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『吉日の厄難』にしおりをはさみました!
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『吉日の厄難』
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「本当にいいのか?」
サイン会当日。開催まであと十分少々といった瀬戸際で、慧はもう一度だけ念押しの確認をする。
「結構な数が来てるみたいだぞ」
今の時点ではまだ、こちらの様子が見えないようにパーテーションで廊下を完全に塞いであった。だがプラスチック板ひとつ隔てた向こう側は、集まった鬼塚ファンの声で相当賑やかしい。
ざわめき立った話し声に緊張が高まっていく。
「おいおい……何回聞けば気が済むんだよお前は」
朋久は呆れた笑いを浮かべ、気持ち肩を竦めて見せた。泰然と構えていられるのが信じられない。あとほんの少しで、この仕切りはなくなってしまうというのに。
朋久は作家だ。〝鬼塚久〟というペンネームで、いわゆるゲイノベルを書いている。だが、彼自身がゲイだという事実以外、その素性は一切公開されていなかった。世間の冷酷さを考えれば当然の判断だろう。
同性愛者というマイノリティーに対する偏見は、どうしたってなくならないのだから。露見した瞬間あからさまな嫌悪や侮蔑を向けてくるような人間が、世の中にはごまんといる。
気鋭のゲイノベル作家が一貫してその素性を秘匿してきたのも、有名になればなるほど、彼の私生活が脅かされないからだ。ネットに顔が晒されれば、どこへ行っても〝あいつはゲイだ〟と後ろ指を差されることになるだろう。
だから今回のサイン会でも秘匿性を重んじ、訪れたファンとの間に顔が見られないような細工をする予定だった。が――。
朋久はその予定を翻し、大勢のファンと対面する気でいる。
友人としても、一ファンとしても、心配は尽きない。
「もう決めたことだからな。今さらジタバタしたって意味ねぇよ」
「そうか……分かった」
だが、芯の通った瞳できっぱりと言われてしまっては、これ以上食い下がることもできなかった。
思えば、朋久は昔からこうだったような気がする。頑固というか、一度決心したことは絶対に覆さないし、自分の反対意見など端から聞き入れた試しがない。
「だけど、撮影は絶対に禁止の方向で行くからな」
声を潜めつつ、口調だけはことさら強くした。これだけはなにがあっても絶対に阻止しなければならない。そう自らにきつく言い聞かせる。
最初、朋久は写真撮影すら許可する気でいたのだ。そんなことをしたらあっという間に拡散されてしてしまうというのに。
「俺は別にいいんだけどな」
「いいわけないだろ。少しは真面目に考えろよ」
悠然とした苦笑を零す朋久をもどかしく思いながら、時計に目を落とす。七時五十七分――サイン会の開始時刻まであと三分を切った。
「まあ、任せるぜ。お前の判断はいつも大体正しいからな」
「……よく言うよ」
そう思うなら、当初の予定を崩さないで欲しかったのだが。当日になってから、いきなり「顔を隠すのはやめた」なんて言い出さないでくれと思う。
鼻を一つ鳴らし、心の中で自分に活を入れた。
かねてより尊敬していた作家の初サイン会。しかもその作家は自分の旧友でもある。二重の意味で、失敗は許されない。
万事つつがなく終わらせてみせる。
本番二分前、慧は素早くパーテーションをすり抜け、思わず息を飲んだ。
(予想以上に多いな……)
廊下の片側、一列にずらっとファンが並んでいる。最後尾まで見通すことさえできなかった。
自分のほかにも鬼塚久のファンはこんなにいたのかと、少しばかり興奮してしまう。あの作品のよさが分かる人間が、こんなに。
しかも、列の先頭にいるのはどこかで見たことのある少女だ。いつだったか『新宿二丁目の夜明け』という作品を嬉しそうに買って行ったあの少女ではないだろか。
今度こそぜひとも語り合ってみたいところだが、そんな余裕は当然ない。今は仕事の時間だ。
「皆様、ご静粛に願います」
特に声を張り上げる必要はなかった。なぜなら自分が姿を現した瞬間、大半の男たちが自然と口を噤んだからだ。
硬派なゲイノベル作品のファンは、必然的にゲイが多い。こうして見渡す限りでも、一目でそうと知れる男ばかりだ。一人で来ていたり、あるいはカップルで来ていたりと差はあれど、どの客も新宿二丁目あたりでよく見かけるような風体をしている。つまり、同じ性癖を持つもの同士には隠しきれない特有の雰囲気を纏っているのだ。
値踏みするような視線をいくつも感じつつ、ざわめきがゼロになる瞬間を待った。
自分の容姿が彼らの目にどう映るのかはとっくに自覚済みだ。あとは接客用の完璧な微笑みを浮かべるだけでこと足りる。
「これより、鬼塚久先生のサイン会を開催します。つきましては注意事項が二点だけございますので、ご清聴のほどよろしくお願い申し上げます」
衆目の視線を受け止めつつ、淡々と言葉を紡ぐ。写真撮影は禁止であること、もしも盗撮を発見した場合は画像の消去を申し付けた上で速やかに退場を願うことになる――その二つを淡々と事務的な口調で告げた。
「何卒ご理解とご協力のほど、よろしくお願いいたします」
そう締めくくって一礼し、パーテーションを脇へと片付ける。緊張の欠片も見せない朋久と柔らかな視線を交わして頷き合う。
こうしてついにサイン会は始まった。
(まずいな……この分だと予定時間までに終わらない)
腕時計を確かめながら、いまだ途切れることのない列を逆に辿っていく。ざっと数えただけで、まだ裕に百人はいた。
さほど広くもない廊下にぎっちりと人が詰まっている。
自分がサイン会の会場として選択したのは売り場フロアではなく、普段は従業員しか使わない内廊下だ。頭の中で何度もこの日をシュミレートし、最終的には一階のこの内廊下を使うと決めた。
鬼塚久という特異な作家のサイン会とあれば、まず一般客の視線を気にしなければならなかったのだ。本人のためももちろんあるが、一番は集まってくるだろうファンのために。
もしも売り場フロアに延々と長蛇の列ができていれば、一般の客たちも感心を持ち、ネットで〝鬼塚久〟の名前を検索するだろう。そしてそれがゲイノベル作家だと知れば、並んでいる人間の多くが男性だという事実に照らし合わせてしまう。結果、サイン会に訪れたファンたちのプライバシーが侵害されかねない。
故に、サイン会の参加者には前もって店の裏口から並んでもらうことにしたのだ。
(それにしても多いな……どこまで続いてるんだ)
コソコソと写真を撮っている輩がいないか、鋭い視線で監視しながらも足早に列を遡る。誰もが同じ本を手にし、気の早い者はさっそく読み耽っていた。
鬼塚久の最新作――『新宿二丁目の悪魔』は、このサイン会で先行販売の告知が出ていた。前作の続編であり、書き下ろしのそれが他所より早く手に入るという特典があれば、遠方からでもかなりのファンが集まってくるだろうと読んでいた。
その読みは正しかったが、ある意味では誤算と言える。まさかここまで人が集まってくるなんて。
ちらりと腕時計を確かめれば、既に九時半を回っていた。
サイン会の開催は午後八時から閉店時間の十時までの予定だが、このままでは到底予定通りに終わらない。それどころか、本の在庫が足りたかどうかも怪しかった。
「あら、慧ちゃん?」
気の急くまま裏口に向かっている途中、聞き覚えのある声に呼び止められた。声の主を探して視線をさまよわせる。
「嫌ねぇ、ここよ。ここ」
「あ、」
含むような笑い声の気配を辿って、思わず目を見開いた。見知った顔がはにかむように微苦笑している。
「朱(あかり)さん。お久しぶりです」
「ほんとよ、まったく。アンタって子は、どうして忘れた頃になんないと顔見せてくれないのかしらね」
そう嘆くのは、少し前まで足しげく通っていたゲイバーの店主だ。一度大翔を連れて行ってから、ぱったりと音信の途絶えた自分に呆れているらしい。
すぐに気づけなかったのは彼の服装が見慣れなかったせいだ。トレードマークのノースリーブドレスではなく、ありふれたシャツにジーンズでは、見違えるのも仕方ないだろう。それに。
(なんか、遠い過去の知り合いみたいなんだよな)
自分にとっては、もうずっと昔のことのようだ。新宿二丁目の熱欲を孕んでしっとりと湿った空気も、どこか埃っぽくて暗いその手の店も。
自分の中ではとっくに風化し、過ぎ去った時間だ。もう二度と会うことはないだろうとさえ思っていた。
「朱さんも鬼塚先生のファンだったんですね」
「当たり前じゃないのよ。あんな滾る小説書いちゃうオトコ、落とさない手はないわ。あーもう、どんな男前かしら。わくわくしちゃう」
懐かしい店主は小躍りせんばかりに浮かれている。まあ、その期待が裏切られることはまずないだろう。鬼塚久という作家――朋久は確かに男前だ。
「まだ少し時間がかかると思いますが、どうか楽しんでくださいね」
「ええ、モチロンそうするわよ。慧ちゃんも頑張りなさい」
「はい」
思わぬ再会に自然と口元を綻ばせつつ、朱ママと別れて裏口へ進む。長々とした列も、彼の後ろ十人ほどでやっと途切れていた。
「あ、志槻さん」
「お疲れ様です。在庫は足りましたか?」
裏口すぐの小スペースで販売作業を担当していた安見と顔を合わせ、短く問いかける。
「はい、ぎりぎり足りました。残り三冊です」
「そうですか」
端的に頷き返すが、内心では大きく安堵の溜め息をついていた。遠路はるばるやってきたファンもいる中で、在庫が足りなくなっていたらと気が気ではなかったのだ。
「とりあえずお疲れ様でした。事務所に戻って売り上げの集計をお願いします」
「分かりました」
安見は銀縁眼鏡の奥で穏やかに笑い、売り上げ金をしっかり抱えて去っていく。あれだけの数を相手に、電卓一つだけで延々と本を売っていたのだから大したものだ。
優秀な部下を賞賛の眼差しで見送り、自分も警備を再開しなければと来た道を戻る。が、その途中――
「てめぇっ!! さっきからなにジロジロ見てやがんだっ!!」
不意に前方から騒々しい怒鳴り声が響き渡り、思わずぎょっと足を止めた。
ほとんど同時に凄まじく鈍い打撃音が続く。
一人の男が、宙を舞っているかのように見えた。実際、そう見えた。
だがそんなわけはない。男は瞬く間に背中を壁に強打し、しかし驚くほどの俊敏さで身を起こした。
(は……?)
今の一瞬で、一体なにが起きたのか。予想外の事態に対処できず、しばし呆然と立ち尽くす。
「……ってぇなっ!! なにすんだごるぁっ!!」
「上等だ! やんのかごるぁ!!?」
「ちょっとっ、なにやってんのよアンタたちっ!?」
巻き舌の応酬と、朱ママの素っ頓狂な声、動揺する人々のざわめきが重なって聞こえ、そこでようやく我に返った。
だがいかんせん、動き出すのが遅すぎたらしい。二人の男が衆目も構わず、怒号を飛ばして掴み合いの大喧嘩をしていた。一人はいかにも血の気の多そうなスキンヘッドの大男で、もう一方はこれまたいかにも人の道に背いていそうな金髪の若者だ。
「おいやめろってっ!」
「お前ら落ち着けよッ!!」
「っるせぇッ!! 邪魔すんじゃねぇっ!!」
幾人かの男が仲裁に入るが、既に二人に見境はないらしい。割って入った男たちですら殴り飛ばされ、カッとなった様子で殴り返し合う。
長い時間動きのない列に、誰も彼もが苛立っていたのだろう。あっと息を飲む間もなく大乱闘になってしまった。
「やめなさいよッ!」
「お客様っ、おやめ下さい!!」
慌てて止めに入った朱ママと自分まで揉みくちゃにされ、どうにも収拾がつかない。
「っ……!!」
誰かの肘が頬を強打した。火花が散ったような視界に思わず呻き、バランスを崩して転倒したところを誰かに踏みつけられる。脇腹に誰かのつま先が食い込み、呼吸さえできなくなった。
(クソ……っ、)
どうしてこんなことになったのか。自分がなにか間違えたのか。
「慧ちゃんっ!!」
できる限り身体を庇って小さくなっていた自分を、朱ママが助け起こしてくれた。
咳込みながら何とか立ち上がるが、騒動は一向に収まりそうにない。
「ヤダッ! アンタ、顔ひどい怪我よっ!?」
「私は平気です。それより――」
「ああもうっ! うるっせぇんだよごるあああああああああ!!!!!!」
出し抜けに、本当に突然、鼓膜が劈けるほどの怒声が響き渡った。怒れる鬼神か悪魔の如き重低音は腹の底から震え上がるほど恐ろしく、全ての人間が戦慄に動きを止める。
耳がおかしくなったのかと思うような静寂が訪れた。
「こんなことしにきたんじゃないでしょう! 頭を冷やしなさいッ!!」
鋭く叫ぶ朱ママはいつもの甲高い声音だ。今のは幻聴かなにかだったのだろうか。
呆気に取られる自分を他所に、混乱はおよそ収束していた。あとにはなんとも気まずい空気が取り残されている。
これをチャンスとばかりに、慌てて口を開いた。
「皆様、お待たせいたしまして申し訳ございません。ですが、どうか節度をお守り下さい」
全身ボロボロの自分が口にしたことで、より切実さが増したのだろう。誰からともなく謝罪の言葉がポツポツ紡がれる。元凶となった二人が憮然とした表情ながらも握手で和解した瞬間、盛大な拍手が湧き起こった。
「まったく、どうしようもないお馬鹿さんたちね」
朱ママが心底呆れたように嘆息し、自分も顔に出さず同意する。
結局なにが原因だったのか分からないが、スキンヘッドの男が自分の恋人らしき青年の肩を抱いているのを見て、なんとなく事情を察した。青年は線の細い、可憐な美男子だった。
ゲイばかりの空間であの容姿の男がいれば、こういうろくでもない事態を招くことは多々ある。巻き添えを食らった身としては傍迷惑なことこの上ない。
乱れたスーツを直しながらその場を後にし、朋久のいる場所へと戻った。列の前方に並んでいた人々が、後方の騒動は何事だったのかと好奇な視線を向けてくる。
「お騒がせしました」
努めて朗らかな笑みを演じつつ、説明は一切しない。顔に痣をこしらえた自分のその対応だけで、大方の察しがついたのは間違いなかった。
「……大丈夫か?」
最後のファンを見送ったあとで、朋久が気遣わしげな視線を向けてきた。そっと頬の傷に触れようと伸ばしてくる手を、さりげなく押し退けて目を伏せる。
「平気だ。それより、悪かったな。せっかくのサイン会だったのに」
自分がもっと早い段階でしっかりと対応していれば、あんな騒動にはならなかったかもしれない。そう思うと、どうにも申し訳なかった。
「バァカ、お前のせいじゃねぇだろうが。なに言ってんだ」
「ッ、てぇ……」
思いっきり背中を叩かれ、激痛が駆け抜ける。頼むからこれ以上いらない傷を増やさないで欲しいのだが。
「あ、悪ぃ。……お前マジで大丈夫なんだろうな」
「大した怪我じゃない」
軽く手を振って誤魔化し、朋久が使っていた椅子に腰を下ろした。
多少厄介なアクシデントこそあったが、サイン会は終わったのだ。当初の予定から大幅に遅れ、現在は深夜十二時を少し過ぎてしまっている。
「やっぱ、次からは人数絞った方がいいよな。二百回以上サイン書きまくってたらペンネームが分かんなくなっちまった」
朋久の軽口に笑い、ふと思い出す。そうだ、自分もサインを貰わなければと。
「ちょっと待っててくれ」
朋久を待たせ、二階の事務所へ向かった。納品早々、いち早く取り置きしておいた新作本を手にし、すぐさま朋久の元へ舞い戻る。
「疲れてるとこ悪いけど、もう一回だけサインしてくれ」
そう言って本を差し出すと、朋久は驚いたように目を見張った。その顔がゆっくりと笑みを浮かべる。
ハードな表紙をめくった一ページ目の白紙に流麗な文字でサインが綴られていく。
〝志槻慧へ これからもよろしく 鬼塚久〟
たったそれだけの文字列がとてつもなく嬉しく思えた。ずっと応援していた作家のサイン。ずっと昔に決別してしまった友人からの言葉。
「俺こそ、よろしくな」
もう、かつてのように切ない感情を抱くことはないけれど。それでも、大切な友人としてこの先も繋がっていけたらいいと思う。
力強い握手を交わした瞬間、自然と笑みが零れた。それはいつかの頃と寸分違わない無邪気なものだったことに、慧自身は気づいていない。
このときの慧は、早く家に帰ってこの本を読了しなくてはと思う傍らで、自分の怪我を大げさに騒ぎ立てるだろう恋人のことを考えていた。
一体、どう説明したら大人しくなるんだろうか、と。
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