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腐れ外道と妖怪
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その夜は、兎にも角にも気味が悪くて急いで家に帰った。
あくまでも、父親がいたらすぐに別のところに行く事を前提として。
そうしたら明かりがついていなくて、恐る恐る鍵を開けてみたら本当に父親はいなくなっていた。
靴がなかったから、消えたわけではなく地下か女の元へまた出ていっただけなのだろう。
その事実にホッとするほどには、あのおっさん……アマイヌっていったっけ……に絡まれてから起こったことは道理に合わないものばかりであった。
命の危機を感じるレベルの犯罪に巻き込まれる、それは百歩譲って目を瞑ろう。
問題なのはあの人が金目当てではなく無差別殺人でもなく、明らかに僕自身を狙っていたこと、そしてその狙いは恐らく冤罪を助けてから決まっていたのだということ。
偶然出会っただけの貧乏で外道思考な男の僕なんか狙って、一体何をしようとしていたのだろうか。
喧嘩慣れしているはずの僕ですら目で追えないほどの異様な運動神経を持っていたことや引き摺り込まれたはずの建物の隙間が存在しなかったことについては、最早あまりにも非現実的すぎて「パニクった脳が勝手に作り出した変なエピソードの一種のではないか」と一周回って納得しそうになっている。
だが、そんな気休めな解釈では拭きれないほどの釈然としない違和感と不安が脳内にこびりついているのは、紛れもなく事実だった。
シャワーを浴びる時にすら、誰かに見られているような恐怖を感じるほどで。
やることは全部さっさと済ませて布団に入ったら、かなり疲れていたのかすとんと眠りに落ちてしまった。
〜・〜・〜
「うっわ、あのおっさんそんなヤベーヤツだったん!?
こっっっっっわ!」
朝、早速ツッキーにそのことを喋った。
ただあまりにも非現実的だったから、馬鹿にされるか冗談として受け取られるかだと思いながらではあったが。
「……信じてくれるんだね。
僕自身、ホントに起こったと思えないくらいだったけど」
だから正直、ツッキーのガチ引きにはこちらの方が驚かされた。
嬉しくはあったけど、これでは誰が何を言おうと簡単に騙されてしまうのではないかと心配にもなった。
「そもそもユートが嘘つくキャラじゃねーだろうが。
百歩譲って嘘だったとして、お前ならもっとうまく嘘つくだろ」
「絶妙にディスられた気がするのは気のせい?」
「気のせいだって、反省文を繕うのがうまいって褒めてんだから」
「……」
とりあえず、ツッキーがここまで信じてくれているのなら、きっと今日の朝ごはんのことは言及されずに済むだろう。
今日はツッキーより早く登校して朝食を食べたから、パンを1つしか食べていないこともバレずに済む。
「しかしまぁ……現実的な部分だけ見てもやべぇよな、その人。
普通に犯罪だろ、脅迫して拘束してくる時点で。
お前もよく無事だったもんだ」
「少なくとも僕にとっては冤罪から助けて終わりだったはずなんだけどなぁ……関わる気なんか、さらさらなかったし」
助けなきゃよかったと今になっては思う。
あのまま金でも踏んだくられて警察に突き出してもらえていたほうが、この社会にとって余程よかったのではないだろうか。
……が、その一方で「冤罪から助けた」だけでターゲットにされるというのもそれはそれでかなり不可解な事象だとは思う。
「警察には言ったのか?」
「言ってないよ。
未遂だし、信じてもらえなさそうだから」
そしてまた、ツッキーに嘘をついてしまった。
警察に言えば僕は確実に「可哀想な被害者」になる、それが嫌なのだ……とは言えなかった。
「言えよ……って言いたいところだけど、実際その通りな気ぃするよな。
特にその、連れ込まれたはずの路地裏が無かった的な部分とか。
当事者じゃない俺が通報しても、なおさら信じてもらえねぇだろうし」
そこまで言ったところで、ゆっくりとツッキーは切れ長の目を細めて俯いた。
「俺、お前には死んでほしくねぇよ」
そう、ぽつりと呟いて。
…………。
……そうだ。
考えないでいたけれど、僕はあの時、殺されていたかもしれないのだ。
そうでなくても、今ここにいることが叶わなかった可能性だってある。
「なぁ、ユート……お前、もっと自分を大事にしなきゃダメだろ。
今ようやく気づいたって顔してるけどよ、あのアマイヌっておっさんがいつお前のことをまた狙ってくんのか分からないんだぜ?
あの調子だと通学路もバレてるし、家も知られてるんだろ。
一度手ぇ出されてから逃げたのなら、警察に言われる前に口封じしてやろうって思われてるかも知れねぇぞ」
僕以上に不安の表情を浮かべたツッキーは、きっと本当に僕が死ぬことを怖がってくれているのだろう。
僕でなかったとしても知人が殺されるというのは恐ろしいものだから、その反応はきっと正しい。
「そう、だね。
そうか……僕、どうなっちゃうんだろうな」
「どうにもなるなって言ってんだよ、ばか」
そう言ってぺちんと僕の頬を挟むツッキーの手が熱いと思うくらいには、僕は全身が冷えているような錯覚を覚えていた。
血の気が引いた冷たさじゃない、何も感じないような冷たさだ。
実の父親に殺すと言われてしまったせいか、生まれたくて生まれたわけではないと思い続けてきたからか、自分がアマイヌさんに殺されかけていたかもしれないと言われても全く怖いと思わないのだ。
強いて言うなら、テレビで悲劇的に報じられる方が怖い。
「……ありがとう。
ごめん、変な心配かけちゃって」
「お前は悪くないだろ、俺には謝らなくていいから」
「うん、ありがとう」
「……」
ぐにぐにと擦るように頬を揉まれながらも、頭は勝手に冷静な推理を続けている。
仮にこの人から逃げられなかったとして、どんな目に遭わされるのだろう……と考えてはみたものの、腐れ外道たる僕の思考回路は「男もイケる人」で解釈されてしまうようで、歪んだ性癖としての「悪い」ことばかりが連想されてしまう。
確率上ノーマルの可能性が圧倒的に高いこのおっさんがそんなことをするとは思えないし、誘拐からの身代金要求や強奪の類も金がないと分かっていればほぼやるだけ無駄になる。
……冷静な推理の結果は、アマイヌさんが明らかに常識はずれの奇怪な人間である可能性が高まっただけのようだ。
〜・〜・〜
放課後になり、帰らなければならない時間となった。
ツッキーの言う通り、僕はこの帰り道でアマイヌさんに殺されるかもしれない。
「今日さ、お前の家まで着いていっていいか?」
そんな心配をしていたら、授業が終わってすぐにそう尋ねられた。
「……ツッキーまで危険な目に遭わないかな、それ」
あの人には僕たち二人で歩いていたところを見られているわけだから、ツッキーが着いてくることくらいは想定内かもそれない。
だとすれば、僕と一緒にツッキーが帰ることになれば、二人まとめて危ない目に遭う可能性だってある。
大切な人を巻き込んでまで、安全を得たいとは思えなかった。
「俺の知らないところでお前一人殺されてる方が絶対に嫌だね、俺は」
だがツッキーは逆に、自分から巻き込まれようとしているかのようだった。
……話してしまった時点で、手遅れだったのだろう。
気味が悪かったとはいえ、もう少し耐えるべきだったと内心後悔した。
少なくともそれができるくらいのメンタルはあったはずなのに。
「もしかしてだけど、僕が断ってもついてくるつもり?」
「ああ、ストーカーする予定だったな」
「ははっ、質問の意味ないじゃん」
しかし話してしまったものは仕方がない。
必ずツッキーが来るというのならば、楽しく喋って帰りたい。
結局、僕は家まで着いてきてもらうことを受け入れた。
ただし、アパートの前まできてくれたら十分、とは言っておいた。
もし父親が帰ってきていたら僕は家に入れないし、その様子をツッキーに見られるわけにはいかないから。
そう考えると、僕はアマイヌさんから生き延びたところで実父に殺されるしかないのかもしれない。
7時間目終わりの通学路。
それは確かに、日を追うごとに少しずつ暗くなりつつあった。
僕の大嫌いな夜が長くなる、それが冬という季節。
11月終盤の寒くて暗い外というものはきっと、犯罪をするには便利であるに違いない。
誰もが家に篭りたくなって、外から目を逸らすから。
そうやって見えないところで、今でも子どもが自殺したり行方不明になっているのだろう。
そして僕はいつか、その中の一部になるのかもしれない。
「なあ、ユート」
それは嫌だなぁと考えていると、先ほどまで周りをちらちら気にしていたツッキーが口を開いた。
「ん?」
「いや、あのさ……今からすっげぇ馬鹿げたこと言っていい?」
その口調は少し遠慮がちで、言い出すことすら迷っていたかのようだった。
「少なくとも僕は構わないよ」
基本、僕は何を言われようと笑わないし怒りもしない。
だからそう言って頷くと、
「そう、か……うん、ありがとうな。
俺、あのアマイヌっておっさんのこと、考えてたんだけどさ」
「うん」
「あの人、本当は『妖怪』なんじゃないかって、そんな気がしたんだ。
いや、割と冗談抜きで」
彼は自信のない声で、しかし確かにそう言った。
「…………妖怪」
「分かっちゃいたけど、信じてないよな、ユート」
「多分だけど、信じる方が難しいと思うよ」
「ま、それはそうだわな」
ツッキーには申し訳ないが、僕は基本、理想や夢を信じない。
信じてもろくなことがないことを知っているから。
何回優しい両親を夢見ても、お腹いっぱい食べられる想像をしても、全部裏切られてきているから。
スマホを持つ前であれば、それでも家をくれて学校に行かせてくれる大切な人だと思うことができていたけれど、実は「可哀想な境遇」だったという現実を知ってしまってからはそう思い込むこともできなくなってしまった。
僕の作る話が尽く(ことごとく)ダークな方面に向かうのは、本心からの幸福が想像できないから、というのもあるのだと思う。
「前さ、ユッキーが紹介してくれた天狗……あれ覚えてるか?」
「ああ、あれね。
うん、ツッキーが語ってくれた分なら」
生贄になった少年と山の神の話は、もちろんまだ買えちゃいない。
ツッキーとのオタ活で買う予定ということになっているから。
それでも彼から教えてもらった知識で、天狗についてはいろいろ知っている。
「幻覚を見せるとか、うちわ持ってて風起こすとか……ああ、えっと、瞬間移動もあったっけ。
なんかけっこういろいろできたよね。
千里眼持ってて災害起こせて隠れ蓑持ってて、ってどんだけ万能なんだよって思ったけど」
「そう、それそれ。
特に最初の3つとか……割とアマイヌさんと天狗の特徴って一致してね?」
まあ、ツッキーの言うことも一理はある。
少なくとも釈然としない要素が「天狗だから」という理由で一纏めにすれば納得できるのは確かだ。
確かだが……肝心の「天狗だから」という理由があまりにも非現実的すぎて受け入れようと思えないのである。
「信じろとは言わねーよ、俺だって馬鹿げてることくらい知ってるさ」
彼には申し訳ないが、夢の見方を忘れた僕にはどうやっても信じることはできないだろう。
「信じたいとは思うんだけどね。
事実、それくらいにはあの人はおかしな人だったわけだし」
「そうだな、あのおっさんが妖怪だろうがそうじゃなかろうが、それくらいにはヤバい人だって警戒はしといていいと思うぜ。
あ、そうだ、万が一マジだった時のために、いいこと教えといてやるよ」
一方で、ツッキーは本気で彼が天狗だと信じているらしい。
おかげで警察に通報するという発想が完全に彼の頭からは抜けているみたいで、こっちとしては少しありがたかった。
「妖怪ってさ、種族関係なく言霊の力を持ってるんだってよ。
だから名前とかがすっげぇ強い切り札になっててさ、相手の本名を掴むだけで完全に支配できたりするし、逆に相手に本当の名前がバレれば一気に弱くなるらしいんだよな」
「つまり、アマイヌさんは偽名かもしれないわけだね」
「そ。
そもそもお前に名乗ってくるあたり、バレても問題なかったのは確かだろうな。
あと、お前も自分の名前は言うんじゃねーぞ。
下の名前がバレてねぇならワンチャンあるから」
急にオカルトチックなキャラになってしまっているが、ツッキーは元々、日本史から派生したこういう迷信だの文化だの風俗だのには詳しい。
だからこれは、彼なりに精一杯僕を守ろうとしてくれているということなんだと思う。
「……うん、心に留めておくよ」
それが役に立つかどうかは分からないが、その思いは間違いなく本心から嬉しいと思えた。
〜・〜・〜
「……よし、と。
こんなかんじでいいかな」
B-Lackに今後長期休載になる可能性があるという旨を投稿し、スマホを閉じる。
ゼットとミューに被害者役を務めてもらうのも、しばらくはできなくなるだろう。
元々ネタも少しずつ減ってきていたから、ちょうどいいのかもしれない。
「…………」
近づく期末テストに向けて、単語帳をぱらぱらとめくる。
この時期になると本当に知らない単語もいっぱい出てくるし、何より教科数も多いから大変だ。
これに加えて今後はバイトも増えるから……趣味に割く時間はほぼゼロと言っていいだろう。
「こんな生き方している方が、もしかすると惨めなのかな」
生きるのだけで精一杯、まさに今の自分はそうなっているような気がする。
惨めになりたくないからと抗って、それでも惨めになってしまっているような。
だが今の友人も、家の中に溜めた趣味のコレクションも捨てて施設なんかで生活することになれば、本当に生きるためだけに生きることになってしまうだろう。
やはり保護されるのは一番悪い結末だ。
うん、そうに違いない。
だから今の僕は、最悪レベルまでは哀れじゃない。
「それに君たちは、もっと可哀想だしね」
一度閉じたスマホをもう一度開き、過去に書いた作品を見直す。
終末世界の絶望と狂気に苛まれる二人の少年の惨状は、現実逃避を程よく助けてくれる。
読書は昔から好きだった。
自分は登場人物よりも恵まれていると愉悦に浸れるし、現実の世界から逃げることができるから。
でもそれでは満足しなくなって、自分で自分より恵まれていない分身を作るようになった。
それが多分、ゼットとミューの始まり。
もちろんそこには、異性愛への嫌悪と、少年マンガとBLマンガを勘違いした幼心の組み合わせの奇跡によってBLの世界に踏み込んだから、というのもあるかもだけど。
「懐かしいな。
最初はこんなに文が雑だったんだね。
ちょっと直しとこうか」
生前の拷問の記憶が不意に蘇り、訳もわからず震えるゼット、君は知らなくていいと肉の削げ落ちたゼットの手を掴むミュー。
これを書いたときには、何度も何度も殴られて腕が痣だらけになった時の記憶を思い浮かべていたような気がする。
殴られ続けているから怯えることはないけれど、震えだけはいつになっても拭えない……そういう経験があるからか、割とリアルに描写ができていた。
21世紀の遺産「ゲーム機」に興奮し、緑という色を初めて知るゼット、青い色の水を懐かしむミュー。
この時思い出していたのは、たしか給食で初めて「できたて」を食べた時の感覚だったと思う。
今なら小1の初めての給食の食べ方が異様ながっつき方だったことも、なぜ同じ班のクラスメートから食べる姿をキモいと言われたのかもなんとなく分かる。
普通、ご飯はできたてが当たり前で、両親の機嫌次第で食べている姿すら不快だと言われることなんかなくて、毎日3食、箸を使う料理として用意されているものだからだ。
多くのクラスメートは、当時の僕のように出来るだけ食事時間を減らそうと努めたり、できたての給食に感動したり、箸の使い方に戸惑う必要はなかったのだ。
それを知らない当時の僕は、みんなと同じような食べ方ができるまでかなり時間がかかったっけ。
ゼットが緑色を知った時の気持ち悪いくらい過剰な感動や、それに呆れるミューの姿は、当時の僕やそれを見るクラスメートにそっくりだった。
その他、いろんなゼットやミューがいるけれど、全部根底にあるのは僕の実体験のイメージ。
そんなものイメージしたくない、僕じゃない誰かが代わりに傷付けばいい……なんて吐き出してきたことが、こうして振り返るとよく分かる。
何もかもが終わった世界にただ二人、彼らは僕の身代わりとして生き続けてくれた。
僕の知らない真の愛で結ばれて、どんな苦難も乗り越えながら。
「…………」
もしかすると。
僕よりも、彼らの方がいつのまにか幸せになっていたのかもしれない。
1話完結形式にするために、多少は後味良く終わらせられるような結末で締めくくっているものだから、なんだかんだ二人は先に進んでいける。
僕は、進みようがない。
進む道も、進んでくれる人も、進もうとする意思も……ない。
「……やめよう、今日は。
これくらい直したら十分でしょ」
布団に入り、電気を消す。
今日はあの男はまだ帰ってきていないから、早めに寝てしまおう。
お腹は空いているけれど、眠っているうちに忘れるだろう。
〜・〜・〜
「……っ、」
痛い。
ぶちぶちと何かが千切られるような音がして、急に首に焼けるような刺激が走る。
「ぁぐっ……あ、ぅあっ、ああ゛っ……!」
……すごく、痛い。
普通ならこんな声、父親を騙すための演技でしか出さないのに。
不可抗力で痛みに呻くのは、いつぶりだろうか。
なんで? だれが? どうなってる?
そう思う間も無く、
「がっ、ぁ、いだ、ぃ……」
痛みに意識の全てを引き戻されてしまう。
何も見えないし、動けないまま。
ただ首がとてつもなく痛くって、息が苦しい。
ああでも、音はわかる。
激痛と同時に何度も繰り返される、ぐじゅっと首を潰される音が。
そしてぶちっと首のどこかが引きちぎられ、ぐしゃぐしゃと肉を咀嚼するような音が。
「が、ひゅっ……ま、さか」
僕は……食われている、のか?
全身の体温がさっと引いて、溢れ続ける血の熱さがより鮮明になる。
そんな中、頭の上から何かを飲み込み舌舐めずりをする音が聞こえて、
「ふはっ、気づくのがおせーよ、クソガキ」
僕を嘲るように誰かが笑った。
……否、誰かじゃない、この声は知っている。
「な、んで……っ、ぁ、っ、うぅっ……!」
だがその名を呼ぶよりも前に、既にぐじゃぐじゃにされた首に歯が突き立てられた。
「……っ、…………っ!」
声が、息が……でない。
どれだけ吸おうとしても、吐こうとしても、首元から冷たい空気が漏れるだけ。
嫌だ、食われたくない、殺されたくない。
苦しい、助けて。
どれだけそう叫びたくても、どんどん意識はぼやけていって……。
「……っ!
はぁっ、はぁっ……」
気づけば目の前にあったのは、天井を求めるように掲げられた汗だくの手と、朝日が差し込む窓だった。
・
・
・
周りを見渡しても、そこは確かに自分の家だ。
アマイヌさんもいないし、首には傷ひとつない。
「夢、だったのかな」
夢を見たのなんて、何年振りだろう。
しかもこんなにはっきり覚えている、汗だくになるほどの夢なんて。
今でもまだ、アマイヌさんが部屋の中に潜んでいるのではないかと思えてしまう。
少しでも油断すると、あの大きくて長い腕に捕らえられて殺されるのではないかと思えてくる。
「……はは、ツッキーに影響されたかな。
こんなこと考えちゃうなんて」
いや、少なくともこんな狭い部屋の中にいるなんてことはないだろうけれども。
いたら流石に分かる、あんなに背の高い人なんだから。
だというのに、このなんともいえない不気味な感覚はなんだろう。
唯一の自分のテリトリーであるはずのこの部屋の中すら、落ち着くことができない。
ドアを開け、家の外の廊下に出る。
そして自然と、使われていないキッチンまで足が動く。
「アレ」を手に入れるために。
今の行動が異様だと分かっているのに、足を止めることができない。
それほどまでにあの夢は現実味があって、家の中のあるはずのない気配が気になって仕方ないのだ。
「まぁ、どうせ使わないだろうし。
使わないなら、あってもなくても同じだよね。
うん、だから……バレなきゃ大丈夫」
そして掴んだのは、鞘のついた果物ナイフ。
もし殺されそうになったら、僕が殺せばいい。
被害者になるくらいなら、加害者に。
母親の金を盗んだあの時、自分に躊躇いがなかったのは知っていたけれど……まさかここまでだとは思っていなかった。
構えるように掴んでみても、全く震えも恐怖もない。
むしろ手放す方が怖いと感じてしまう。
「それくらいの警戒は必要なんだよね、ツッキー……?」
こんな姿を見たら、きっと彼も幻滅するだろう。
それを分かっていてもなお、僕はこれを手放せそうになかった。
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