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ロミオとジュリエット 62
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さよなら、結、
さよなら…結、愛していたよ。
朝、私はドイツの自宅でひとり目覚めた。
夢の中でも、目覚めた今でも、電話で聞いた結の叫び声が耳の中でこだまする…。
別れを告げたのは私なのに、私は苦しみ続けた。
眠りが浅く、夜中に何度も起きた。
身体が重い。
頭痛がする。
結と過ごした2年の月日。
結に、東京のパーティで初めて出逢った日。濃紺スーツが清々しい若者だった。
世界的な名声を欲しいままにする、若きバレエダンサー。
世界最高峰のパリバレエ団のエトワール(最高位の踊り手)。
君はまぶしいほど輝いて、私を取り込んでしまった。
若い情熱を惜しげもなくぶつけて来る結に戸惑いながら、君と付き合い、
この部屋で、私たちは初めて結ばれた…。
パリで結婚指輪を買い、互いの指にはめた日。
試合後、何者かに毒を盛られ入院し、結が駆けつけてくれた。
日本の私の実家で、一緒に過ごした日々。
今は亡き父が、結を私のパートナーとして認めた日。
こんなことになるなら、めぐり逢わなければ、良かった。
結の存在が、私の中で大きすぎる。
甘ったれで、繊細な結。
その結が、私と同じ苦しみを、今、耐えているかと思うと、身が引き裂かれる思いがする。
叶うならば、私のことは、どうか忘れて欲しい。
君を苦しめる全てから、君を解き放ってやりたい。
それが出来るなら、私はどうなっても構わない。
私が疲労のたまった体を起こし、ダイニングルームに行くと、ジップが朝食の支度をしてくれていた。
「おはようございます、旦那様。」
「おはよう…。」
猫が3匹私の元に現れ、足にまといつく。
寒くなって来たので、私のベッドに潜り込んで来るはずなのだが、昨夜は来なかった。
猫たちを撫でてやると、前足を私の足にかけ、食事を要求する。
ジップが私の朝食を作ってくれるキッチンで、私も猫の食事を作り始めた。
ひき肉を煮て、ジャガイモと人参ををふかして潰し混ぜて、3枚の皿に分けてやる。
芋の好きなアルマーニに多めのジャガイモ、肉好きなロマーノに肉を多く入れた。
私の気も知らないで、ガツガツ喰らっている。
食事を終え、出勤のため、庭に停めてあるベンツの所に行った。
庭師のパウルが私を見つけて話しかけて来た。
「おはようございます、監督。あとで街の園芸店に行って参ります。冬支度のためのビニールハウスや杭を調達してきます。」
「ああ、お願いするよ。」
私の家のある場所は、フライブルク郊外で少し標高が高い。
街中より冬が早く、もう朝は冬の空気だ。
もうすぐ、雪に閉ざされる。
冬の間、鉢物を母屋1階にある温室代わりの部屋に入れる。
春から秋までは、自宅で食べる分くらいの野菜を作っている。
レタス、人参やラディッシュ、ホウレンソウなどだ。
私は、収穫の終わった家庭菜園を薄らぼんやり見ていた。
「今月、苺の苗を植え付けようと思いますが如何ですか?」
「いいね。来年初夏の頃成るんだろう?苺は、…。」
そう言いかけてやめた。
”苺は、結が好きだった。”
「パウル、すまないが、苺はやめよう…。」
「え?」
私は、その日もその次の日も、魂が抜けたようになっていた。
私はサッカーの監督で、策士で、いちいち心の内を読まれるような振る舞いはしない。そのためか、私の変化に周りは気づいていないようだった。
試合後2日休み、3日目にはチームトレーニングがあった。
そして5日目には次の国内試合を迎えた。
相手は、フランクフルトの地元チームだ。
無観客のスタンド貴賓席に、ポツンと座っている人物がピッチから見えた。
ブラオミュンヘンのシュタイナー会長だ。
試合は、何があっても勝つことを優先しなければならない。
身内に不幸あろうと、恋人と別れようと…。
私は、心の内に苦しみを押し込め、必死に作戦を考えた。
試合後、監督控室に戻り、スマホの電源を入れると、電話着信を知らせるメールが届いた。
着信記録を見て、私は目が留まった。
日本から、そしてそれは5回もあった。
着信記録 道ノ瀬弁護士事務所
結のご両親…。
留守電メッセージが記録されている。
再生すると、
「結の母の、道ノ瀬です。お久しぶりです、監督。至急お話したいことがあり、ご連絡申し上げました。 監督の携帯の他、ブラオミュンヘン事務所にとも思いましたが、ドイツ語が得意ではないのでお許しください。 恐れ入りますが、道ノ瀬弁護士事務所までお電話ください。番号は…、」
結のお母さんが、至急連絡が欲しいと言っている。
私たちのことを説明しなければならないが、今すぐ折り返しかけるほど、気持ちの整理がつかない。
試合の疲れと傷心が、私をさいなんでいる。
コンコン。
その時、監督控え室のドアをノックする音が聞こえた。
「はい?」
「監督、少し良いかな?」
シュタイナー会長の声だ。
「どうぞ。」
グレーヘアで大柄なシュタイナー会長が中に入って来た。昔サッカー選手だったので、老齢期に入った今も骨太な体躯は変わらない。
「監督、今日の試合も良い試合だった。」
シュタイナー会長が、言った。
「恐縮です。会長、先日のお話ですが…、」
「うむ。」
「道ノ瀬氏とのことは、清算しました。」
「そうか…。君には助けられた。ブラオミュンヘンの財政が上向いたなら、君に特別報酬を出すよう申請しよう。」
「いえ…不要です。」結に別れを告げて、報酬などありえない。
「失礼な言い方をしたかもしれない。すまない。でも、それくらいしか謝礼のしようがない。」
シュタイナー会長のしわが急に深くなったような気がした。
私を、サッカー監督として育ててくれたシュタイナー会長。
会長への恩返しと言うには、あまりに代償が大きかった。
試合会場から帰る、車運転中の私に今度は日本にいる妹、恵から電話が入った。
「お兄ちゃん!今いい?」スピーカーから、まるで弾丸のようにしゃべる声が聞こえた。
「良いよ、運転中だけど。」
「事故起こさないようにね!お父さんの会社が上向いて来たの。このパンデミック禍に。
お父さんの代わりに、副社長が社長になって、顧客取引も再開したの。
家宅捜索も入って、やはりお父さんの経営はまずかったのかな。
社長が代わったら、急に顧客が戻ったの。
「そうか。」
「もうだめかと思ったんだけどねー。顧客離れの上、パンデミックでしょ。 お父さんの会社、人件費が3割なのよ。冬のボーナスどころか給料もちゃんと払えない状態だったの。
何で、急に顧客が戻って来たか、不思議なんだけどねー。」
それは、”私が結と別れたからだ。”
政府は、関連各社に東郷製作所と取引すれば補助金を出さない等、圧力をかけていたと思う。
それを、取引再開をOKしたのだ。
私と結とのことは、政府の耳目に届いたのだ。
「…ねえ、お兄ちゃん聞いてる?」
「あ、うん…。」
「お兄ちゃん、結さんのW杯タカール大会のCMが日本でいっぱい流れているよ。」
「…。」
「お兄ちゃん、結さんのお母さんから電話がうちへあったの。」
「えっ?」
「結さんが、急にフランスに戻ったそうよ。」
「えっ?」
結はパリに住まいがあり、パリバレエ団のスターダンサーだ。入国することは出来るだろう。
それは驚くことではない。
しかし…、結が、車でも行ける、隣りの国にいる…。
それが、私の心をざわつかせた。
「でも、お母さんが電話しても結さんが出ないんだって。お兄ちゃんにも電話したって結さんのお母さんが言っていたよ。」
「気付かなかった。」気付いていた。でも私は、結と別れた後ろめたさで、結のお母さんと話せなかった。
「結さんのお母さん、道ノ瀬弁護士が説明してくださったのよ。タカールは中東です。同性婚及び同性パートナーは禁固刑になるって!結さんのCMは問題になるのではないかって。」
「…、恵。」
信号で車が停車した。
「なに?」
信号が変わり、すべてのミラーと左右を見て、私は静かにアクセルを踏んだ。
「恵、私は、結と別れたんだ…。」
「えっ?!」
「結さんのご両親、そして恵や家族みんなに歓迎してもらったのに…ごめん。」
「ちょっと待ってお兄ちゃん!」
雨がぽつぽつとフロントガラスに当たり始める。
「ごめん、恵。お母さんたちにもそう伝えてくれ…。」私は、車内電話を切った。
冷たい雨が降り出していた。
結のお母さんに電話しなければならない。
私は、日本時間が朝になるの待って、道ノ瀬弁護士事務所に電話をした。
「申し訳ございません。ただいま、弁護士道ノ瀬はふたりとも公判中で外出しております。ご連絡先を教えていただければ、こちらからおかけ直しいたします。」
事務員らしき人がそう応対した。
「いえ、またご連絡します。東郷悟から連絡あったことだけお伝えください。」
それから数日、雨は降りつづいている。
雨が降り続き、陽が照らないので今日は冬のような寒さになった。
結のお母さんにはまた連絡したが、やはりまた公判中だった。至急と仰ったが、あちらからはかけて来なくなった。
結と連絡が取れ、結から、私たちのことを聞いたかもしれない。
そんな中、ブラオミュンヘンと、タカールの油田企業タビア・オイルとのスポンサー契約が締結された。
そして、日本にある父の会社、東郷製作所も倒産を免れた。
私は、死に体のようだったが、少なくともブラオミュンヘンと東郷製作所は息を吹き返した。
結と私の犠牲で、助かった人々が大勢いる、それだけはわずかな救いだった。
その日は試合がなく、晩秋を迎えたフライブルク郊外の家で、私は静かに過ごしていた。
ソファに座っている私の背もたれに、猫たちが座っている。
そして、猫たちが一斉に、後ろを振り返り窓の方を見た。
「誰か来たのか?」
「お客様でしょうか?」ジップも、雨粒が叩く窓から見て言った。
私が立ち上がり窓を見ると、一台の黒塗りの車が私の家の門の前に停まるのが見えた。
「…。」
車から一人の人物が降り、すぐに黒い傘を差した。
傘の下から、黒いスーツを着た脚が見える。
太ももから足首までさして太さの変わらないスレンダーな脚に、私は見え覚えがあった。
降り立った車はドイツ車ではない。日本車だ。
屋敷の前にある鉄柵の門には、インターフォンが付いている。
その時、インターフォンが鳴った。
ジップが出ようとしたのを止め、私が日本語で出た。
「はい。」
「監督でしょうか。日本大使館の五代です。」
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