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この胸の痛みに
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目前で披露されたキスシーンが、有紀にはスローモーションのように映った。眼底に咲耶と迅の口づけがこびり付き何度もフラッシュバックする。抉られるような胸の感覚に、有紀は眉を顰めた。咲耶は潤んだ双眸を歪め有紀を見つめ返していた。その背後で迅は不機嫌さを隠すことなく盛大に舌打ちをする。
「ほんっと毎回毎回絶妙に良いタイミングで現れやがるな。憎たらしいったらないぜ」
「・・・生憎、お前に良い思いをさせるつもりは微塵もないからね」
その心中は決して穏やかではなかったが、有紀は嫌味をたっぷり込めた完璧な笑顔を造った。レストランを那波と共に去った後、静かな場所を探し灯台の展望デッキにたどり着いた。迅に有紀側に付いたと誤解された那波は涙を流し、有紀に迅への積年の想いを綴った。泣き崩れる那波があまりに憐れで、せめてもの慰めに抱きしめてしまった。その場面を運悪く咲耶に目撃された。咲耶の悲痛な表情に、有紀は慌てて逃げるその背を追いかけてきた。まさか追いついた先でキスシーンを見せつけられる羽目になるとは努々想像していなかった。
「月瀬、泣いてたぞ?どうせ手前が泣かせたんじゃねーの?こいつが泣くほどの何をした?」
「ほんの些細な誤解を生んだだけだよ。・・・咲耶、あれはあまりに虹原が辛そうで思わず抱きしめてしまったんだ。俺と虹原の間に恋愛感情なんでない」
咲耶は何も言葉を発せず、悲痛な色を滲ませた瞳を地に向ける。有紀の胸のざわめきは収まるばかりか、次第に大きくなっていく。レストランで迅と揉めた時、咲耶に引いてくれと言われ、冷静でなかった有紀は頭に血が上り、そのまま咲耶を置き去りにしてしまった。今になり考えればあの時の最善は自分が一旦場を立ち去ることだったと理解できる。部屋で口論した挙句、その問題を解決しない内に今度は咲耶以外の男と2人きりで抱き合い、それを咲耶本人に目撃されるなど一体自分は何をしているのだ。他でもない自分自身の手で想い人であるはずの咲耶を傷つけ、その弱みを迅にまんまと付け入らせてしまった。苛立ちと後悔が有紀の中に渦巻く。
「散々傷つけといて今更言い訳すんのかよ。日野沢学園の王子様ともあろう方が随分情けねーなぁ」
嘲る迅に有紀は射殺すばかりの鋭利な視線を送る。
「手前はこいつを傷つける。いい加減自覚してんだろ?傷ついて泣いてる月瀬を見る位なら、俺がこいつの側にいる。俺の手の中でそりゃあ大事にするから、手前はもうこいつを振り回すな」
迅は有紀の視線を意に介せず強気に言い放つと、俯いたままの咲耶の顎を取り持ち上げた。
「ほら、お前も言ってやれ。これ以上苦しみたくねぇだろ」
「風間・・・手を離せ・・・」
顎を持つ迅の手を咲耶は振り払うと、有紀にアイスグレーの丸い瞳を向けた。咲耶の唇は小さく震えていた。
「咲耶・・・」
有紀は細い声で精一杯の愛しさを込めて名前を呼んだ。咲耶が『もう、傷つくのは嫌だ』とそう言うのなら、有紀は離れて行く咲耶を引き留めることは出来ない。自分の心が幼いばかりに不必要な矜持と衝動的に放った言葉が咲耶を苦しめた。だがもし咲耶がもう1度機会をくれると言うのなら、今度は絶対に間違えるつもりはない。皮肉にも迅と咲耶のキスシーンを見て、有紀の覚悟は決まった。こんなにも心が乱されるのは後にも先にも恐らく咲耶だけだと確信した。白皙の肌、熟れた朱い唇、濡れ鴉の羽根のような黒い艶やかな髪、その全てに触れて良いのも、咲耶の凛と澄んだ声、泣いて掠れた声、甘い嬌声を聞いて良いのも自分だけだ。他の誰にも譲る気は一ミリもない。沈黙を深めていた咲耶の唇が微かに動く。
「有紀を好きでいることは辛い・・・。風間に愛されていた方がよっぽど楽なんどうなとも思う」
「うん・・・それで?」
歯切れの悪い咲耶の声を聞き逃すまいと、有紀は耳を傾けた。
「・・・それでも俺は、有紀の側に居たい。箱庭の中の愛でも何でも良い。・・・だから、他の人の物になんてならないで欲しい」
咲耶の揺れる瞳からやがて透明な涙が零れ、音もなく頬を伝う。有紀は堪らず咲耶との距離と一気に詰めると、手を優しく絡め取り胸に引き寄せた。咲耶がくれた言葉全てが嬉しくて胸が苦しい。これが真に愛おしいという感情なのだろう。
「はっ・・・信じらんねぇ・・・。あんだけ苦しんでた癖にまた日野沢に戻んのかよ!」
迅は吐き捨てるように言った。信じられないとばかりに咲耶を凝視する。咲耶がゆるりと迅を振り返り、悲しげに乾いた笑みを浮かべる。
「俺も馬鹿だと思う・・・。お前の腕の中のがよっぽど安心できたかもな」
「なら・・・何でだよ。何で日野沢の方を選ぶんだ」
迅は眉間に皺を寄せた。納得いかない、そう表情に書いてあった。
「理屈じゃない。・・・俺は俺の全てを賭けて有紀が好きなんだ」
海風が3人の間を吹き抜ける。有紀は乱れる髪を手で押さえながらアイスグレーの瞳を向けてくる咲耶を綺麗だと心底思った。衝動的に咲耶をきつく抱き寄せる。こんなにも誰かを愛おしいと感じたことはない。有紀は正面で絶句する迅を見据えた。
「俺は咲耶の為なら今の立場も全て捨てる覚悟だよ。勿論簡単にはどちらも手放すつもりはないけど、もしどちらかを選ぶ場面になったら、俺は迷わず咲耶を選ぶ。風間、お前にはその覚悟がある?」
迅の瞳が静かに閉じられた。それが答えなのだろう。迅の気持ちも居たい程理解できる。苦心して手に入れた今の立場はそう易々と他人に譲れるものではない。
「愚かだって笑えばいい。でもプライドを守るより大切なものがあるって俺は気づいたから」
有紀は下を向く迅に力強い声で放った。
「有紀・・・」
咲耶が有紀の手に遠慮がちに触れる。有紀はその手をしっかりと握り返す。
「行こう、咲耶。そろそろ合宿所に帰る時間だ」
立ち尽くす迅の隣を抜け、有紀は咲耶の手を引き集合場所であるレストランに向かった。縺れていた心の糸が解け、有紀は清々しい気分だった。もっと早くこうしていればよかった。随分な遠回りをしたものだと苦笑いが零れてくる。蒼空には小言を言われるかもしれない。もっとうまくやる方法はなかったのかと。咲耶を手に入れる手段なら考えれば他にもあるだろう。だが、もう策を巡らせ咲耶とすれ違い、泣かせたりするようなことはしたくなかった。咲耶は大切な、たった一人心から愛する人なのだから。
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