フロントガラスを打つ雨に苛立ちながら右往左往するワイパーをぼんやり眺めた。
彼女が死んだのは自分のせいだ。分かっている。
二ヶ月前、深夜二時過ぎの電話が、自分にとって最も酷な事実を淡々と伝えてきた。
大学を中退した彼女は、たった一人で息子を――真志を育てていたと言う。頼れる身内もなく、たった一人で。その結果、過労で倒れた。
朝も晩もなく働き、息子を育てるための金を稼ぐのに必死で、自らの身を省みなかったのだ。気づいた時にはなにもかもが手遅れで、あの電話があった日の午前中、搬送先の病院で息を引き取ったと言う。
(俺がちゃんと、気をつけていりゃ良かったんだ……っ!)
やるせなさと自らへの怒りから、思わずハンドルを殴りつけた。
自分は金に困っていなかった。家族とは疎遠だが、自分の手で余るほどの金を稼いでいた。ほんの少しでも、彼女に対して責任を持っていたら、生まれた子供に対して愛情を向けられていたら、こんな結果になるわけがなかった。
最低限の責任すら果たさず、たった一人の命を見殺しにした自分に、今さらなにができるというのだろう。
身寄りのない真志を引き取って、それで罪滅ぼしができるとでも思ったのだろうか。
「クソッ!」
なかなかやってこない電車にすら憤り、髪を掻き毟る。
家に帰っても一人だ。真志は部屋から出てこないし、口も利かない。たまにトイレや風呂のときだけ部屋を出て、後はひたすら引き篭もっている。
感情が壊死したようなあの顔を見るたび、どうしようもなく苦しくなるのだ。責められるのは当然で、仕方がないのに。
(ごめんな……こんな俺が父親なんて、ありえねぇよな……)
若気の至りで笑い飛ばせない過ちが、この世には確かに存在している。真志のことも、彼女のことも、自分が一生を掛けて償っていかなければならないのだろう。
だが、その覚悟があるのかと言われれば、ないと答えるしかない。どうすればいいのか、自分にも分からない。
無機質な雨音と遮断機の警告音を耳にしながら途方に暮れていると、視界の端でなにかの動きを捉えた。
湿気で曇った窓を拭い、雨に煙った外を眺める。人だ。
(なんだあいつ)
一人の若者が、ふらふらと頼りない足取りで車の横を通り過ぎて行った。この豪雨だと言うのに傘も差さず、着ている服も寝巻きのようにだらしない。
一目で、不穏な気配を感じ取った。
「おい……おい、おいっ」
呆然とした足取りの若者を目で追い、思わず声を上げる。若者は目の前の踏み切りに気づいていないのか、それとも気づいていてあえてなのか、遮断機を跨いで線路へと進んでいた。
いつ電車が来るとも知れないのに。
「じょ、冗談じゃねぇぞっ……!」
全身から嫌な汗が噴き出し、動揺しながら慌ててシートベルトを外す。
目の前で人が電車に撥ね轢かれる現場など、死んでも見たくない。
転がるようにして車外に飛び出すと、耳を劈くような雨音が降り注ぐ。ずぶ濡れになるのも構わず走り、躊躇いなく遮断機の中へと飛び込んだ。
「なにやってんだてめぇっ!」
線路の中央で蹲った男を引きずり起こし、無我夢中で遮断機の外へと飛び出す。その直後、電車が通過した。
「はぁ……はぁ……」
あと数秒遅ければ、自分までもが轢き殺されていただろう。遅れてやってきた恐怖心に、束の間言葉すら失った。
「っこの馬鹿野郎が!」
湧き出たアドレナリンのせいか感情が昂ぶり、ほとんど反射的な動きで若者を殴り飛ばす。
若者は抵抗なく地面に倒れたが、そのままピクリとも動かないのを見て、さすがに我に返った。
「お、おい……大丈夫か?」
恐る恐る、濡れそぼった肩を揺する。薄い目蓋がピクリと震えたかと思うと、そっと目が開いた。
ぼんやりとしたまま、緩慢な動作でこちらを見つめるその瞳に、一瞬息が止まる。
なにも見ていない。そう感じた。
二十代半ば頃だろうと思しき青年は、紙のように白く青褪めたまま、無表情で起き上がる。仄暗い瞳に映っているのは自分ではなく、果てしなく空虚な暗闇だった。
追い詰められた人間特有の闇を湛えながら、青年はゆらゆらと一向に定まらない視線を辺りに向ける。
そして一言、呟いた。
「余計なこと、すんなよ……」
「な、」
(なんだと?)
余計なこと、と言った。命を救ったというのに、それが余計なことだったと。
絶句しながら、目の前の青年を見下ろす。力なく地面に座り込んだまま、動く気配がなかった。
ビーッと鋭いクラクションの音が聞こえ、慌てて振り向く。いつの間にかかなり車が増えていた。先頭の自分が動かないことに不審がり、苛立つ気配が満ちている。
「とにかく立て」
このとき、どうして放っておけなかったのか。見ず知らずの青年を強引に引き起こし、車に押し込んだのはなぜなのか。
例えその理由が、積み重なった自己嫌悪や罪悪感からの逃避だったとしても。
この出会いが、自分の人生を大きく変えることになるなんて、このときの巽は露ほども思っていなかった。
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