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カズとヒロの話③
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フライパンの中でくっついた二つの目玉焼きをフライ返しで切り分け、皿へ載せたところで寝室の扉が開いた。中から這って出てきたのはまるでゾンビのような出で立ちの夏生だった。社内できゃあきゃあと騒ぐ女共に夏生のこの姿を見せてやりたい、と和矢は思ったが、異常に寝起きの悪い夏生の姿を見られるのもまた和矢だけに与えられた特権だった。そして、和矢にはそれを誰かに譲ったり貸し与えたりするつもりはない。
タイミングよくトースターがチンと鳴って焼き上がりを告げる。夏生がテーブルを伝ってようやく椅子に腰掛け、リモコンを探る手がテレビをオンにする。いつもの朝だった。
「はよ、夏生」
「……はよーございます」
夏生はまだ半分寝ぼけているのか眉だけ引き上げた細目で和矢の方を向いた。和矢は思わず噴き出した。この変顔をひとりで独占するのはやはり少々勿体ない気はする。俺のだぞ、と自慢して回りたいという意味において。
「コーヒー入れるから顔洗ってこいって」
「まだ身体が起きれん」
「顔洗ったら目も醒めんだろ」
「……誰のせいでっ」
「えっちしなくてもお前は寝起き悪ぃよ」
ぐずる夏生を洗面所へ送り出し、準備したカップに湯を注ぐ。最後に食パンを取り出して皿へ盛り、テーブルへと並べた。ずいぶんいい加減な洗顔で夏生が戻り、席につく。幾分か頭は回るようになったらしい。向かいに座った和矢と共に手を合わせた。
夏生と知り合って二年が過ぎた。
就職活動、入社式、研修と真面目に社会人への一歩を踏み出しようやく落ち着いた頃合で、久しぶりに顔を出したクラブには研修で目にした夏生がいた。壁に凭れて佇む夏生は人懐こい柔らかな表情を浮かべながらも、怜悧な刃物のような鋭い雰囲気で周囲を遠巻きにしていた。――誰かに、似ていた。
あんな場所でリアルの知り合いに出くわしたらお互い見て見ぬフリでもするのがマナーかもしれない。けれど就職したばかりの会社でしかも同期では、どのみち付き合いは長くなる。和矢は腹を探り合うよりベッドに連れ込んで身体を探り合うことにしただけだ。
その一夜が一週間になり、一ヶ月になる。一ヶ月が一年になって、三年目に突入した。
「あ、これか」
夏生がトーストを齧りながらぽつりと呟いた。和矢は夏生の視線を追いかけてテレビを見る。朝の情報番組が流行りのバンドの新曲ミュージッククリップを流していた。
「庶務の横山さんが俺に似てるって」
「どこが」
「さぁ? 雰囲気?」
「似てねえだろ」
テレビの中では白い服を着た男性と女性が荒れた温室の中で手を繋いでいた。酔いそうな色使いの映像の中でカメラが男の横顔にズームする。整った顔立ちは一年ほど前にもテレビで何度か見かけた。ちょうど夏生と暮らし始めるようになった頃だ。
「夏生のが寝起き悪い」
「うるせー」
夏生はただの暴言だと取ったようだった。
もう和矢はテレビを見てはいなかった。一年経っても、五年経っても、ヒロの姿は変わらない。それどころか痩せすぎだった身体には程よく肉が付き、均整が取れて色気が増した。画面越しに見てそうなのだから、実物はいかほどだろうか。
あの朝、目が醒めたらもうヒロの姿は部屋になかった。代わりにロアテーブルの上に置いてあったのは茶色の封筒で、中には「お世話になりました」の一筆とともにアルバイトの給料約二ヶ月分の金が入っていた。
だから、あの一週間のことは綺麗な思い出として残っていない。
もぬけの殻のような状態で大学に行き、夜は荒れたように男漁りを繰り返し、それでもひと月が過ぎた頃、和矢は生活に対する危機感からようやく新しいアルバイトを探して普通の生活に戻った。普通の生活に戻ったつもりだったが、その頃には好みのタイプがすっかり変わってしまっていた。
誰とセックスをしてもヒロの面影を探した。その虚しさからたまの休みの日でも夜に出歩くことがなくなった。自宅と大学とバイト先だけを往復する毎日が続き、それはそのまま就職活動に追われる日々に変わった。
研修で夏生を見かけた時、ヒロのことを思い出さないわけではなかった。クラブからそのままホテルに連れ込んだ時も正直に白状するなら面影を重ねた。
それでも、もうその時点で過去の話だった。過去の話と片付けられる程度には勤勉な生活を送ってきたのだ。そして、二年の歳月は夏生だけに想いを捧げられるようになるのに充分だった。
和矢がたったひとつの傷も付けまいとした一週間は、ヒロの手で粉々に破壊されて終わった。
それはきっと必要なことだったと、今の和矢ならそう思うことが出来た。もしもあのまま、夏生ではなくヒロと続くことがあったとしたら、もしもあの一週間が綺麗な思い出になっていたとしたら、和矢は今のようなまともな人生を歩んではいなかっただろう。
人の幸せは様々だ。好きな人と一緒にいられればそれだけで幸せだという人がいることも理解はできる。ただ、和矢は決してそういうタイプではなかった。
バイトも、買い物も、掃除も洗濯も、そして風呂も歯磨きも髭剃りも、全て後回しにしてセックスだけに没頭した。あれほど自堕落に生きた一週間もない。あんな生活を、ずっとは続けられないし、続けたくもない。
そして和矢は、こうしてずっと一緒に生活していける相手を求めてどれほど飢えていたか気付かされることになった。夏生と一緒にいるのは、ヒロに似ているからではない。和矢の求める幸せの中に彼がいた。
「今日さ、遅くなるから先寝てろよ」
テレビはもうなんだか分からない街頭インタビューを映し出していた。脳に糖分が行き渡り始めた夏生は、徐々に彼元来の透き通った空気を纏っていく。
「ちゃんと帰ってくるよな?」
思わず口をついて出た言葉に、夏生が「なんだそれ」と笑った。
「ここ、俺んちでもあるんだけど? 俺ね、お前のそういうとこ好きだわ。和矢は時々仔犬みたいな顔するからさ、かわいいよな」
「はあ?」
「置いてかないでくれって全力で訴えるカンジ。ぞくぞくする」
「言ってろよバーカ」
「お前ドライブに誘って山ん中で置き去りにしたらどんな顔すんのかなって想像するだけでイけそう」
「うわードSだなあ、引くわ」
「お前ほどじゃない。……おかげでこのクソ暑いなか一番上までボタン留めてネクタイしたまま残業とかマジで拷問なんですけど」
「えー? 俺なんかより定時でクーラー切っちまうウチの会社のがよっぽどドSでしょーが」
「なるほど。和矢と会社で寄ってたかって俺のこといじめてるわけね」
「その表現やめて」
夏生の縒れたTシャツの首元から覗く赤い鬱血痕から、和矢はそっと目をそらした。頭のまわり始めた夏生は饒舌だ。
朝からするには下世話なトークはコーヒーと共に飲み下して終了させる。二人揃ってシンクに食器を運び、二人並んで皿を洗う。洗剤担当の夏生が先にキッチンを離れて歯を磨く。遅れた和矢は後ろから鏡越しに夏生の顔を見ながらやはり歯を磨いた。寝室では着替えを先に済ませていた和矢の方がワンテンポ早い。ネクタイを締めるだけの和矢と違い、寝間着替わりのルームウェアから着替える夏生を待って部屋を出る。
「今日中には帰れると思う」
その言葉が和矢をどれほど安心させるか夏生は知らない。これからも、あの一週間のことなど話すつもりはない。それはもう、話す必要のない出来事だ。
ドアが閉まり、きちんと整えられた部屋がその奥に仕舞われる。そこは和矢と夏生が帰ってくる大切な場所だ。
思わず綻びそうになる口元を引き結んで、和矢は鍵を締めた。
――カズとヒロの話、了
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