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兆候-12にしおりをはさみました!
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兆候-12
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ウサギが現れた、或いは悪夢として現れてから、二日が経った。
大河の前で立て続けに起こり、ついには夢の中で危害をも加えた忌まわしい着ぐるみの姿はそれから見ていない。
大河が奴を殺してから、ピタリと止んだかのように思える。
(俺のせいなのか?)
せいも何も、現れなくなったのは、見えなくなったのは喜ぶべき結果である。しかし、まだ油断は出来ないだろう。たった二日、姿を見せないだけだったのだ。再び現れないとも限らない。
大河はあのウサギを、幻覚だと思うことにした。リビングにもドアにも斧が刺さった形跡はないし、血痕も一つもない。放置した筈の包丁は元の引出しに収納されているし、血液も付着していない。
修学旅行での気味の悪い、そして腹の立つあの時の着ぐるみの件がいまだに尾を引いているのだ。自分は決してメンタルの弱い男ではないことは分かっていたが、あの時すでに無意識下で恐怖を感じていたのだろうか。でなければ幻覚など見る筈がない。
何だか無茶な考えのような気もしたが、大河は深く考えるのを放棄した。
二日ぶりに学校へ登校した。珍しく遅刻せずに一時間目からだ。
休校に流されて更に学校をサボっていれば、鬱々とした気分で一日を過ごす羽目になると思ったからだ。たとえ幻であってもウサギの件で、全く恐怖を感じていない訳ではない。ずっと家にいたら自分がおかしくなってしまいそうだった。
ただでさえ、見る筈のない奇妙な幻覚に悩まされているのだ。自分が狂っていると突きつけられるのは嫌だった。
大河が一時間目が始まる前の教室に入った時、妙な緊張感が走ったのが分かった。
犬飼が死んでから間もない。それで更にクラスメイトは警戒心を強めているのだろうが、いつもより歓迎されていない気がするのは、大河が珍しく朝から登校しているのも原因の一つだろう。それに加え。
「うわ、……っ」
トイレで鏡を割った時に入ってきた男子生徒。恐らく、あれからすぐに吹聴したのだろう。
大河の拳の傷はまだ消えていない。案外深かったようで、まだ瘡蓋にさえなっていない。
授業開始の鐘が鳴り、柏木が入ってきた。
「皆、席に着けー」
大河も窓際最後尾の自分の席に大人しく着いた。
「あれ、珍しいな。仲宗根が朝からいるなんて」
「……いちゃ悪ぃのかよ」
教壇に立った柏木が軽い口調で話しかける。担任と不良の会話にクラスメイトは冷や冷やしていた。
「別に? 屋上は寒いからサボれないとか?」
「煩ぇな。何だっていいだろ。柏木には関係ねえ」
教師が生徒のサボりを黙認しているのが明らかになったが、誰も口出しはしない。大河に関しては、ほとんどの教師が諦め状態なのだ。
「まあいいか。じゃあ、今日から普通に授業始めるぞー」
「えー」
宇佐見が不満の声を上げる。張り詰めていた空気が柔らかくなった。
「えーじゃない、宇佐見。二日も予定が狂ったんだぞ」
柏木の表情には、およそ悲しみや遣る瀬無さというものは現れていない。あえて見せないようにしているのはクラスメイトの誰もが知っていた。犬飼の死を忘れるなんてことは絶対に出来ないが、いつまでも引き摺る訳にはいかなかった。
「よし、教科書167ページ開けー」
教師らしくない粗雑な所作と、言葉の端端に確認できる乱雑さ。柏木錦を担任とする2Cは、いつもの風景を取り戻そうとしている。
大河は早速、机に突っ伏した。朝から登校してみたはいいものの、最初から真面目に授業を受ける気などさらさらない。
十二月の教室、窓際。窓が開放されることはないが、ほんの僅かな隙間から冬の風が入り込んでは、大河の首筋を弱く撫でる。眠れない。
大河は頭をガシガシと乱暴に片手で掻き回した。隣の席の男子が視界の端で大袈裟に身体を揺らし、机がガタンと煩い音を立てた。
チョークが黒板にぶつかる小気味良い音と、柏木の説明の声を、聴覚がぼんやりと捉える。
中途半端に訪れて去ってしまった眠気のせいで、頭がしゃんとしない。瞼も重いような感じはするものの、眠りにまでは入れない。
大河はふと、窓の外を見た。空は曇天で覆われているが、まだ雪は降りそうにない。
すると、窓硝子の表面に異変が起きた。
雨が叩きつけているのでも強く風が吹いているのでもないのに、硝子が震えている。弱い振動が走っている、という程度ではない。嵐か台風の日のように、今にも割れそうにガタガタと喧しい音を立て始めたのだ。
(誰も変に思わねえのか?)
大河以外の生徒は何事もないかのように、皆、授業に集中している。一部、柏木を茶化したり雑談している者もいるが、大河のように窓に顔を向けている者は誰一人としていない。
おかしい。こんなに耳触りな音が鳴っているのに、誰も不快に思わないのだろうか。
大河が、ガタガタと震える窓を見つめていると、再び表面に変化が起きた。
何か、線が現れたのだ。
「……?」
赤い線だ。反射的に、強い警戒を抱く。
その細い線は文字を書いているようで、徐々に言葉を成していく。
『わたしの 玉の緒 たちきった の は』
ガタン!
全ての文字が書かれる前に、大河は勢い良く椅子から立ち上がっていた。椅子が後ろに倒れて、大きな音が教室全体に響いた。
「ど、どうした、仲宗根?」
板書していた手を止めて、柏木がこちらを振り返っている。クラスメイトも、何事かと大河を振り向いて凝視していた。
また、動悸が激しい。大河の意思とは関係なく、ドクドクと高まっていく。全身の血が心臓に集まってしまったかのように、身体の末端は急速に冷えていく。
「仲宗根、大丈夫か?」
焦点の失いそうな目線を彷徨わせると、何も言わない大河を心配してか、柏木が教室の後ろに歩いてくる。その様子もどこか夢のようにはっきりとしなく、大河の混乱する視界の端に追いやられた。柏木が手を伸ばした。
「おい、なかそ――」
「触んな!!」
肩に触れた柏木の手を、大河は乱暴に振り払った。居場所を失った柏木の手が、中途半端に宙に留まる。
柏木の顔が歪んだ。
「急にどうしたんだよ、仲宗根。具合でも悪いのか?」
心配する柏木と、黙して二人の様子を窺うクラスメイト。全てが、今の大河の気に障る。
“具合でも悪いのか?”
その言葉も、大河を余計に苛立たせる原因だった。
具合は悪くない。むしろ良好の筈なのに、どうして大河が“おかしい”みたいな言い方をするのか。
自分はおかしくない。どこも変じゃないのに。
この空間にいるのが堪えられなくなって、大河は柏木を押し退けると走って教室を飛び出した。後ろから大河を呼ぶ柏木の声が聞こえたが、無視した。何も聞きたくなかった。
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