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ロミオとジュリエット 1
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2018年9月、東京でスポーツや芸術部門の優れた選手アーティストに贈られる功労賞の受賞パーティが行われた。
その会場に、ひときわ目立つ男がいた。
長身に漆黒の髪、黒いスーツと黒いシャツを装い、暗いグレーのネクタイを締めている。物静かで、おいそれと話しかけるのをためらうような落ち着きと品格を放っている。
東郷悟(とうごうさとる)、42歳。
職業はドイツサッカーリーグの名門、ブラオミュンヘンの監督である。
W杯優勝を何度も経験したサッカー強豪国で、初めての日本人監督である。
60あるドイツのプロチームの中で、外国人監督は18人を数える。
日本人は、もちろん東郷ひとりである。
東郷は、日本とドイツの双方で教育を受け、サッカー選手になったがわずか20歳で怪我のため引退した。
サッカー監督が、元有名選手と言うのは実は少数派である。良い選手と良い監督は別物なのである。
たとえ元選手でも、無名の理論派が名監督になる場合が多い。
短い選手生活の後、東郷は大学でトレーニング理論、解剖学、生理学、心理学、栄養学を学んだ。
彼が、再びピッチで脚光を浴びたのは、26歳の時だった。
コーチを経て、ドイツサッカー連盟の指導者A級ライセンスを取得し、まずは2部監督に就任した。
26歳の若き監督は、みるみる頭角を現し始めた。
緻密且つ、鋭い戦略でドイツ国内リーグ、国外戦で次々と勝ち上がって行ったのである。名門ブラオミュンヘンの1部監督に就任したのは8年前である。リーグ優勝も3回果たし、すでにベテランの域だ。
その、緻密な戦略は100年に1人の逸材と評された。
最先端の高度な知識を選手に教え、指導者として極めて高い評価を受けた。
”ヨーロッパで勝つ”と言うことが何を意味するか。
W杯より、ヨーロッパ予選を勝ち抜く方が困難だと言われるくらいである。W杯を目指す欧州列強の壮絶な戦いがそこにある。1年以上も続く予選で、ある時は優勝経験国ですら敗退した。国の威信をかけて戦い、あるチームは歓喜しあるチームは悲涙する。
数多くのドラマがそこに誕生する。
その日、東郷は、東京の御堀端のホテルの大広間で、後ろから声をかけられた。
「東郷さんですか。ブラオミュンヘンの東郷監督さんですよね?」
振り向くと、ほっそりとした少年のような体躯の若者がにこりと微笑んでいた。周囲の華やいだざわめきと、絨毯の効果で足音がしなかった。
「思い切ってお声をかけて良かったです。道ノ瀬です。道ノ瀬結(みちのせ ゆう)と申します。」
道ノ瀬と名乗った少年、いや青年だろう。彼は、高揚したように言った。
紺色の細身のスーツのこの青年に、東郷は見覚えがあった。
「道ノ瀬さん、著名な方なのでもちろん存じています、東郷悟です。」
東郷は、ネットで見たニュース記事を思い出していた。道ノ瀬結(みちのせゆう)、確か、世界的なバレエダンサーだ。20歳を、いくつか超えたくらいだろうか。彼の名前と名声は聞いている。
詳しい内容は忘れたが、たまたま見たニュースでロシアの何とかと言う世界的権威ある賞を受賞したと言っていた。その日ニュースの度、彼の演技映像が流れていたのを記憶している。
驚異的な体の柔らかさ、若い男性特有のしなやかな力強さ、役に合わせて、野蛮にもなり典雅にも見えた。 そう言う印象を持ったのを覚えている。
「お目にかかれて、光栄です。」
東郷が、丁寧に、正直に言葉を紡いだ。
道ノ瀬は、東郷より20歳近くも年下である。しかし、東郷は、道ノ瀬がどこかの国の王族であるかのように丁重に話す。彼にはそうさせる、ノーブルな上品さがあると東郷は感じた。そして東郷のうやうやしい態度が、更に、道ノ瀬と言う青年の目をキラキラとさせた。
「東郷さん、何かお召し上がりになりますか?僕が取って差し上げます。」道ノ瀬が、近くのテーブルの方を見ている。若くして、バレエ界の王者に君臨する彼は、優雅でそして意外にも人懐っこそうな好青年だ。
「では、そのノンアルコールワインください。」
「お酒は、召し上がらないのですか?」
「今日は車で来ています。」
「ご自分で?運転されるのですか?」
「ええ。道ノ瀬さんお酒は?」
「お酒はいただかないのです。このオレンジジュースで。運転もしませんけど。」そう言って、オレンジジュースのグラスを取った。ソフトドリンクで、カチャリと乾杯した。
「道ノ瀬さんと、東郷さんお知り合いですか。お友達かな。親しそうですね!」
「いつからのお付き合いですか?!」報道の腕章を付けた知らない記者大勢に、あっという間に取り囲まれた。さっきまでいなかったメディアが、取材解禁タイムになったらしい。カメラのシャッター音がカシャカシャと鳴り響く。私は、道ノ瀬の表情が曇るのを明らかに感じた。
「仲良く乾杯されましたね。いつもこんな風に一緒に楽しまれるのですか?!」
「今、会ったばかりです。」私が答えた。
「何を話されたのですか?!」
「名前を、名乗っただけです。」
「何を話したいとお思いですか?!」録音機器を何十と向けられ、私は心底閉口した。自宅のあるドイツでは、私のプライベートは地元警察と消防団に守られている。誰と会おうと何を話そうと、恋愛しようが結婚しようが、話したくなければそれで済む。日本に帰って来たら、このありさまだ。
道ノ瀬の表情が、見る見るうちに沈んで行く。
「週刊誌のBez誌です。道ノ瀬さん、この間一緒に踊ったプリマの女性は今日同伴ではないのですか? 交際していると噂がありますが!あの方、人妻ですよね?!」
プリマが既婚者らしい。
「プリマのご主人に対して一言お願いいたします!!」失礼じゃないか!私が言おうとしたその時、
「違いますから!根も葉もない噂です!」道ノ瀬は毅然として言った。
「彼女とご家族、彼女と僕のファンの皆様にご心配かけたことをお詫びします。」道ノ瀬は、カメラの前で、深々と頭を下げた。
なぜ、彼が謝らねばならないのだ。
「今日は、気分がすぐれないのでこのくらいで終わりにしてください。失礼します。」彼は、ひどく辛そうな表情に見えた。道ノ瀬が立ち去り、私もその場から離れようとしても、記者たちは食い下がって来た。
「東郷監督、いつまで日本に滞在ですか?行きたい所は?現在は独身だとお伺いしておりますが。おモテになるでしょう?」
「それが何か君たちと関係あるのかね。答える必要はないだろう。」私は、サッカーチームの指揮官だ。いちいち相手の挑発には乗らないし、どんな時でも冷静に行動するのには慣れている。
パーティ終了後、私の後をつけて来る男がいた。
「話すことは何もないよ。」
「道ノ瀬さんと、特別な間柄だと言うことにしてもらえませんか?人妻プリマとの不倫ネタがダメなら、男同士でも良いんですよ。長身イケメンのあなたと道ノ瀬王子、絵になるんですよ。もちろんそれなりのお礼は、」
「君は、先ほどの週刊誌記者だね。」
下世話な記事ばかり書くとこういう面付きになるのか。下卑た男の面を見ては私は不快だった。
「週刊Bezの諸橋です。」そう言って名刺を差し出した。
私は受け取ると、足下に落とし、黒い内羽根ストレートチップ靴で踏みつぶした。あぜんとした記者を後にして、私はホテルの駐車場へ急いだ。来賓用駐車場入り口にも記者が張り付いていたが、そこから先はホテルマンが通さない。
車のドアを、手前でセンサーキーで解除して、助手席に今日のパーティの記念品を積み込もうとした時、薄暗い中、するりと、誰かが私の車に滑り込んで来た。
その人物が声を発した。
「ごめんなさい。」聞き覚えがある声だ。聞いたばかりの。
道ノ瀬結(みちのせ ゆう)!その時、来賓用駐車場になぜか、入れないはずの記者らしき一団が右往左往していた。
「道ノ瀬さんの車のナンバーは、品川55に・・・」
「東郷さんの方は、わからないな。日本在住ではないので、ハイヤーかもしれない。」
そうはっきり聞こえた。道ノ瀬結を助手席にしまい、私は運転席に無言で乗り込んだ。道ノ瀬は、駐車場ライトから避け顔を暗がりで横に傾け、もう一度言った。
「ごめんなさい…。僕の車のナンバー、マスコミに知られているのです。彼らが去ったら、立ち去りますから。ごめんなさい、本当にごめんなさい。ご迷惑をかけて!」
私は、彼の口を手でふさいだ。記者が近付いて来る。
道ノ瀬が小さな声で言った。
「先ほど記者が言った、プリマと不倫の話、全部嘘です!本当です!」
「わかっています。」
なぜ私に弁明する必要があるのか?と思ったが、彼は私の返事にほっとしたようだった。
人間は、会って話して5分でだいたいどんな人物かわかる。
私は、彼よりはるかに年上だし、彼が不倫するような人物には到底思えない。至極真面目で清純な青年であることが、痛いほどわかる。マスコミは、ネタがなければ作ればいい。火のない所に煙を出す、大火事にするのが常套手段だ。
私たちは格好のネタだろう。私は、ドイツに帰ればプライベートが守られているし、スキャンダルにいちいち傷つくほど若くはないし繊細でもない。
ただ、道ノ瀬は違う。ありもしないでっち上げのネタを作る連中に常に追いかけられる上、本人が若く傷つきやすい年代だ。
「道ノ瀬さん、あなたを送ります。行き先を教えて下さい。他言はしません。」
道ノ瀬は、困ったように黙っていた。行き先、つまり宿泊先か住まいを教えることにためらいがあるのだろう。その時、東郷の車の前方で一人の男が見えた。車のナンバーをしつこく1台1台探している。
「週刊Bezの記者か、諸橋とか言った。」
「え?」と、シートから背を起こした道ノ瀬を、東郷はとっさに腕を回して自分の方へ引き寄せた。道ノ瀬を胸へ抱き込み、彼の顔が外から見えないようにした。道ノ瀬は驚いたようだったが、すぐに身をまかせて来た。しなやかに柔らかい体を東郷は感じる。順繰りに車を確認している諸橋が、次第に東郷の方へ近づいていた。
「ここにいては危ない。あなたの所属する団体とかでも良いです。バレエ協会みたいな所でも。行き先を指定して下さい。行き先は今夜限り忘れます。
”あなたと会ったことも忘れます。”」
本当に、二度と会わないつもりだった。
「リンラッド東京の3012号室です。東郷さん、またお会いしていただけますか?」
小さな声が、自分の胸の中から聞こえて来た。私は、彼がホテルのルームナンバーまで言ったことに驚いた。週刊誌どもにしてみれば、垂涎の情報だろう。
車のナビでリンラッドホテルを検索し、目的地として打ち込む。私は、車を発進させた。
これが…、社会や、家族、友人、大切なものを裏切ってまで貫く危険な”情熱”になるとは、その時私は予想だにしなかった。
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