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第3話
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遠くで目覚ましの音が聞こえる。一瞬体が冷たい空気に触れ、隣から体温がなくなる。浅い意識の中で、息苦しさに顔を歪める。
それから完全に目を覚ましたのは数10分後で、自然に覚ますと言うよりも、志野に起こされてしまったような感覚だった。肩を揺すられ、いつもより重いまぶたをなんとかこじ開けると、志野がこちらを覗き込んでいた。
「あー、やっぱ風邪移っちゃったみたいだね」
志野の冷たい手のひらが、ぼうっとしたままの萩谷の額に当てられる。頬や首元にもぺたぺたと触れてくるその冷たさが萩谷には心地よかった。
この生活、得体の知れない男である志野との共同生活を続けて1ヶ月が経過した。萩谷はもう粗方のことには慣れ始めていて、三食をきちんと食べ、昼はトレーニングをただひたすらにこなし、疲れ果てて夜にぐっすりと眠ると言う健康的な毎日を送っていたのである。そのおかげで随分と肉付きも良くなり、体力も向上してきていたはずだった。
しかし、1週間ほど前に志野が仕事場から貰ってきた風邪で寝込んだことにより、萩谷も2日前から体調を崩してしまっていた。発熱した志野は移すといけないからと寝室に閉じこもっていたのだが、その努力は報われなかったらしい。
志野はすでにスーツに着替え終わっていて、今から家を出るところのようだった。少し心配そうに眼鏡のレンズ越しに茶色の目が顔色の悪い萩谷を見る。
「英治さん大丈夫? 喉、また痛い?」
素直に頷いた萩谷の反応に、志野は苦笑を浮かべる。
「ついていたいんだけどこの前休んだばっかりでまた有給使うのもきついんだよなぁ……熱これ以上上がらなければいいけど」
「……気にしなくていいから」
「気にしないわけないでしょ」
顔を触れられても抵抗する言葉すら出ない萩谷に志野はどうしたものかと微かに首をひねった。あまりにもその姿が過度なものに思えて、萩谷は思わず口を開いた。
「……自分の世話ぐらいできる」
「ここからトイレまで歩いて行ける?」
「……なに馬鹿なこと言ってるんだ」
大した距離もないのに、どうしてそんなに心配そうなのか。萩谷は不機嫌そうに眉根を寄せる。
「はいはい拗ねないの。今年の風邪は熱が高いみたいだから少し心配だったんだよ」
「英治さんがそう言うんだったら俺もう行かないと」。志野は再びそっと萩谷の額に手のひらを押し当てる。ひやりとした感触に目を閉じた萩谷は志野の抑えた笑い声を遠くで聞いた。
次に目を覚ました時には志野はいなかったが、額には熱を吸収するシートが貼られ、頭の下にはタオルで包まれた氷枕が挟まっていた。目線だけで周りを見ると、いつの間にか隣にイスが置いてあり、そのイスの上にはトレーに乗ったラップのかかった茶碗とスプーン、コップ1杯の水に白い錠剤が2粒、それから折りたたまれた小さな紙があった。体を起こして紙を手に取って開いてみる。
薬は朝食の後に食べること、腹が減ったら冷蔵庫にあるものを食べておくこと。そんなことが簡潔に書いてある紙を眺めて、ラップのかかった茶碗をのぞき込む。茶碗の中身は雑炊らしく、卵やネギなどがご飯と一緒に炊かれていた。あの料理べたが朝からこんなものを作っていったのかと正直驚いたが、申し訳ないことに食欲は湧いていなかった。仕方なく横になるが、もう眠気はない。
いらいらしながら目を閉じる。体はだるくなる一方で、寝返りを打つのも嫌になる。仰向けになって寝室の天井を眺めるが、そこには白い無地の天井と照明器具があるだけだ。
顔が熱く、頭が痛い。額に貼ってあるシートもそれほど効果を発揮しなくなり、生ぬるい感触が伝わってくる。思考がとろとろと溶けるようで、あらぬ方向に進んでいってしまう。様々なことが頭の中に浮かんでくる。
家族のこと、あの日のこと、あの子の両親のこと、自分の母親のこと、外国にいる兄のこと、連絡をくれなくなった門井のこと。全てが萩谷を責めてくる、重く体と思考にのしかかってくる。今さらどうしようもない過去が、じくりじくりと胸をえぐってくる。
萩谷は体が弱いと言うこともなかったため、人並みに風邪を引いたりはしていたが、熱を出して学校や会社を休むのもあまり経験してこなかった。熱が少しあっても薬を飲めばすぐに良くなる質で、熱を出した翌日にはもうけろりとしていたことが多かったのだ。
過去に1度だけ、立つこともできないような熱を出した時は、妻がわざわざ仕事を休んで看病をしてくれた。
務めていた学校が受験生の進路の決定に忙しかった時期に、どこで気が抜けてしまったのかうっかりとインフルエンザにかかってしまった萩谷は、生徒に移すよりは家で大人しくしておいた方がいいとの判断を下して仕事を休み、ベッドの中で高熱に耐えることにしたのだ。移すといけないからと言うのに、妻は何かと萩谷のそばにいてくれて、まだ幼かった娘も、父親の異変に気づいて心配してくれた。寝室に入って直接お話できないから、と娘と手紙でやりとりしたことを思い出し、無意識に手書きの文字が書かれた紙を指でいじっていた。
ここで待っていれば、昼を食事を妻が運んでくるかもしれない。心配になった娘があのドアから顔を覗かせるかもしれない。とろけたような思考でそう思ってしまっては虚しくなり、目元が熱くなる。ここで自分がどれほど唸って苦しんでいても、誰も助けに来てはくれない。優しい妻も、可愛らしい娘も、もうどこにもいないのだから。
妻の、あの子の両親に会ったのは何年前のことだろうか。最後にあったのは葬式も全て終わった次の日で、あの人たちはわざわざ業者を呼び、妻が持ち込んだ家具や道具を全て萩谷から奪い去ってしまった。
妻と娘と取った写真すらも、あの人たちは持っていった。唯一残ったのは自分の携帯で撮った家族旅行の時の写真と財布に挟んでいたものだけ。結婚指輪も危うく取られそうになって慌てて隠していたのだ。あの人たちは、どんな些細な面影も萩谷の元に残していく気はなかった。あの人たちは呪文のように、お前のせいだと呟いていた。
娘がこんな目にあったのもお前と結婚したからだ。娘にはまだ将来があった、大学にも進むはずだった。お前が全てを台無しにしたんだ。
葬式が終わった翌日、萩谷は呪いの言葉を刻み込まれた。妻と娘が死んだのは全て自分のせいで、あの子の将来は自分が奪い取ったのだ。自分が悪い、自分が奪った、自分が殺した。
時々錯覚する。妻と娘は本当に事故だったのだろうか。その記憶こそ、作られた記憶ではないのだろうか。愛する家族を殺した自分が、いいように作り出した、自分を甘やかす嘘ではないか。疑問は確信に変わり、萩谷はしっかりとその感触まで掴んでしまう。あの日、妻と娘を轢いた瞬間、跳ね上がったトラックの座席に座る、なんとも言えない絶望感を。
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