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ただ歩いてるだけの体が登校時より重く、踏み出す度にひどく気力を使う。
今日はどこに帰ろうか。
名前も知らない女の家か。
それとも、
「鬼塚、」
は、と我に返る。
最後に見た顔が、脳裏に浮かぶ。
身に迫った恐怖に肩を震わせ、眉をひそめ、怯えた目付きで声を振り絞っていた。
今思えば、俺は、あいつの笑った顔を見たことがあったか。
いつもビクビクと身構えて、一歩近寄れば二歩遠のくような、もどかしい距離。逃げられないよう無理やり近寄れば傷つけ、離れれば他の誰かに思いを寄せる。
保健室のベッドで俺は、俺の知らないあいつに触った。
指に触れ、手を絡ませ、とろとろと溶けていくようなひんやりした皮膚の感覚が、まだ指先に残っている。
眠そうにかすれた声も、鮮明に鼓膜に焼き付いている。
もう12月だと言うのにあいつはまた、リビングで布団も被らず寝こけているんだろうか。
以前のように、冷蔵庫の中の酒を飲んでソファーでエアコンもつけずに寝息を立てて。
記憶を無くしてから自分の身体が弱かったことも忘れたのか、あいつは自分のことに気を遣うことも無くなった。
肺が弱いことも、すぐにバテることも忘れて走ったり叫んだり、
そんなこと、
どうでもいいことを思い出して、どうする。
「鬼塚くん!あのっ、おかえり・・・」
目の前に、あの女がいた。
ろくに喋ったことも無いが、俺を家に泊めている女。
「ね、寒いから早く家に入ろ。今日はグラタン作ったの。」
ポケットにしまっていた手をわざわざ引き出し、引っ張りながら家に入ろうとする。
「鬼塚くんいつも外で食べてくるでしょ。だから今日は私が・・・」
ぞわりと胸が苛立つ。
にこにこと顔を赤らめて、ペラペラと勝手に喋っては俺になにかを求めてくる。
足が、動かない。
手を引く女の顔が、疑問を浮かべたものになる。
「え・・・どうしたの?」
手を振り払い、女の家とは逆方向に足を動かす。
俺の名前を呼ぶ声が聞こえるが、そのうち呆気なく消えた。
静かで冷たい空気の中で、自分の足音だけが響いている。
白い息が宙に消え、行き場のない苛立ちに歩調が早くなる。これからどこに行こうとか、そんな考えも行先も無いのに。
ただ、最後に見たあいつの顔が頭から消えなくて、どうも気分が悪い。
怯えも恐怖も感じていない、柔らかな声は俺に向けたものではなかった。
どうしようもなく気分が悪い。
思い出しても、ただただ苛つくだけ。
苛つくだけだと分かっているのに、あの時、保健室にいる時触れようとしたのは何故だ。
そんなもの、答えは明白で。
俺に向ける表情も声も、最後に見た時と変わっていたらと思ったからだ。
だが本当のところは、俺が触ればまた怯えるだけだろう。
逃げて、固まって、拒否して押しのけようとするだろう。
結局、何をしても、傷つける方法しか知らない。他にどうすればいいかを知らない。
そうしていつもこの手は空回るんだろう。
そうしてあいつは、他の奴の元に行くんだろう。
ごつん、とエレベーターの扉に頭を打ちつけた。
いつの間にかうちのマンションのピロティで、静かにエレベーターの扉が開いていた。
そこから先は日常的に染み付いた行動で、押し慣れた回数を押し、エレベーターを降りた後は見慣れた扉の前に立っていた。
取っ手を捻り手前に引き、明かりの消えた玄関で靴を脱ぐ。
リビングも廊下も電気が着いていない。それどころか、人の気配がない。
パチン、と廊下の電気のスイッチを押し、リビングに繋がる扉を開ける。
制服の上着をソファーに掛け、テーブルの上に数日前洗濯機に入れた服が畳まれて置いてあるのを見つけ、電気も付けずに着替える。
何かを求めて帰ってきた訳では無い。
ソファーに、微かに体温が残っていたり、数時間前の夕飯の匂いが少しだけ漂っていたり、するのかと思っていただけだ。
何も無いならそれでいい。
何の変哲も求めない。前の生活に戻るだけだ。
人が一人居なかろうが、自分の生活に大した影響はない。
「おれだって好きな人が居るんだから!!」
あぁ。
こんな時に思い出す。
細い腕。怯えた肩。眉をひそめて、何かを堪えるように、ぎゅっと閉じられた目。
「好きな人がいるんだから」
その言葉。
精一杯振り絞った声で、泣きそうな顔で、何度も、何度も、頭をループする。
明かりもつけず、暗い部屋の中で。
人気のないソファーに座り、浮かぶのはあの顔。
寝れば忘れるだろうか。
発散のしようも無い、この苛立ちも消えるだろうか。
重たい体を引きずるように立ち上がり、自室へと向かう。
扉の取っ手に手をかけた時、部屋の中からうっすらと寝息がたっているのを、鼓膜が捕らえていた。
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