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リビングのドアが開かれる音がする。足音が近づいてきて、肩に手が触れる。しかし俯いていた顔を上げる気にはならなかった。萩谷は体を丸めたまま、目線だけを上にあげた。
「あ、寝てはないんだね」
志野の顔がちらりと見える。萩谷が寝ていないことを確認し、志野は満足そうに笑ってソファーの萩谷の横に腰かけた。萩谷も志野も互いに声をかけることはなく、志野は黙ってテレビのチャンネルをいじり始める。
流れてきたのはバラエティ番組。様々な声が矢継ぎ早に飛んでいく。萩谷の耳が言葉をとらえる前にまた次の場面へと移り変わっていく。
物事をとらえる感覚が遅くなったことをこのごろ実感する。興味もない事柄を追いかけて一々意味を確かめる必要もないと頭が判断しているのだろう。単語だけが耳に入ってきて、考えることもなく途切れていく。テレビは暇つぶしにはならない。一方的に流れていく画面を見つめていると違うことを考えてしまう。
だからこそ萩谷には誰かが必要だった。話しかけられたら答えなければいけない、ちゃんと相手の話を聞いて把握しなければいけない。音は否応なしに耳に入ってくるし、黙っていたら怒鳴られるから、萩谷はちゃんと答えるようにしていた。門井の声が聞こえたら、ちゃんと顔を上げるようにしていた。
でも、あの声はもうしない。
「……英治さん」
「……」
「ねぇ、英治さん。無視しないでよ」
急に肩を揺さぶられてびくりとした。思わず顔を上げると、志野は萩谷の様子をうかがうように眺めていた。
「……」
「英治さん好きなものある? オムライスすごい勢いで食べてたけど、あれ好きだった?」
「…………その呼び方、やめてくれないか」
なんだか思い出してきてしまう。無意識に薬指の付け根を触る。本来ならそこにあるはずの硬い感触はない。
別に共通点はなかった。萩谷の妻は真っ黒で大きな目をしていた。目の前の男のように色素の薄い茶色の目から妻のイメージは思い浮かばないはずだ。それでもなぜか、妻と同じ自分の名前の呼び方をするこの男を見ていると、あの時の幸せな時間を思い出してしまった。そわりと体を動かし、志野との距離をとる。
酒が欲しいと思った。あれがあれば解決できる。なにも考えないまま体が温かくなって、気づけば明日の朝になっている。
志野は不思議そうな顔のままじっくりと萩谷を観察していたが、不意に何かを思い出した様子で時計を見て声を上げた。
「そろそろ風呂湧いたはずだから行く?」
さっき俺が言ったことに返事はないのか。口の中でそう呟いている間に、志野は萩谷の手首を掴んでいた。綺麗な顔立ちの割に力の強い志野は、ぐいぐいと萩谷を引っ張って立たせて歩かせる。
萩谷は志野の言いなりになりながらリビングを出て廊下を通り脱衣所にたどり着く。「もう溜まってるから脱いで入って」と言った志野は中々脱衣所から出ていかなかった。一人暮らしを想定してあるだろう狭い脱衣所の中で萩谷と志野は数秒見つめ合ってしまった。
「どうしたの?」
「……いや、お前がいるから……」
「今さら裸が恥ずかしいの? 昨日もうじっくり見たから気にしなくていいよ」
平気な顔をしてそんなことを言われ、萩谷は自分の顔が熱くなるのが分かった。昨日いつの間に風呂に入れられていた事実を実感してしまう。
「手首にたくさんリスカのあとがあるのも、あざとか擦り傷とか色んなところにあるのも知ってるよ。昨日英治さんが寝てる間に見ておいたから。別に全部恥ずかしいことでもないし、そのうち治っていくもんだよ」
「っ……お前」
「奥さんと何かあったとかは知らないけど、その様子だとかなりきついみたいだし、どうして精神科とか行かなかったの? もしかして行ってたの?」
志野が萩谷の左腕を掴む。そこには確かに刃物で傷をつけた跡が残っていた。腕を引いて逃れようとするも、強く掴まれ表情が歪む。
「……お前には関係ないだろ」
「そうだけど、俺の部屋でそんなことされたら困るし」
「…………しないよ」
萩谷は自信なく呟く。歯切れの悪い回答に志野は目を細めた。
「英治さん、あなたは俺に色んなもの取られてること忘れないでよ。何か余計なことしたらすぐに俺は処分できるんだから」
「……」
「俺の言うこと通りに素直にしてくれてたら無事に解放するし全部返してあげるから。大人しくしてて」
萩谷には頷くしか選択肢が残っていない気がした。
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