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壊れないもの
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弓弦さんが玄関のドアを入ってきたとき、僕は、悲しみのあまり、キッチンで手をすべらせて、グラスを割った。
ぱりんと割れた華奢なグラスの破片が、僕の指を切った。
痛みと悲しみが、繊細な神経の走る指先と、僕の心を襲った。
「燕を埋葬してきた」
そう言って、弓弦さんが立ちすくんでいる僕を見た。
弓弦さんは僕の足元の割れたガラスの破片と、僕の顔を交互に見た。
僕は手で顔を覆って言った。
「壊れないものが欲しい」
生暖かい液体が、痛みとともに、僕の指をつたった。
彼が、僕の傷ついた手を取り、吸血鬼のように、僕の血を舐めた。
死人のように、冷たい手だった。
僕は、手をひっこめて逃げだした。
もう、これ以上傷つきたくない!
一人にして!
あなたが何を言っても無駄だから。
僕の傷ついた心は癒されないから!
僕の心は怒っていた。
彼を拒絶した。
寂しげな埋葬者の手を、僕は、振り払ってしまった。
僕は、あの時、自分の傷ついた気持ちで手いっぱいだった。
僕には、彼の顔を見上げる余裕もなかった。
ただ甘い悲しみが。
そう、僕は、まだ彼に甘えていた。
僕は、彼のことを考える余裕がなかった。
僕は、子どもだった。
僕は自分の部屋の壁によりかかって膝を抱えてうずくまっていた。
開けたままのドア越しに、弓弦さんが心配そうに僕を見ていた。
僕は片目で弓弦さんを見上げた。
「入ってもいいよ」
弓弦さんは僕の隣に座って、僕の頭を触りそうになったけれど、気がついたように、途中でやめて、手を引っ込めて聞いてきた。
「どうした?」
彼の声は、温かかった。
僕が拒絶したのに、彼は、辛抱強かった。
辛抱強く待っていてくれた。
僕は、何度も彼を拒絶したのに。
なのに、僕は。
「ちょっとした不注意で壊れてしまう」
僕は、悲しくて答えた。
僕は、甘えていた。
「不注意で?」
彼は僕をいたわるように、聞き返した。
その声音は、僕に、話すようにと、優しく促していた。
僕も、そんな風に、彼に聞いてあげられたら、よかったのかもしれない。
「アクシデントで。ちょっとしたことで」
弓弦さんは僕を見守っていた。僕は、続けて言った。
「ほんのちょっとしたことでだよ? なぜそんなに、運命は、やわなの? なぜ壊れやすい? なぜそんなに簡単に、重大なことを。ひどいじゃないか。あんまりだ。気まぐれ? 僕らは翻弄されるだけなの? 僕らにはなぜ、確かなものがないの?」
僕は矢継ぎ早に言った。
思いのたけを。
流れ出るままに。
それをゆるす、弓弦さんの温かさがあった。
心の広さがあった。
鷹揚さが。
僕の話しを聞いてくれるだけの心の余裕が。
誠実さが。
人間的な余裕が。
違うんだ。
きっと、弓弦さんだって、きっとではなく、確実に、僕よりずっと、つらい状況に立たされていたのだ、あのころ。
なのに僕は。
弓弦さん。
僕は、あなたの言った一言一言を思い出す。
あの時、あなたは、自分のことを見つめていたのですね。
僕を通して、自分のことを言っていたんですね。
僕は、それに気づけなかった。
あんなに近くにいたのに。
あなたが好きだったのに。
どうして僕は、何もできなかったんだろう。
あなたが僕に、言ってくれたなら。
それでも何もできなかったかもしれない。
でも、僕は東奔西走して、あなたのために、何か助かるための方法を人を探して来て、あなたに。
僕の心には、いつも、あなたがいます。
あなたの声が。
あなたの言葉が。
あなたのまなざしが。
あなたの気配が。
あなたの笑顔が。
弓弦さんは手を開いて、また閉じた。
僕に触れるのをためらっているようだった。
僕が触るなと言ったから。
「僕は壊れないものが欲しいんだ。いつも失うんじゃないかと、どきどきしているのは嫌なんだ。なのに、なぜ、ふいに、予期せずに」
僕は怒りと悲しみに唇を震わせた。
僕が身体を動かして座りなおしたひょうしに、弓弦さんと肩がぶつかった。
「あ、ごめん」
「なぜあなたがあやまるの?」
「嬉しい、予期せぬアクシデントだったから」
弓弦さんは微笑んだ。
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