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久しぶりに大きな半紙を広げてバケツ片手に筆をふるう。
何年かぶりに描いた仁王像はひどく不格好に見えた。
森崎くん達が来るまでに文字をひたすら書いていた。
二人が現れてからの方が大型作品の指示は飛ばしやすいかなということで、それまでは思うがままに漢詩を書き殴っていた。
二人がアトリエにやってきた時にはちょっとした量になっていて、森崎くんは驚いて、間宮くんは何故か感激していた。
作品に没頭していると頭の中が空っぽになっていい。
現実から逃げられる。
パティが死んだ時みたいに。
「先生、お茶入れるんで少し休みましょうよ」
森崎くんが心配そうに声をかけてくれた。
気づいたら冷房をつけているのに汗だくになっていた。
「あー。切りのいいとこまでやるわ。二人は休んでろよ」
「いや、俺達よりも先生が休んでくださいよ。俺達が来る前よりも来てたんなら、何時間やってんすか!」
「何時間だろうな。覚えてねぇや」
こう太を見送ってからすぐにアトリエに来て、ざっとシャワー浴びて、それからずっと紙と向き合っていた。
だけど、不思議と疲労感はなかった。ハイパー状態なんかな。
視界に入っていないんだけど、後ろで囁きあう二人の声もばっちり聞こえていた。
森崎くんはひたすら、俺の頭の引っかき傷を気にしていた。
「…あの頭の傷もそうなんだけど、先生どうしちゃったんだろ」
「…心配です。ご無理なされなければよいのですが」
「…いや、もう無理状態だと思うけど。どうしよ?」
「…どうしましょうね。ですが、先生の真剣な横顔は大変素敵なのですね」
「コラ!うっとり禁止!」
そんな二人の会話が気を紛らわせてくれる。家に一人だと静か過ぎて辛い。やっぱり、ここ来てよかったなと思っていると。電話が鳴った。
思わずびくついて振り返ると、間宮くんがすぐに向かってくれた。
だけどそのまま、心配そうな顔つきで受話器を持って戻ってきた。
「石川先生、小学校からです。保険医とおっしゃるのですが…」
なんとなく来ると思っていたので、そこまで慌てなかった。
「お電話代わりました、石川です」
間宮くんから受話器を受け取ると、静かなアトリエだったけど隅の方に移動した。
電話は保険医の女の先生からで、今保健室でこう太が寝ているが、一向にこう太の熱が下がらないとの電話だった。
迎えに来れないかという心配そうな声に、俺はすぐに行きますと即答した。
「…ごめん、こう太が熱だしたって。小学校に迎えに行くから、今日はもう帰るわ」
「えぇ!?大丈夫なんすか?」
「…休めって言ったんだけど、どうしても学校行きたいっていうからさ」
「車を回してきます」
「ごめん、助かるよ」
颯爽と出て行く間宮くんの後に続いてアトリエから出る。戸締りは森崎くんがしてくれるというからそれに甘えた。
森崎くんは俺が熱出したわけじゃないのに、すごい心配そうな顔で「ゆっくり休んでください」と何回も言ってくれた。
その優しさが嬉しくて、お礼を言ってから車に乗り込んだ。
学校の保健室に入ると消毒液の匂いが鼻につく。
一番最初に目に入ったのは、こう太のランドセルを持った垓だった。
その表情に一瞬ひるむ。
小学生とは思えないくらいに冷たい顔で俺を睨みつけていた。それが父親の華田そっくりで、思わず息をのんだ。
垓は俺にランドセルを押し付けると、何も言わずに保健室から出ていく。
扉の開く音に気づいて、カーテンの奥から白衣を着たおばちゃんが出てきた。
「どうも、石川です」
「あ、お父さんですね。石川くん、お父さん来てくれたわよ」
保険医のおばちゃんがこう太に声を掛けるも、何も帰ってこなかった。
肩ごしにこう太を覗くと、壁際に顔を向けるように丸まっていた。
「起きれるかしら?」
「大丈夫です。抱えていきますんで」
ランドセルを腕に引っ掛けると、こう太を抱き上げようと手を伸ばした。
一回、それを振りほどかれたけど構わず肩と膝の裏に手を回して抱き上げた。
久しぶりに抱っこしたこう太は驚くほど軽かった。
「二時間目の前に来て、四時間目が終わるまで眠っていたんですが熱が上がってしまって。給食もいらないと口をつけなかったんです」
「そうですか…」
俺もだけどこの二三日まともに飯を食っていない。それでも空腹感なんか感じなくて、頭だけがハイになっている。腕の中のこう太は俺の胸に顔を寄せているので、今どんな表情をしているのかわからない。
先生に何度も頭を下げてから駐車場まで戻る。間宮くんが心配そうな顔をしてドアを開けて待っていてくれた。
「このまま病院に向かわれますか?」
後部座席に横たわるこう太を見ながら間宮くんに尋ねられる。
頼む、と即答しようとしてふ、と気づく。
「あー…、ダメだ。保険証家に置いてきた。しまったな…」
「では、一度家に戻りましょう」
「うん。あー、どこ置いたっけ…」
俺は顔を覆って項垂れる。自分のだらしなさをこんなに憎んだことはない。
ちゃんと保管していたとは思うが自信がない。最後に使ったのは七月の旅行の時だと思うけれど、そのあとどうしただろうか。
多分、こう太なら知っていると思う。
(…教えてくれるかな)
何となく拒否されるような気がして、自分のダメ親父ぶりにひたすら頭の中で自分を罵倒していた。
「ホントありがとな、助かったよ」
「いえ、病院まで送らせていただきます」
「あー…保険証探すの時間かかるかもしれねぇし、タクシー呼ぶから、あとは大丈夫だ。ありがとうな」
「ですが…」
こう太をベットに寝かせてから玄関口で間宮くんに礼を言う。
間宮くんは終始不安そうな顔で俺をみていた。俺は車持っていないからと病院の送り迎えを買って出てくれたが、さすがに悪い気がして断った。
それでも食い下がらない姿は、ちょっと前までは考えられないことだ。
そんな押し問答をしていたら、スマホが震えた。思わず画面を見ると、華田の名前。
「ちょっとごめん」
思わず着信に出ると、華田の不機嫌そうな「よう」という声が聞こえてきた。
『医者にはもう行ったのか?』
「え?いや、まだだけど…。なんでお前知ってんだよ?」
『垓から「こう太が具合悪いから診てくれ」って頼まれてな。診療所が終わってからだから、18時過ぎに診に行ってやる。おとなしく待ってろ』
「…頼む」
電話はすぐに切られた。俺なんかよりも垓の方がよっぽど冷静だ。
俺は間宮くんに向き直ると、心配そうな間宮くんに無理に笑顔を作る。
「華田が診に来てくれることになった。だから家で待ってるわ」
「それは良かった。華田さんなら安心です」
「おう。ごめんな、こんな時間までつきあわせて。気をつけて帰ってくれよ」
「はい、失礼します。…先生、何かお困りごとがありましたら私でも森崎さんでも構いませんので、遠慮なくお申し付けください」
間宮くんの優しい口調がじんわり胸に広がる。俺は「ありがとな」と短く礼を言うと、帰っていく間宮くんを見送った。
*
「よう。具合はどうだ?」
落ち着いた声に起き上がると、垓くんのお父さんが立っていた。
お父さんが頼んだのか、垓くんが頼んだのかはわからないけど、まさか家に来るなんて思っていなくてボクは固まってしまった。
部屋には二人きりで、緊張してしまってボクは何も話せなくなって俯いてしまう。
「季節の変わり目だからな、体調を崩しやすい」
前にお父さんを診に来た時や普段の口調とは違う優しい口調に、何となく垓くんを思い出す。
垓くんのお父さんは真剣な顔で、喉の奥を見たり、首のところを触ってボクの様子を見ていく。それからカバンから聴診器を取り出した。
「服、胸のとこまでめくってくれ」
その言葉に思わずビクってなってしまい、自分でもしまったと思う。
あからさまな格好に、垓くんのお父さんも何かに気づいたみたいで。
「どうかしたか?」
「あの…」
しなきゃいいのに、ボクは思わず自分の体を抱くように胸の前で腕を交差した。
でも、見られたくない。お父さんに赤い跡をいっぱいつけられてて、まだ消えていないんだ。
だけど無理やりめくられたらどうしようかと思うと怖くなってくる。
ぎゅっと目をつぶって黙っていると、ポンと頭に手が乗せられた。
「わかった。もう診察はこれで終わりだ。薬飲んで寝ちまえ」
思わず目を開けると、優しい顔で垓くんのお父さんは笑ってくれた。
その笑顔が垓くんとそっくりだから、思わずドキドキしてしまう。垓くんがカッコイイのお父さん似だからなんだ。ずるい。
「垓が心配してたから、早く良くなれよ」
「はい、ありがとうございます…」
最後にニィっと笑ってくれてから部屋から出て行った。
寝ようかと思ったら、床の上にライターが落ちているのを見つけてしまった。垓くんのお父さんのだと思って、起きるのは辛いんだけど立ち上がって追いかけようとした。
ちょっとドアを開けると、話し声が聞こえてきた。
「…保険証なんていつも携帯してろよ。なんでお前はそうなんだよ」
「…スマン」
「…ったく。何があったか知らねぇが、腑抜けやがって。俺は帰るぞ」
リビングを歩き回る音が聞こえた。こっちに来るかなと思って待っていると。
「…なぁ、華田。もし、もしもあの子が俺のとこにいたくないって言ったら、お前のところか保村のところで見てもらえないか?」
お父さんの言葉に心臓が止まりそうになる。
だけど、すぐに聞こえてきた何かを殴るような鈍い音と、倒れるような大きな音で我に帰った。
「お前呆けたことぬかしてんなよ。しっかりしろよ!」
いつも冷静な垓くんのお父さんからは想像できないような大声に、ボクも思わず震えてしまった。
そのままドスドスという足音が聞こえてきたので、思わずドアを閉めて息をひそめた。
力いっぱい玄関を閉める音が聞こえてから、また家の中は静かになった。
大変なことになってきたと、ボクの背中に冷や汗が流れる。
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