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相思相愛
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野川の瞼が開くまでは、30秒もなかっただろう。
ほんの一瞬の様にも感じられた。
「? 黒木、先生…? ……? …ッ!?」
初めはぼんやりとした様子だった。
しかし、状況が分かると同時に飛び起きて、壁に背をぶつけるほどの勢いで下がり、反射的に立ち上がってしまったこちらを、戸惑った様に見上げた。
第一声からさぞかし怒られるだろうと覚悟したが、野川は驚いたまま呆然とこちらに見入る。
「…?!」
その弱々しい視線に驚き、目を見開いた。
眉は顰められ、少し開いた唇は心細げに震え、瞳は不安そうに揺らめいて、睫毛が瞬く。
…この表情には、どこか見覚えがある。
國廣のパーティーで、セクハラに遭った野川が、自分を見つけた時…。
あの時の、心許ない表情と似ていた。
心配で塗り潰されて邪な情欲は鳴りを潜めていたとはいえ、自身を愛し、狙っている悪魔を前に、何て顔を、するのだ。
「…野川先生…?」
つい呼んでから、しまった、と思ったが、もう遅い。
野川は、ハッとして、まるで顔を隠す様に俯いてしまった。
ただ、靴を履こうとしている手は、少しだけ震えている様に見えた。
「…何故ここに…?」
やはり、怒っている。
覚悟はしていたものの、その冷たい声音に心臓が凍りそうな気持ちになった。
声が震えているのは、怒りのせいなのか、それとも。
…張り詰めた空気の中、傍の長机に預かった荷物を置いてから、おずおずと経緯を説明した。
「…事務局で、先生宛のお荷物を預かってきたんです。」
「出入り禁止だと言った筈ですが。」
硬くて冷ややか、それでいて低く静かな声に、心まで青褪めながら、必死に言を継いだ。
「も、申し訳ありません。でも、在室の札が掛かっているのに御返事が無くて、心配で…っ。」
「…寝ているのが分かったら、速やかに退室すべきでしょう。」
「そ、れは…、仰る通りですが…。」
「ですが、何です。」
言うか言うまいか、迷ったのは一瞬だった。
「…出て行こうとした時、呼ばれた様な気がして…。」
「…っ、呼ばれた…?」
そっと問い返す野川の首筋には、明らかに緊張が走り、こちらも思わずゴクリと喉を鳴らした。
「ええ。それで振り返ったら、先生が、酷く魘されているご様子で…。」
「…。」
「丁度…寝返りを打とうとなさって、そのままだと長椅子から落ちると思い、慌ててお止めしました。」
説明を終えると、野川は身体を硬くしたまましばらく押し黙った。
その瞳が、潤んでいるのか、揺れているのか、泳いでいるのか、沈んでいるのか、こちらからは見えない。
しかし、きっと睫毛だけは震えているに違いなかった。
「…心配をかけて、すみませんでした。私は大丈夫ですから、もう行って下さい。」
出てきた言葉だけは、先程までと同じだが、もう誤魔化されたくはない。
「野川先生、お話ししたい事が、」
「それは。…仕事の話ですか?」
余裕なく言葉を遮り、質問を返す様子に、焦りが滲んでいる。
このまま出て行くわけにはいかない。
「…いえ。でもっ…!」
「では出て行って下さい。また時と場所を改めて話しましょう。」
「っ野川先生! このままには出来ません。夢の中で私を呼び止めたのは貴方だ。」
「…! …っ確か、さっきは呼ばれた様な気がして、と。…呼ばれたとは言いませんでしたよね?」
ハッキリと狼狽している野川の、苦しい悪足掻きを前に、先程無理にでも抱き寄せてしまえば良かったか、と、黒木は悔しさに顔を顰めた。
解けてみれば、何故今まで分からなかったかその方が不思議な程に。
野川は嘘つきだが、とことん嘘が巧い訳ではないのだ。
「いいえ。確かに呼ばれました。“黒木先生”と。」
野川は、呆れた様に笑った。…自嘲している様にも見えた。
「貴方に…、関係のない夢を見ていた私が、貴方の名前を呼んだりする筈が無いでしょう。気のせいです。」
「…っ野川先生っ! 貴方は、私を…ッ!」
“RrRrRrRr…”
二人同時に、内線のコール音にビクッと肩を引きつらせた。
気をとられている間にも、野川に腕を押され入口近くまで追い遣られ、さらにドアまで開けられてしまった。
「さあ、もう行って下さい。電話に出なくては。」
「野川先生っ…。」
「イギリスから戻った後も出入り禁止になりたいのですか? 私は構いませんが。」
黒木は、脅し文句を聞いて、胸が冷やりと寒くなった。
お粗末でも苦しくても、本気で言われた言葉だったからだ。
耳に迫る様に鳴り響く電話の音と、頑なな野川に、気ばかり焦って、それ以上まともに口もきけないまま、結局、あっさりと追い出されてしまった。
こうなったらもう、入れては貰えまい。
目の前に立ちはだかった扉が憎くなって、つい一つ、拳で叩くと、遣る瀬ない気持ちで自室に戻り、ドアに背を凭せかけ、口を覆った。
今、自分はどんな顔をしているだろう。
目を覚ました時の野川の目はどう考えても。
「…。」
自分に縋るように揺れていた瞳が、鮮烈に目に焼き付いている。
図書館で野川が言った、会うたび心奪われる程好きな人、というのはやはり、まず間違いなく…。
…素直で可愛らしくて、眩しいかどうかはこの際置いておくとして。
「…。」
頬がにわかに熱を持った。
思う人に、自分も思われている。
黒木は、頭にずっとかかっていた靄が一気に晴れた様に感じた。
野川は、自分を好きなのだ。自分と同じ意味で。
そして恐らくは自分と同じくらいの強さで。
魘されてはいたが、夢で呼ばれたと思ったのは、気のせいでは無かったのだろう。
そう考えると、先程自分の体温で和らいだ表情に、一層愛おしさが込み上げた。
何故遠ざけるのか、それは何となく推測に難くはない。
何にしろ野川の事だ。是か非かは別として、きっとこちらの事を思っての事だろう。
いつから。
いや、そんなことよりやっぱり、今すぐにでも戻って話すべきだろう。
そう思い、ドアの取っ手に手をかけた瞬間。
…京都での事が頭に浮かんだ。
また待てずに、傷つけて泣かせるのか。
自問して、手をそっと下ろす。
もう、二度とあんな悲しい顔をさせるのはごめんだ。
野川の思いを知って、一層、自分のやってしまった事の重大さが肩に重くのし掛かった。
自分は何て遠回りをしてしまったのだろう。
何て、莫迦を…。
胸は高鳴り、吐く息は苦く、思いは募って、気は漫ろ。
黒木は、机に向かって座り、右の手のひらを眺めた。
自らの手に、ジッと視線を落とし、握ったり、開いたりして、先程触れた野川の頬の感触を探すかの様に。
先程、“貴方は私を愛しているのか”と、そう確かめようとした。
次は、もう一度こちらから愛を告げよう、そう固く誓う。
ふと時計を見れば、約束の時間まではまだ間がある。
しかし、仕事は何も手につかない。
ひたすらに、まだ少し呆然としている頭で、落ち着かない心を宥めるのに忙しかった。
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