アダルトコンテンツが含まれます。
18歳以上ですか?
- 文字サイズ:
- 行間:
- 背景色:
-
45
-
今度は振り向かなかった。どれだけ名前を呼ばれても、圭吾は歩き続けた。角を曲がってから、そこにあった電柱に背を預け、ずるずるとその場にしゃがんだ。
「幸樹、幸樹……幸樹っ」
両手で顔を覆うと、涙が一気に溢れ出す。
「おまえと幸せになりたかった……っ、おまえと、おまえと!」
誰も恨めないこの状況が苦しくてたまらなかった。あんな姿を見せられては、幸樹のことも恨めないではないか。裏切り者、と罵れないではないか。
ひとしきり泣きじゃくってから袖で顔を拭い、立ち上がる。猛にはじきに職場に着くとメールを送り、一歩、また一歩、足を動かした。
これが別れだ。
戻らない五年。愛が刻まれたあの日々。あっけなく消えてしまったそれ。
もう囚われない。捨てられ、捨てた愛を踏み越えて、自分は進むのだ。
下を向くこともなく、圭吾は職場までたどり着いた。太陽は真上にある。携帯電話で時刻を確認したら、昼の休憩時間帯だった。
店の中には立山がいて、花の鮮度を確認していた。すぐに仕事にかかりますと言えば、どうせお昼ごはんをまだ食べていないのでしょう、と返される。彼女は店の奥を顎で示し、何か食べてから仕事に入ってと言うので、圭吾はありがたくそれに従った。
休憩室のドアを開くと、拓也がいた。携帯電話を操作しながら、弁当を食べている。
「遅れてごめん」圭吾は小さなテーブルを挟んだ向かい側に座った。
「ん、大丈夫。そんで、こばっちさんは弁当あるの? よかったらこれ、食べる?」
拓也から菓子パンを受け取り、礼を言う。
「何をしているの?」菓子パンの袋を開けながら尋ねた。
「うん。睡眠アプリを見てるんだよね。この間、こばっちさん言ってたでしょ? 寝つきが悪い時があるって」拓也は携帯電話の液晶画面を圭吾に向ける。「ほら、これ」
拓也からアプリの説明を受ける。それは様々な機能があるもののようだ。起床時刻をセットすればその時刻にアラームが鳴る。どういう仕組みかはわからないけれど、就寝時刻と入眠時刻が分かれている。つまり、眠りに落ちる時がアプリには判断ができるということである。寝言を録音できる機能もあるので、寝返りや寝息などを音声マイクが捉え、それらの情報により入眠したと判断しているのかもしれない。
「睡眠効率もわかるんだ。寝つき、眠りの深さもね。今日にでも試しにやってみなよ」
拓也が言うので、圭吾は携帯電話にアプリをダウンロードした。
「寝つきがよくなるのかな」
「うーん。寝つきをよくするためにデータ収集する、っていう感じかな。どんな寝言を呟いているのか聞いてみたいし、今夜から毎日やってみて。そんで、一緒にデータ確認しようよ」拓也はうきうきとした様子だ。
「面白そうだし、やってみようかな」
「約束ね。絶対! 絶対だよ! 僕もやってみるからさぁ、ふたりで聞き合いしようね。あっ、エロい寝言が録音されてたらごめん」ぺろっと舌を出している。
圭吾は菓子パンに齧りつきながら笑った。
「それ、新商品なんだってさ」
「えっ? それなのに、よかったの?」
「買ってから、ハンバーグが食べたくなっちゃって、弁当も買ったってわけ。だから、気にしないで!」
弁当にハンバーグはない。視線に気づいたのか、彼ははにかんだ。
「好物は真っ先に食べるタイプなの」
「へぇ……それで、端に避けてあるブロッコリーは?」
「苦手なものは誰かに食べてもらうタイプなの!」
ブロッコリーを差しだされた。
「はい。どうぞ!」
「仕方がないなぁ」開いた口に、ブロッコリーが放り込まれる。
食事を終えた頃、立山が休憩屋へ入ってきた。
「圭吾君、ごめんなさいね。お客様がブーケを依頼したいって。あなたが直接お話を聞いた方がいいと思うから」
「はい、わかりました。すぐに行きます」
圭吾は店内に出た。カウンター越しに女性客と対面する。
「どんなブーケをご希望ですか?」
日常は、こんなにあっけなく、悲しみというものを遠ざける。圭吾は打ち合わせをしながらぼんやりと思った。
現在の設定
文字サイズ
行間
背景色
×
45 / 46