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9-ⅱ
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畳み終えた毛布をソファーの背もたれにかけて、彼の座るカウンターの中へと戻る。さてどうしようかと眞戸は考えながら、俯きっぱなしの男に視線を向けた。
「今日はどうかしましたか?」
眞戸の問いかけに、男はピクリと体を動かした。その反応から、彼がここにただ珈琲を飲みに来ただけではない事は明白だった。
そもそも、こんなに朝早くから訪れるというのが当たり前ではないのだから、何かこの店かマスターである眞戸に用事が有ることは分かりきった事だ。
男は悲しそうな顔をして眞戸を見上げる。猫目気味の愛嬌のある顔が台無しだ。それなりにしていたら人気のありそうな顔なのだが。
ふと、眞戸は先日乙常が彼ともう一人を連れてきた時のことを思い出した。眞戸の記憶のどこかに、彼の記憶がある気がしていたことを。何か言いたそうにしている男より先に、眞戸は口を開いていた。
「実は僕、貴方に会ったことがある気がしていて…」
「……あの、それがもしかしたら…、会っているかもしれません。ずっと前に……」
少しの沈黙が二人の間に流れた。どちらかが気付くまでには充分だった。
「眞戸…紗嘉さん?」
「いかにも、僕は眞戸紗嘉ですが…」
「俺のこと、覚えてないかなぁ…深月だよ。すずにぃちゃん」
「…深月?」
「うん」
確かめるように呼んだ眞戸の声は、驚きと興奮に震えていた。
ガタリと音を立てて、深月が立ち上がる。眞戸もカウンターから身を乗り出して、お互いの手を取り合った。まるで女子が共感者に対してするように。
「やっぱりそうだったんだ!良かった…何年ぶりかな?」
「僕が団地を出てからだから、十年……くらい?」
眞戸はどこか宙を見ながら数を数えて、驚き混じりの声で言った。
安田深月(やすだみつき)とは、過去眞戸が団地に住んでいた頃、よく一緒に遊んでいた。彼の兄である安田朋霽との関係の方が今は濃いが、深月まで兄と同じ所に来ていたとは思わなかった。
「そんなに経ったのか…。いやね、兄貴からすずにぃちゃんの事は聞いてたから、この間先輩に連れてきてもらった時に看板見て、もしかしたらって思ったんだよね」
「僕の事聞いてたって?」
「“時計屋”ってカフェで働いてるって」
「訳しても時計にしかならないのに」
「だろうと思った。兄貴は誰かがそう呼んでるのを聞いたってだけで、店は知らないって言ってたから」
深月はニッと歯を見せて笑うと、幼い頃の面影が見えた。あえてそんな兄にここの存在を教えなかったのは、深月が昔からよくしていた兄弄りだろう。
頭は良いが鈍感な兄と、頭はそれなりだが勘の良い弟。こうして当てた答えは、兄には決して教えないのが深月という男だ。
「ヤストモらしいなぁ…」
二人はどちらからともなく握り合った手を離すと、眞戸は蒸気を吹くポットの火を止めて、深月は席に座りなおした。必要な容器を出して、フィルターの中にお湯を注ぎ入れていく。芳しい香りが立ち上る中、再び二人は話し始めた。
「それにしても、よく読めたね」
「俺、趣味でフランス語ちょっとだけかじってるんだ」
深月は悪戯っぽく笑うと、先程とは打って変わって上機嫌で机に両肘をついた。組んだ指の上に顔を落とし、眞戸に柔らかい笑顔を向けた。女性が見たらきっと、恋に落ちてしまうのでは無いかと思えるほど様になる顔だ。
深月は元々、兄の朋霽とは違った方向での格好良さがあった。朋霽が誠実で硬派なイメージの見た目に対し、深月は愛嬌のある美形。中性的なのではなく、現代っ子らしい格好良さだ。
眞戸はポットの珈琲をカップに注ぎながら、そんな深月を見てクスクスと笑った。
「これはまた、ずいぶん知的な趣味だなぁ」
「そうかな?ま、好きだからさ」
カップを深月の前に置いて、横にミルクと砂糖の入った小さな籠を置く。どうぞと言うと、深月は俺は珈琲はブラックだよと自慢気に言った。そういう所にはまだ幼さを感じるのだが。
「それにしても、すっかり大人になって…」
「言い方がおじいちゃんみたいだ」
「いやぁ、気分は孫の成長を喜ぶおじいちゃんだよ」
実際もう十年は会っていないし、ちょうど深月が大きく変わる時期に別れた。眞戸が気付かなかったのも、そのせいなのだろう。
眞戸の中で深月は、十二歳の頃のままで止まっている。まだ小さかった彼がこんなにも立派になったのだから、全国の祖父母が成長を喜ぶ気持ちもわかるというものだ。
「変わんないな、すずにぃちゃんは」
「深月も。見た目は変わったようだけれど」
「そぅ?」
「うん。格好良くなった」
二人はお互いの根本的な所が変わらないことを喜んだ。
人とは変わりやすいものだ。環境と状況が変わってしまえば、そこで今までの自分を貫き通すのは難しい。影響を受けてしまうのは、仕方のない事なのだから。良くても悪くても、少なからず変化はある。それが成長という形で互いに表れたのだから、嬉しい事だ。
「ねぇ、今度ご飯行かない?」
「もちろん、深月が大丈夫な時を教えてくれ。僕はいつでも大丈夫だからね」
深月は分かったと言うと、時計を確認して珈琲を一気に飲み干し、お代を机の上に置いて立ち上がった。どうやら彼は、仕事前にここに立ち寄ったらしく、時間がギリギリだと焦った様子でドアに手をかけた。
「また来ても良い?」
深月が振り返り、眞戸を見る。さっきは分からなかったが、深月の身長は眞戸とあまり変わらないくらいあった。
「あぁ、いつでも」
「ありがとう。ご馳走様」
「お仕事頑張って」
深月は小さく手を振ると、ドアを押して出て行った。成長した彼の背に眞戸は微笑みかけて、再びソファーに横になった。
もちろん、二度寝をするために。
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