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スープ ⑴にしおりをはさみました!
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スープ ⑴
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「扁桃炎ですね」
「へんとう...えん」
医者に告げられたのは、聞き慣れない病名だった。口に出してみたが、日本語を覚え立ての外人が話す片言のような、情けない発音だった。
それにしても、この声。
まるで水分のない砂利のような、乾いた嗄れ声。喉には激しい痛みも伴って、唾を飲み込むことすら辛い。熱も38度台後半まで上がり、身体中で倦怠感を感じていた。
風邪とは無縁の人生を歩んできた俺にとってこの状況は、地獄だった。
そんな俺には当然、かかりつけの病院はない。評判の良い病院など検討もつかないので、車で5分とかからない近所の病院を選んだ。処方された薬を貰い帰路に着いたものの、その距離間の運転にも関わらずひどく遠く感じた。とにかく1秒でも早く家に帰って、ベッドに寝転がりたかった。
玄関の数センチの段差が倍に感じる。屈むことすら億劫で、いつもは綺麗に揃える靴も適当に脱ぎ捨てた。
「手洗いうがいは必ずしてくださいね」
帰り際に医者に言われたのを思い出して、大きくため息をついた。怠くてしょうがないが、重い体を引きずって洗面台に向かった。
「いてぇ....」
うがいをするだけでも激痛が走る。医者曰く、扁桃腺とやらが炎症を起こして痛むのだそうだ。
最早身体中のいたるところが痛い。やっとのことで寝室にたどり着き、ベッドに横になった。
神崎には待ち時間の間に簡単に連絡を入れておいた。仕事中だからすぐには返信は来ないだろう。
それにしても、気怠い。
1度目を閉じると、目蓋の上に石でも乗っているかのように重く感じた。こじ開ける気にもなれなかったので、そのまま目を閉じていた。
あー、薬、飲まないと...。
抗生物質と一緒に処方された頓服薬を飲めばとりあえずこの高熱はマシになる。それはわかっている。だが嚥下の度に訪れる喉の激痛のことを思うと、気持ちが進まなかった。目蓋だって、重くて開かないし。
頭の中で、子どものように言い訳を並べていた。
多分俺は、それから間もなく意識を手放して、眠ったのだと思う。
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気持ちいい。
ひんやりと冷たい感触が、顔周りを中心に伝わってくる。ぴと、ぴと、と額から輪郭に沿って、移動する。それが何なのか判別はしなかったが、考えるのも面倒だった。
とにかく、その冷たいのが気持ちいい。
「...はぁ、」
思わずため息が溢れた。ずっとこのひんやりした感覚に浸っていたい...。
「一弥」
すぐそばで、聞き慣れた声がした。
名を呼ばれて、俺はゆっくり目を開けた。
視界には、心配そうな表情で俺の顔を覗き込む神崎がいた。
「...か、....ん....」
神崎、と名を呼ぼうと声帯を震わせたが、うまく声にならなかった。その代わりに喉の激痛が一瞬で蘇ってきて、思わず痛みに顔を歪めた。寝起きで喉の乾燥も相まってか、さっきよりも痛みが強く感じた。
「ぅ....」
「喉、痛むか」
うん、すごく痛い。
俺はこくりとひとつうなずいた。
「よしよし」
神崎が困ったように笑い、俺の髪を掻き撫でた。
触れられていてわかった。眠っている間に感じていたあの冷たい感触は、神崎の手だったのだと。神崎の手が冷たく感じるほど、俺の身体は高熱に冒されているらしい。
...まあ、そりゃそうか、頓服すら飲んでないんだもんな。自業自得だ。
「熱、結構やばそうだな...」
俺の額に掌をあてがいながら、呟くように言った。
神崎の手、ひんやり、気持ちいい。
置いているだけで、熱を吸い取ってくれそうだ。
「てゆうかお前さ、薬飲まずに寝たろ?」
「.........」
俺が無言で目を逸らすと、やっぱり、と大きくため息をついた。
「テーブルに置きっぱだった薬、中身見たらひとつも減ってなかったからな」
そういえば、テーブルに置きっぱなしにしていたな。帰宅した神崎の目に止まるのは自然なことだ。
神崎はまだスーツ姿だった。その神崎の背中越しに見える掛け時計にチラリと目線を遣ると、まだ19時過ぎだった。きっと仕事終わりに真っ直ぐこちらに向かってくれたのだろう。そう思うと小さな罪悪感が芽生えはしたが、実際のところ、安心感の方が大きかった。風邪っていうのはこんなにも人を心細く、弱くさせるものなのか。
「とにかく何か腹に入れて、薬飲め。それと、水分補給」
水分補給。
今一番聞きたくない単語だ。
今の今までの安心感は何処へやら、俺はあからさまに嫌な顔をしてやった。
「そんな顔してもダメ。痛いだろうけど我慢して飲め」
な?と優しく諭す神崎の表情は、本気で俺を心配していた。
「食べられそうなもの買ってきたから選んで」
そう言って目の前で見せられたのは、コンビニの袋だ。2リットルサイズのペットボトルが数本、そしてゼリー飲料、プリンなどが袋いっぱいに入っていた。
なるべく喉に負担の少ないものを選んでくれているのがわかった。
「どれにする?」
「..........」
飲み込まなければいけないのはどれを取っても同じだ。
ゼリー飲料とプリンを交互に見てから、神崎を見上げた。俺の答えを待つ神崎に、食べなきゃだめ?と目線で訴える。無駄な抵抗だとわかっていてもせずにはいられない。意地でも選ばされると思っていたのに、意外にも神崎はそんなことはしなかった。待ってましたとでも言いたげな、得意気な表情を浮かべていた。
「あー、言い忘れてたけど、キッチンに出来立てのスープもあるよ」
「.......つくったの」
「そ。生姜と玉ねぎのスープ。すりおろしてあるから、飲みやすいと思う。身体もあったまるよー」
神崎の手作りのスープ。
抗生物質よりも、頓服薬よりも、どんな薬よりも効きそうな、あたたかくて愛のある薬だと思った。
「.....スープ、のむ」
そう声を絞った俺に向けられた神崎の表情と頬を撫でる手の感触は、とてもとても優しかった。
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