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帰りの新幹線1
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出張帰り。
東京行きの新幹線の中で、ふと、肩に重みを感じて、黒木は窓側の席をそっと確認した。
まだ東京に着くまでに一時間くらいはかかる車中、意外にも、隣の野川が寝息を立て始めていた。
この肩に、頭を預けて、である。
「か…」
かわいい、と呟きかけて、我に帰り、緩んだ顔を素に戻した。
年上の、上役の、それも男だ。可愛いは無いだろう、と正面を向いて、目を泳がす。
…結局、もう一度野川を、今度は覗き込む様に見つめた。
息をひそめて、そっと。
綺麗な顔立ちに長い睫毛。…かなりの童顔だと思う。10歳も離れているようにはとても見えないほどだ。
しかしながら、精神年齢は、計り知れない。
自分がどんなに野川にとって無理なことを言っても、歓迎会の時のように拗ねた態度を取っても、また、藤沢などがどんな無茶を言っても、石倉に優しくからかわれても、怒った様子は見せない。
少なくとも、黒木は見たことがない。
例の捉えどころのない、優しげな微笑みを浮かべては、周囲の要求を捌いていく。
時に受け流し、時に気遣い、無理な要求にも自分なりに応える努力を見せ、時には遣り取りを本当に楽しんでいる素振りをする。
そんな人が。
今、無防備にも自分に頭を凭せている。
一見、目を閉じているだけのように見えるが、背中など全身の動きから、その呼吸の深さが伝わってくる。
本当に眠っているのだ。
驚きを通り越し、感動するのも無理のないことだろう、と…言い訳がましいことを延々と考えた。
とその時、丁度新幹線が停車した。
「! おっ…と…。」
肩から、頭がズレ落ちそうになるところを、優しく、受け止めた。
額にそっと手を当て、また肩へ。
野川が、目を覚まさないのを確かめ、ホッと胸をなでおろした。
寝不足だから、もう少し眠らせてやりたかっただけだ。
この時間が、少しでも長く続けば良いとか、そんなことを思っているわけではない。
何とも胸温まる微笑ましいひと時ではあるが。
「……。」
…昨日の朝、午後から始まるシンポジウムに間に合うよう、二人駅で待ち合わせ、大阪行きの新幹線に乗った。
こちらは、この前の押し問答の件もあってとても気まずかったのだが、野川の態度は、至っていつも通り。
昼時には二人で駅弁を広げながら、この前の、百人一首の話まで持ち出して、図らずも恋の歌の話で盛り上がってしまった。
気に入りの恋の歌だと言って明かした歌と、同じ歌を野川も好きだったと分かると、それをきっかけに、様々なことをのべつ幕無しに語り合った。
その時の野川は、本当に掛け値なく楽しそうで、また、黒木にしても、心底楽しい一時だった。
初めて、野川の心からの微笑みに触れられたようにも思う。
結局、一般参加も可能なシンポジウムの内容にはあまり魅力を感じられずにいた二人は、日帰りの予定を急遽変更して、今日の研究発表会まで覗くことになり。
会場近くのホテルでツインの部屋をわざわざ一部屋だけ確保して、昨夜は徹夜するかという程に、それこそ野川が書いた例の紀要の論文の話から、定家の話、大学の教授陣に関する他愛ない話に至るまで話しに話し込んだ。
いつの間に寝たのか、朝起きると同じベッドのあっちとこっちに転がっていた。
昨夜の野川は、ー元々聞き上手な質でもありー終始にこやかにして、持ち込んだ酒も入れば、時には声に出して笑い合いもし、黒木とすれば、夢にまで見た幸せな時間を過ごしたのだった。
…きっと、これ以上は何も言わないつもりなのだろう。
野川は、共同研究を引き受けない。
切なさに、胸が締め付けられた。
正直言って、共同研究には、…未だこだわりはある。
あるが、しかし、自分はもうさすがに専門を変わるような無謀を二度とする気は無い。
もちろん、古巣に戻る気も無い。清明に骨を埋める覚悟で来たのだ。
昨夜、野川と話している内、このまま焦って無理強いを続け、本来幸せなはずの時間を憂鬱に通り過ごしてしまうよりも、希望は捨てず、何年かかってもいつか実現すれば良いという気持ちで気長に構える方が、お互いにとってずっと幸せだと思えたのだ。
そしてこれはきっと、
「貴方の作戦なんですよね…?」
悔しいが、野川の搦め手からの見事な攻めに、まんまと城を明け渡してしまった。
それも、こんなにも幸せな気持ちにさせられて。
争うのは好きでは無いし、感情を露わにするのも苦手で、本心を見せないでいるのが一番安らかな人。
そのためになら自らにも他人にも、あっさりと嘘をついてしまう人。
何せ、本心は放っておいて欲しいくせに、一緒に帰りたいと言えば是非そうしましょう、と言ってしまうような危うい人だ。
だからこそ、疎外感を感じ、苛立ちもし、傷つきもしたのだが。
やっぱり笑顔の印象そのままの優しい人なのだ、と改めて思う。
「知りたいんです、もっと」
今度は、貴方の話も聞かせて下さい、と心の中で呟いて、肩の位置に気をつけながら背凭れにそっと身を沈める。
寝不足なのは同じで、野川の深い呼吸を感じている内、間も無く黒木も意識を手放してしまった。
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