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見守る者たち
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「お、ちょうど傘二本あるやん」
ラッキーやな、と口にしかけ、夜須はふと口を噤む。外出している人数と玄関にある置き傘の数がどう考えても合わない。ここに二本あるということは。
「ひょっとして洸ちゃん、傘差してへんのとちゃうか……」
「たぶん、慌てて出て行ったんだよ」
「ちゅうことは、今頃ずぶ濡れやん!」
雨脚は若干弱まっているが、それでも傘なしで出歩けるほど生易しくはない。
「早く見つけてあげないと」
日阪に急いた口調で促され、傘を拝借して外へ出た。
「巽君の家から学校までって、だいたい一キロもないんだよねぇ。この辺りを探してるならとっくに往復して戻ってきそうなものだけど」
「せやな……」
きょろきょろと辺りを見回しながら言う日阪の言葉に同意しつつ、夜須はすでにおおよその見当をつけている。
この雨。
傘の中から曇天を睨み上げ、舌打ちを零す。
(一体いつまで降り続く気や)
こんな雨の中、傘も差さずにたった一人駆け出して行った青年を思うとやりきれない気分になった。
以前、巽に頼まれて洸季の生い立ちを調べ上げたことがある。それはあまりにも惨い過去で、できるなら知りたくなかったとすら思う。
雨の日。暗い時刻。そして、この通学路の途中にある河川敷。全てが嫌でもその過去を彷彿とさせた。
彼が真っ先に来る場所は、ここしかないだろう。
「どうしたの?」
土手の上で唐突に立ち止まった自分に、日阪が怪訝そうな声を掛けてきた。答える間すら惜しんで、携帯のライトで土手の下を照らす。そのまま慎重に土手沿いを歩いた。
程なくして夜須は自分の読みが正しかったことを知る。
「おった……」
土手を滑り落ちたのだろうか。泥だらけの背中は遠目にも震えているのが分かった。
「あれちゃうか?」
「あっ! 洸季君っ!?」
やや遅れて日阪も気づいたらしい。注意深く足元を探りながら二人で土手を下りる。足元は不快なまでにぬかるんでいた。
「洸季君、大丈夫?」
駆け寄った日阪が呼びかけても、洸季は全くの無反応だ。座り込んだまま、荒れた川を眺めていた。放心したようなその瞳はどこまでも虚ろだ。
(ああ、これはアカン……)
凍りついたようなその横顔を見た瞬間、あのときの痛みがぶり返した。
彼の素性を調べ、その凄惨な過去を垣間見たときの、胸を裂くようなあの痛み。
「洸ちゃん、聞こえるかいな?」
洸季の傍にしゃがみ、そっと顔を覗き込む。すっかり身体が冷え切っているのだろう。真っ白な頬には生気の欠片もない。
まるで人形だ。
せめてこれ以上濡れないようにと、夜須は手にした傘を洸季の方へと傾ける。
「洸季君、真志君は見つかったよ」
日阪が声を掛けると、洸季が大きく目を見開いた。ガラス玉のようだった瞳に光が戻る。
洸季は緩慢な動きで日阪に顔を向け、薄く唇を開いた。
「本当……ですか……?」
「うん。今、巽君が迎えに行ってるんだ。だからもう大丈夫」
日阪が頷くと、洸季は顔をくしゃくしゃに歪めて引きつれた吐息をつく。震える両手を組み合わせ、祈るような仕草で額に押し付けながら声を絞り出した。
「よかった……っ」
洸季は震えながら、何度も何度も同じ言葉を繰り返す。よかった、よかった、と。聞いている方がつらくなるような声だった。
「大丈夫。大丈夫だよ」
日阪がなだめるように背中を擦っている。
(これはなんちゅーか……)
夜須は微かに眉をひそめ、嘆息した。
巽が過剰なほどに心配するのも当然だ。
あまりに脆く、過ぎるほど繊細。自らの衝動一つであっけなく砕け散ってしまうような危うさは、理不尽な過去が彼をそう育んだのか、あるいは生来の気質なのか。
洸季は、放っておけば一人でにどこかへと消えてしまいそうな印象がある。危なっかしくて、とても一人にできない。
「ほんまに真ちゃんも人騒がせな子やなー。今頃たっちゃんにこっぴどく叱られてんのとちゃうか?」
意識的に明るい声を出すが、胸中では未だに鈍い痛みが続いていた。
今回は二人とも無事だったからいいようなものの、下手をすれば洸季は自分の命すら投げ打っていたかもしれない。過去に再三、そうしたように。
(たっちゃんもな……)
二人がいないと気づいた巽の様子を思い出し、ふと顔を曇らせる。
巽とは十年来の付き合いだが、今日ほど取り乱した姿は初めて見た。
巽は、大切なもの失う恐怖を痛いほど知っている。家族も恋人も、結局は彼を置き去りに皆いなくなった。それ以来、巽はずっと一人で生きてきたのだ。孤独に怯えるがために、たった独りで。
そんな男が、再び得た〝家族〟――。二度と失わないように細心の注意を払ってきた中で、今日みたいな出来事が起きた。その恐怖心は想像に難くない。
もしも二人が無事じゃなかったら、巽がどうなっていたか。そう考えると空恐ろしくなった。
つくづく、二人とも無事でよかったと思う。
「立てる?」
「はい……」
洸季は日阪が差し伸べた手をおずおず掴んで立ち上がる。真志が無事と分かってずいぶん気持ちが落ち着いたらしい。いくらか血色もよくなっていた。
「これ使いや」
髪からポタポタと雫が垂れていたので、夜須はすかさず胸ポケットのハンカチーフを差し出した。
「あ、ありがとうございます……」
洸季は律儀に頭を下げてそれを受け取ったあとで、まじまじとこちらを見つめてきた。きょとんとした顔には、はっきりと『Who are you?』の言葉が浮かんでいる。
(いや、今さら気づいたんかい!)
ずっとおったがな。なんなら声も掛けてたやん。
「そ、そう言うたら初めましてやんな?」
夜須は内心激しく突っ込みつつ、とっさに穏健スマイルを取り繕った。ちょっぴり傷ついてなどいない。断じて。
「わいは夜須千影っちゅーもんや。よろしゅう」
普段なら職業やら趣味やら特技やらのPR事項が続くのだが、目の前の青年にそれを明かすのはなんとなく憚られたので省略する。
「初めまして。名雲洸季です」
洸季は特に疑問を抱いた様子もなく、丁寧に名乗り返してきた。
「なんや、綺麗な名前やなー」
本当はだいぶ前から知っていたフルネームだが、あえて初めて聞いたような反応を返した。その裏で、日坂にはハリボテの笑みを持って牽制する。
『余計なこと言うたらアカンで?』
初対面の相手なのに、自分の過去や生い立ちの全てを知られていると分かったら、さすがに気持ち悪いだろう。
自分が逆の立場でも、ゾッとする。
圧力的な笑みに意図を察したのか、日阪は複雑な瞬きを繰り返して小さく頷いた。
「あの……」
「うん? なんや?」
夜用の甘い笑顔を向けると、洸季はためらいがちに口を開く。
「夜須さんも日阪さんも、真志君を捜してくれていたんですよね。本当にありがとうございました」
生真面目に礼を述べて深々と頭を下げる洸季は、大きな勘違いをしているようだった。そう気づき、日阪と無言で視線を交わし合う。
自分たちが捜していたのは洸季なのだが、わざわざそれを指摘するのも嫌味のようだから、やめておいた。日阪が無難に言葉を繋ぐ。
「うん、洸季君も無事でよかった。巽君がすごく心配してたから」
「あ……。そう、ですよね……オレ、勝手に家出てきちゃったから」
巽に心配をかけたことに気づくなり、洸季が申し訳なさそうに肩を落とす。
「とりあえず帰ろか? ずぶ濡れのまんまじゃ風邪引くで」
「うん。料理も冷めちゃうし、じきに巽君たちも帰ってくるよ」
揃って柔らかな言葉をかけると、洸季はハッとしたように目を見開いた。自分が真志のために夕食を作っていたことを、やっと思い出したらしい。
「はい」
ふわりと微笑んで、洸季が頷く。その笑顔を見た瞬間、自然と頬が弛んだ。
「なんや、笑(わろ)たらめっちゃ可愛ぇやん」
「えっ?」
思ったことがうっかりそのまま口をついて出た。ぎょっとしたように硬直した洸季の隣で、日阪が小さく苦笑する。
「千影くん、素が出てるよ」
「ちゃっ、ちゃうねんっ! 今のは別に下心とかやない――って、洸ちゃんっ!? なんでそっち側いくねん!」
「え……特に理由はないですけど……」
洸季はじりじりとあからさまに警戒しながら、日阪が差す傘の下に隠れた。
「そんな変な格好した人から〝可愛い〟なんて言われたら普通に怖いと思うよ」
日阪からはなぜか同情的な眼差しを向けられる。
「あの……どうしてタキシードなんですか?」
日阪を若干盾にしつつも、洸季が問いかけてきた。
「そらあれや、わいも真ちゃんの誕生日祝いにな?」
「呼ばれてないのにねぇ」
「せやかて、洸ちゃんの手料理めっちゃ美味しいらしいやん? たっちゃんがよう褒めとったから、気になって気になってしゃーないねん」
正直にそう言うと洸季は目を丸くし、やがて困ったように微笑む。
「巽さんはいつも大げさに褒めてくれるから、オレ、自分が本当に上手く作れてるのかどうか自信がないんです」
だからあまり期待しないで欲しい。そんな謙虚な言葉に、日阪と二人で苦笑した。
「巽君が他人の料理褒めるのって、本当に珍しいんだよ? 僕なんか喫茶店開いたばっかりの時、コーヒーの味に散々ダメだしされたもん」
「せやでー。わいが焼いたったパンケーキも『石炭』呼ばわりしたしなー」
「結構、味にうるさいんだよねぇ」
「ええお姑さんになれるで」
ついつい弾んでしまう軽口を、洸季は楽しそうな顔で聞いていた。
その笑顔を見て、ふと思う。早く、三人が揃えばいいのにと。
巽と真志と洸季。この三人は互いに互いを必要としていて、けれどまだ完全には噛み合っていない歯車のようなものだ。
特に食い違いが激しいのは真志だろう。
些細な行き違いが、今回のように深刻な事態を招き寄せてしまうこともある。
(わいはただの傍観者やけど……)
今回のように、彼らが必要とするならいくらでも力になる。
きっと日阪も同じだろう。
長い付き合いである自分たちにとっては、巽が他人のために変わっていくことが素直に喜ばしいのだ。
あの偏屈で人嫌いな巽が、誰かを必要とし、必要とされる存在になったことが。
早く三人が揃えばいい。二度と離れないように、壊れないように。
彼らの歯車がきっちりと噛み合う日は、そう遠くないはずだ。
(きっと、あと一歩や。そうやろ?)
今頃は息子と一緒にいるだろう友人にエールを送りつつ、洸季の無事を知らせるために通話ボタンを押した。
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