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あの頃
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※
クラスに一人は、標的にされる生徒がいた。大抵は勉強が苦手だったり、見た目が冴えなかったり、逆に目立ちすぎていたりすることが原因で、本人に落ち度はない。
「やめろよ、そういうの」
笑いながら教科書を破っている男子に声を掛けたのは、ただ目障りだったからだ。やられている生徒が半笑いなのも気に障った。
(嫌なら嫌って言えよ、弱虫)
内心毒づき、正義漢ぶって前に進み出た。学級長という肩書きを持つ者としては当然の行動だ。これも内申に影響するだろう、という打算もあった。
翌日から標的は自分になった。自分が庇った生徒までもが加害者にすり替わり、味方は一人もいなくなってしまった。否、最初からそんなものはいなかったのかもしれない。
恥ずかしくて誰にも言えなかった。自分がどれほど惨めな学校生活を送っているのか、特に両親には知られたくなくて、ただひたすら耐えた。
最初は些細な悪戯。机や教科書の落書きや、上履きに生ゴミを入れられる程度のものだった。そのうち飽きるだろうと放置したのが裏目に出た。
暴力はいつも、人目につかない校舎裏やトイレで振るわれた。服で隠せる腹や太腿を執拗に蹴られ、殴られ、消えないマジックで卑猥な単語を書き込まれた。
どれだけ嫌だと言っても、奴らは笑うだけだ。嫌がれば嫌がるほど楽しそうに。
恥ずかしかった。誰にも知られたくない。その一心で口を閉ざし続けた。それをいいことに、いじめはエスカレートしていく一方だった。
(弱虫なのはどっちだ……)
誰にも助けを求められない、こんな自分が恥ずかしくて仕方がない。
いっそ消えてしまおうか。そんなことを思うようになるのに、さほど時間は掛からなかった。
その頃から、学校の中で唯一、呼吸が楽にできる場所に出入りするようになった。屋上だ。
生徒の立ち入りは禁止されているが、そこの鍵はいつも開いていた。ピッキングの上手い誰かが、いつも強引にこじ開けるからだ。
重い扉を開くと、吹き込む風が鋭く顔を打つ。その風に紛れて微かに煙草の臭いがする。
その男はいつも手すりにもたれて、気だるそうに空を見上げていた。左手に煙草を燻らせながら。
それが新任の久古貴彰という教師だと知ってはいたが、声を掛けることも、逆に掛けられることもなかった。
ただ、どこか自分と似たような雰囲気を互いに感じ取っていたことは間違いない。例えば、削いだように表情のない横顔や、全身で他人を拒絶するような雰囲気。まるで鏡合わせのように似通った自分たちは、だからこそ互いを空気のように無視し合った。
久古はいつも一瞬だけこちらを見るが、すぐに興味ないというように視線を逸らす。爽太も同じだったし、下手に声を掛けてこられたら、その方がよほど嫌だった。
一人でいたい。その願いを、まるで知っているかのように、久古は自分に構ってはこなかった。
学校という窮屈な箱の中で、唯一開放的な空間である屋上は、行き場のない自分を受け入れてくれる。そんな錯覚に縋るほど、精神が参っていたのだ。
あの手すりさえ越えてしまえば、いつでも終わりにできる。その事実だけが慰めのようで。
その日も散々な暴力で弄ばれた後、ふらつく足で屋上に向かった。引きちぎられてはだけたワイシャツを掻き抱き、重い扉を押し開く。
やはり久古はそこにいた。だがこの日はいつもと違い、自分に目を向けた久古が微かに眉をひそめ、薄い唇を開く。
「誰にやられた?」
初めて聞いた声はとても低く、感情もなにも込められてはいなかった。
唐突に破られた沈黙に困惑し、牽制の意を込めて睨み返す。
「……あんたに関係ねぇだろ」
踏み込まないで欲しかった。放っておいてくれれば、それでいい。この男にならそれが分かるはずなのに、どうして今日に限って話し掛けてくるのだろう。
風でワイシャツの裾が乱れ、その下の素肌が晒される。久古の目は確かにそれを捉えていた。惨めな気分になり、知らず俯く。
小さな溜め息が聞こえてきた。久古は視線を逸らして手すりにもたれ、慣れた動作で煙草に火をつけている。その動きを無意識に目で追い、ふと心臓が凍りつくようなものを見てしまった。
炎天下の屋上は当然暑かったのだろう。久古はいつも長袖のワイシャツを身に付けているが、この日ばかりは袖を捲くっていた。
その腕にぞっとするような傷痕があるのを見て、思わず口を開く。
「……なに、それ」
青く血管の浮いた腕に、焦げたような小さな火傷の痕がいくつも残っていた。一見して古いと分かるものもあれば、つい最近ついたのか、血が滲んでいるものもある。まるで煙草の火でも押し付けられたかのような、生々しい傷痕だった。
「それ、誰にやられたんだよ……?」
踏み込むべきじゃない。そう分かっていても、聞かずにはいられなかった。
久古はつと自分の視線を追い、目を眇める。久古は何も答えなかった。視線を逸らし、深く吸い込んだ煙を空中に吐き出す。しばらくしてからやっと、久古が呟いた。
「……母親」
淡白な声で呟いた久古の横顔に感情はない。
今の自分と同じだ。誰に何をされても、何も感じない。痛みも、悲しみも、怒りも。
本人が感じられないそれらの感情を、なぜか我がことのように感じ、爽太は顔を歪めた。
「なんで……? あんた、なんか悪いことしたのかよ?」
そうだとしても、久古は大人なのに。どうして母親からそんな手酷い暴力を受けなければならないのだろう。
あまりの理不尽に憤った爽太は続く久古の言葉に絶句した。
「……生まれてきたから、だろうな」
自嘲じみた微笑みを浮かべる久古に、掛ける言葉など見つかるはずもない。
生まれてきたから? それが罪だとでも言われたのか。母親に?
久古が抱えているものは自分の悩みなんかよりもずっと重く苦しいものなのだと、このとき初めて思い知った。
「それで? お前は誰にやられたんだ?」
胸が詰まって何も言えずにいる自分に、久古は静かな声で問い掛けてくる。ここで答えないのはフェアじゃない気がして、しずしず口を開いた。
「……同じクラスの奴ら。最近は先輩たちも混ざってる」
「相手は何人だ」
「……たぶん、六、七人。数えたことないけど」
「担任は知っているのか?」
「たぶん、知ってる……と思うけど」
けれど、自分のクラスに火種があるという事実に、あの教師は向き合う気がないようだ。机に花瓶が置かれていても、制服が不自然に乱れていても、何も気づかないかのように目を逸らしている。
あんな教師に、何を言っても無駄だろう。別に助けを請おうとも思わない。
「……そうか」
低く呟いた久古が、手のひらで煙草を握り潰す。熱くないのだろうか。
「あんたさ、頼むから誰にも言わないでくれよ」
思わず出た声は、自分でもどうかしていると思うほど切実だった。
「ちくったなんてバレたら俺、何されるか……」
「ならお前は、一生そのまま這いつくばって生きていくつもりか?」
鋭い言葉に目を見開く。
「それなら別に止めはしない。好きにしろ」
突き放すように言い、久古は屋上から去っていった。その背中が遠く感じ、爽太は一人、きつく拳を握り締める。
這いつくばって生きていく。そんなのはまっぴらだ。
(だけど……っ)
どうしようもない。どうすればいいのか分からない。
「もう、分かんねぇよ……っ」
膝から崩れるようにして座り込む。陽に熱せられたコンクリートに触れながら、爽太は泣くこともできず途方に暮れた。
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