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月齢29、下弦の月
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棗は深夜に目が覚めた、寝返りを打った拍子に足音が聞こえた気がしたからだ。ベッドに横たわり良く良く耳を澄ます、やはり微かな絨毯を踏む音は、螺旋階段を登っている。三階へ向けて近付くので、もしや自分に用が有るのかと身を起こす。
棗の予想は外れ、密やかな足音は前を過ぎ、隣の部屋の扉を開ける音がする。だが、扉を閉じる気配はしない。やがてカタリ、キイ…と小さく微かな響きがし、その耳慣れた音は窓の鍵を開けてバルコニーの重い窓ガラスを開くものだと察した。
こんな寒い冬の夜に、何故バルコニーに立つ必要が有るのか、棗は嫌な予感に完全に目が冴えた。
「まさか、」
ここは三階で、しかも天井が高い建物である。人間ならば落ちれば死ぬ可能性が高い。しかし魔物ならば如何なのか、棗にはそれを推し量る知識が無い。
トクン、トクン、心臓が激しく打ち、胸騒ぎに急かされベッドから降りた。慌ただしく隣の部屋に向かう、開いたままの扉から冷えた空気が通り、その寒さに身が震える。
「あ、」
目を向けた先、そこには上空に細く輝く下弦の月と、背を向けバルコニーに佇む白銀の姿。薄い絹のバスローブは頼りないままに体を覆い、剥き出しの素足は青白く闇夜に浮かぶ。
会うのは久し振りで、言葉が出ない。しかし足は勝手に前へ進み、その白い手を掴んだ。その冷たさに驚く。
白楊は感覚がないのか反応しない、棗はそれが怖くてきゅ、と力を込めた。その指先はまるで体温が無く冷え切り、生の在り処が感じられない。魔物の、特に黒鉄の体温の低さには慣れている。しかし、この体はその度合いを超えていた。
螺旋階段に響く靴音。ああ、彼が来ない筈がないと分かっていた。
「白楊様っ、」
らしくない焦りの滲む声。背後から大股で寄り、怒ったように棗が居ない方の腕を強引に引く。繋がった指先が離れた。
「部屋へ戻りましょう。そろそろ休まないと体に障ります。」
抱き締める赤月の肩へ、白銀の髪がさらりと流れる。目蓋を閉じて頭を預けている姿は、もう棗の知っている白楊よりも随分と弱い存在に思えた。
滅びに向かう魔物を留めるのは難しい事だと、黒鉄は言った。それが今、現実のものとして目の前にある。誰が教えなくとも、白楊の終わりが近い事が棗にも解った。
「赤月さん、僕も一緒に、」
「いいえ、大丈夫です。お騒がせして申し訳有りません。棗様は、どうぞ休んで下さい。」
笑顔も無く赤月がバルコニーを閉じ、軽々と白楊を抱える。どれ程その命を留めたいと思っているのかなど、聞かなくとも顔を見れば分かる。きっと、棗の表情も同じだろう。
「歌を、」
その声は、やはり美しい調べとなり棗の心を揺るがす。そして、赤月の心もまた動くのだ。
「ええ。その前に体を温めましょう。」
優しい声音と共に一礼して、部屋を出て行く。取り残された棗の姿は月に照らされ、朧な影を扉へと向かって伸ばす。
「何故、もっと会おうとしなかったんだろう…、」
避けて、姿を見さえしなければ気持ちは消えると、心の何処かで願っていたのか。
下弦の月は細く細く下へ弧を描き、まるで夜空が笑っているかの様だった。
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