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18 マエストロ2
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「母さんには幸せな時ってあったの?」
「幸せな時?」
「……おれ。怖くって……」
広間を行き交う人を見詰めながら蒼は呟く。
「今、好きな人と一緒にいることができて幸せなんだけど」
膝の上に乗せた手を握り締めて蒼は俯く。
「怖いんだ……」
苦しい。
喉の奥から搾り出されるようなその声は、彼の本音だろう。
空は蒼の肩に手を乗せ、もう片方の手で俯いている彼の頭を撫でる。
「怖いのね。蒼」
ビックリして視線を上げると、彼女は微笑を浮かべていた。
「蒼は可愛いわね」
「母さん……」
「蒼は幸せに慣れていないだけよ」
「幸せに、慣れていない……?」
「そう。大丈夫よ。あなたの選んだ人なのでしょう?信じていいのよ?」
「……」
「そうね。私にも幸せな時期はたくさんあったのよ。最初は蒼の本当のお父さんとお付き合いしていた頃。そして栄一郎さんと結婚できたこと。だけど、私は弱い女だった。幸せを自分から壊してしまったの」
蒼を優しく引き寄せ、空は静かな声で続ける。
「熊谷家に入ってよかったって思ったわ。蒼にもお父さんと兄弟が出来たし。だけど、私も怖かったの。幸せになっていく自分が……。これでいいのかって。今、ここでこんな幸せを手にしたら、もうもらうことが出来なくなってしまうんじゃないかって……」
「……」
自分と同じだと思う。
蒼も思っている。
怖い。
幸せをもらってしまったら。
すぐになくなってしまうんじゃないか?
もうもらうことが出来ないのではないか?
「似ちゃったのねえ。そういうところ」
「母さん」
「大丈夫なのよ。疑う前に信じなさい。私はこんなになっても幸せをもらうことができている。とんでもない罪を犯した私でさえね」
「母さん……」
「もらえるものはもらっておきなさい。私みたいになる前にね」
空はうっすら笑って廊下に視線を向ける。
蒼が歩いてきた廊下を、一人の男が歩いてきた。
蒼は目を見張る。
男は……。
「栄一郎さん」
笑顔で歩いてくる男。
圭一郎の話は本当だったのだ。
自分が面会にも行かずにいる間、彼はこうして空に逢いに来てくれていたのだろう。
なぜ、早く退院させて手元に置いてくれないのかと、彼に対して憤りを感じたことは多々ある。
しかし、それは自分がなにも知らなかっただけのことなのだ。
自分が母親を放置している間、彼はこうして彼女のことを支えてくれていたのだから。
なんだか恥ずかしい。
いつまでも子供で。
瞬きをして栄一郎を見ていると、空は本当にうれしそうに笑った。
「毎週ちゃんと来てくれるのよ。病院も忙しいでしょうに」
空は手を振る。
「栄一郎さん、こっちよ」
蒼なんかが見たこともない無邪気な空。
まるで少女に戻ったかのようだった。
栄一郎もそれに答えるように手をふり、そして隣にいるのが蒼だと分かると驚いた顔をしていた。
「……蒼じゃないか」
「父さん……」
「ビックリしたよ。若い男の子と座っているから。まさか空だと思わなかった」
「最近、逢いに来てくれているのよ。嬉しいわ」
栄一郎は優しく蒼を見る。
「ありがとう。蒼」
「あ!いえ……。おれの。母さんだし……」
恥ずかしくなって俯く。
父親と言ってもなんだかまだ遠慮がある。
蒼はまごまごしていた。
「今日はね。珍しいよ。君の大好きなイチジクを持ってきたんだ。蒼も一緒に食べよう」
「え、おれは……」
蒼は首を横に振る。
二人の邪魔をしちゃいけないと思ったし。
そろそろ帰ろうと思っていたから。
しかし栄一郎は笑顔のまま蒼の腕を取る。
「いいじゃないか。料理の出来ない私が唯一覚えたものなんだから」
「そうそう。栄一郎さん、他のはからっきしダメだけど、イチジクを煮たら横に出るものがいないほど美味しいのよ」
「そ、そうなんだ……」
昔から、料理や家事はからっきしダメで、家政婦にまかせっきり。
台所に立つことなんてしたことのない栄一郎なのに。
きっと空のために頑張ったのだろう。
思わず笑ってしまった。
「じゃあいただきます」
「病室にいこうか」
栄一郎に連れられて3人は空の病室に向かった。
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