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厄介な新人
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◇
「あのぉ……鬼塚(おにづか)久(ひさし)さんの新作ってどこにありますか?」
か細い声が聞こえ、慧は在庫表から視線を上げた。
高校生くらいか、今時の子にしてはずいぶん野暮ったい雰囲気の少女が俯き加減に立ち尽くしている。顔半分を覆う無骨な黒縁眼鏡の奥で、気弱そうな瞳がこちらを窺っていた。
「鬼塚久さんの新作というと、『新宿二丁目の夜明け』でしょうか?」
「そ、そうです……はい」
取り立てて温度を込めない声で問うと、少女は僅かに顔を赤らめてコクコクと頷いた。
「それなら一階ですね。こちらになります」
昨日発売されたばかりの小説で、しかも自分が気に入っている作家の新作とあれば、陳列した場所くらい当然覚えている。少女に丁重な言葉を掛け、案内した。
慧が高校卒業時から既に七年あまり勤めているこの『純読書店』には三つのフロアがある。一階は主に雑誌と雑貨のコーナーだが、新発売の小説やテレビで取り上げられた書籍などもこの階に並べられるのだ。来店した客の購買意欲を掻き立てるため、入り口正面の一番目につく場所に並べてある。
とは言え、少女が目的とする本は入荷数が少なかったから、見落としてしまったのも無理はない。
「一階だったんですね……すみません」
「とんでもありません」
小説コーナーは今いるこの二階フロアなのだ。探す場所としては間違っていないというのに、少女はなぜか始終恐縮した様子で後をついて来た。店員にすら気を遣ってしまう性格らしい。きっと損な人生を歩んできたのだろうと、余計な同情が湧いてしまった。
少女を連れ立って、店内の中央に位置するエスカレーターで一階に降りる。目的の場所へ案内すると、少女はすぐに目当ての本を手に取って大事そうに抱えた。そのさりげない仕草一つで、彼女がどれほどその本を楽しみにしているかが伝わってきた。
慇懃過剰な礼を述べ、レジへと直行していく少女の背中に苦笑する。あの年齢で鬼塚久の小説にハマるなんて、変わった子だ。
かく言う自分も、鬼塚久のコアなファンだと自認している。少女が買っていった『新宿二丁目の夜明け』も、昨日既に読み終えた。タイトルからも分かるように同性愛を主軸とした恋愛小説だが、いわゆるBL小説とは一線を画する。BL小説は明らかに女性向けで、展開も少女マンガを髣髴とさせるものが多い。著者も恐らくほとんどは女性だろう。
だが鬼塚久という作家は男性だ。年齢も本名も伏せられているが、彼が正真正銘の同性愛者だということだけは公表されている。男同士の恋愛感をリアルに描写し、男ならではの視点で描き切った作品は、もはや芸術的としか言いようがない。
ハードボイルドな作風と相反する緻密で繊細な文体。一字一句無駄なく洗練されている小世界はあまりに美しく、息をつく間もない。圧倒的な世界観で読み手を魅了する気鋭の作家に、ある種の畏敬すら抱いていることを自覚していた。
だが、内容が内容だけに、購買層はかなり限られる。ストーリの展開もあまり女性向けではないから、BL小説好きの女性にも不人気だ。彼の作品に興味を持つのは、それこそ自分と同じ性癖を持つ男性くらいかもしれない。……と思っていたのだが。
意外なところにもファンはいるらしい。稀有な存在を嬉しく思う反面、一抹の後悔が湧いた。一言くらい感想を話し掛けてみれば良かったかもしれない。彼の作品について語り合ってみたかった。せめて、自分も読んだということを伝えてみれば良かったかもしれない。
(なんてな……)
どうせ、思うだけだ。自分にそんな社交性がないことくらい分かっている。
自分はあくまで一店員に過ぎないし、必要以上に客と会話するのも好きではない。恐らく、彼女だって話し掛けられたくはなかっただろう。これから読もうとしている本の内容を知られているなんて、自分の心を覗かれるようなものだ。却って不快な気分にさせかねないし、余計なことを言わなかったのは正解だろう。
場所を尋ねてきた時の少女がどこか気恥ずかしげに俯いていたことを思い返し、軽く眉をひそめた。
もっと堂々としていればいいのに、と思う。この下らない現実世界で、なにか一つでも心踊るものに出会えたら、それは途轍もない幸運だ。誇ってこそすれ、恥じる必要など皆無に等しい。たとえ他人と違っていても、自分が満足できるのならそれでいいじゃないか。
そう思った瞬間、自らの思考に対して失笑が漏れた。自分を棚に上げて、よくもまあ下らないことを考えているものだ。
自分には、普通の人間にはおいそれと理解され得ない趣味や性癖を、堂々と曝け出す勇気があるとでも言うつもりだろうか。
少しでも世間の常識からはみ出せば、手痛い拒絶が返ってくる。それを一番よく知っているのは、紛れもないこの自分ではないか。〝他人〟がどれほど残酷で容赦ない生き物か、それこそ恥じるほどに思い知っているのは。
彼女に自分も読了したと言わなかったのは、単に言えなかったからだ。他人相手に自らの性癖を暴露するような行為を、臆面もなくやってのける度胸などない。
つまるところ、自分も他人の目を警戒しながら生きているわけだ。
苦々しく自嘲しながら、再びエスカレーターで二階へと戻る。
「おう、志槻。在庫確認終わったか?」
「いえ」
下りのエスカレーターとすれ違う際、同僚の原田(はらだ)利樹(としき)が声を掛けてきた。ゆっくりと向かい合わせに移動しつつ、端的な答えを返す。
「まだとか、お前らしくねぇな。サボりか?」
原田は野生熊さながらの強面に不敵な笑みを浮かべ、片眉を器用に吊り上げた。無言で冷めた視線を送る。誰がサボりだ。人聞きの悪い。
「おっかねぇ顔すんなって。美人が台無しだぜ」
こちらの心情を察してか否か、原田はニヤニヤとしまりのない笑みを浮かべた。今年二十九になるというこの男の発言は、日を追うごとに加齢臭を増していく。ますます目が据わるのを自覚しつつ原田を見据えて口を開いた。
「男相手に何が〝美人〟ですか。セクハラで訴えますよ」
鼻を鳴らして言えば、原田は屈強な肩を揺さぶって豪快に笑う。実に鬱陶しい。
「あ、そういやぁ、さっき大翔(まさと)がお前を探してたぜ」
すれ違いざま、原田は思い出したように言い、顎をしゃくって上階を示した。その名前を耳にした瞬間、反射的にこめかみが引きつる。
「彼、今度はなにをやらかしたんです?」
「さあなぁ? 本人に聞いてみろよ。超青褪めてたからヤバイかもな」
ゆっくりと過ぎ去っていく原田を振り返って問うと、他人事のような言葉が返ってきた。どこか楽しげなニュアンスを含んだ声に舌打ちを噛み殺し、エスカレーターを降りる。
自分を探していたという新人のことはとりあえず思考から除外して、在庫確認の作業に戻った。どうせ、そのうち嫌でも向こうから駆け寄ってくるに違いない。
「あ、いたっ! 慧さぁん!」
ものの五分もしないうちに、案の定その青年は現れた。耳に慣れた半泣きの声にうんざりしつつ、溜め息とともに振り向く。
「なにごとですか」
入って二ヶ月の新人バイトに呆れをもって向かい合った。
「慧さんどうしよう、オレとんでもないミスしちゃったかも……」
秋村(あきむら)大翔は形のいい眉を八の字に下げ、心底困窮した表情を浮かべていた。華やかに整った顔が泣きそうに歪んでいる。原田が言ったとおり、顔面蒼白だ。これはよほどのことだろう――そう思う意識の外で、目の前の青年を冷静に観察している自分がいた。これは身に染みついた悪癖だ。
赤いタータンチェックのシャツの上からバイト用のエプロンを身につけた大翔は、すれ違う誰もが息を呑むほど完璧な容姿をしている。日本人離れした脚の長さや骨格の綺麗さもそうだが、なによりその顔立ちが人目を惹きつけるのだ。緩やかに波打った茶髪と左耳に揺れるピアスのせいで一見チャラついた印象になりがちだが、艶のある微笑みはそれを払拭して余りある。他人にまるで興味を持たない自分ですら、最初に会ったときは思わず注視してしまった。
彼という存在自体が独特の甘さを持っているのだ。目尻の下がった大きな瞳も、柔らかな微笑も、子供じみた口調ですら、いっそ演技ではないかと思うほど甘ったるく、美しい。さすが駆け出しとは言えモデルをしているだけはあるなと、慧は会うたび感心していた。
だが、彼を性的な対象として見たことは一度もない。こういう軟派な印象を持つ男にはどうにも食指が動かないのだ。年下であるということも原因の一つだが、それ以前の問題として、この青年がストレートであることが一番興味を削ぐ。いや、例え大翔が自分と同じゲイだったとしても、こういう軟弱な背中は断じて好みではない。
腕を組み、斜に構えて大翔を見上げる。甘いハーブ系のコロンが僅かに鼻腔をくすぐった。どこまでも軟派な奴だと鼻を鳴らす。
「今日は一体なにをやらかしてくれたんです?」
長身の大翔は頭一つ分高い場所からこちらの顔色を窺うような視線を向けてきた。
「……聞いても怒んないでね?」
「それはことの次第によります」
冷淡に返すが、なにが起きても別に怒るつもりはない。そもそも怒りという感情は、相手が自分の期待を裏切った時に湧き起こる感情だ。他人に一切の期待をしない慧にとっては無縁の感情と言える。
大翔は大きな瞳を微かに揺らがせながら唇を開いた。
「さっきさ、お客さんから在庫の問い合わせがあったんだけど……」
歯切れの悪い説明を要約すれば、取り寄せ予約の商品を別の客に売ってしまったということらしい。在庫があるという事実に飛びつき、それが予約された商品だという考えを抱くことなく渡してしまったのだ。当然、その客は既に会計を終えて店を後にしている。
「しかもさぁ、受取日が今日なんだよ、その本」
「……マズイですね」
それは確かにとんでもないミスだ。じわじわと嫌な焦燥感が広がっていく。
予約から商品の取り寄せまで、どんなに早くても二、三週間は掛かるのだ。その間ずっと心待ちにしていただろう商品を、今日やっと受け取りに来る。他の客に売ってしまったなんて知ったら、当然クレームになるだろう。
教育主任という肩書きを持つ自分にとって、新人のこうした凡ミスは慣れたトラブルの一つだ。とかく近頃バイトに入ってくる若者は責任感が薄く、愚にもつかないミスを犯すことが多い。しかも反省などまるでしないのだ。
その点、大翔はまだマシと言えるかもしれない。この事態を重く受け止め、しっかりと自責の念を持っているのであれば成長を見込むことができる。
「どうしよう……」
大翔は途方に暮れた様子で肩を落とす。悄然としたその姿を横目に見ながら、やるべきことを頭の中でシュミレートした。腕時計を確かめる。今、正午を少し過ぎたところだ。
となれば、こんなところでただ時間を無駄にしている場合ではない。
「落ち込んでいる暇はありません。やれるだけのことはしましょう」
怯えたようにこちらを窺っていた大翔を伴い、事務所へと移動する。雑然としたデスクの島を迂回し、型の古いパソコンを立ち上げた。
「なにするの?」
「とりあえず、他店に片っ端から問い合わせてください。もしかしたら、売ってしまったという本の在庫があるかもしれません」
東京二十三区内にある大型書店をリストアップし、印刷して出す。裕に三百以上の店舗があった。
「私も手伝いますから、君はこのリストを当たってください」
「分かった。ありがと慧さん」
礼を言うのも、ほっとするのもまだ早い。慧は携帯を取り出して早速電話を掛け始めた。大翔もそれに倣い、電話を掛ける。
「あ、もしもし? ちょっと聞きたいことがあるんだけど……」
まるで友人にでも話しかけるような気安い口調だ。バイトとは言え社会人にあるまじき無礼さに閉口しつつ、リストを消化していく。
『申し訳ありませんが、ちょっと今は在庫がない状態でして……お取り寄せという形になりますね』
「そうですか。分かりました。お手数をおかけして申し訳ありません」
落胆しつつ通話を終えため息をつく。近場の店舗は全滅だ。ふと大翔を見れば、彼もこちらに視線を向け、気落ちした様子で首を振ってきた。
一時間掛けて二人で百店舗以上に問い合わせたが、どこにも在庫がない。
「困りましたね」
「さっき買ってったお客さんもめっちゃ探し回ったって言ってた……」
探している本はかなり昔の児童文学だ。店舗に在庫がないのも無理はない。簡単に見つからなかったからこそ、取り寄せ予約が入ったのだろう。
「どうしよう……」
大翔は疲れた様子でデスクに寄りかかり、溜め息とともに肩を落とす。反省しているのは結構なことだ。そんなもの、この際なんの役にも立たないが。
溜め息とともにネクタイを少し緩め、腕時計を確認する。午後一時半。まだ希望はあるともう一度携帯を手に取った時、小さなノックの音がし、事務所の扉が開いた。
「失礼しまーす。あ、志槻さん」
顔を覗かせたのはレジ担当の安見(やすみ)真里菜(まりな)だ。生真面目そうな銀縁眼鏡の奥から、困ったような視線をこちらに向けている。
「ちょっといいですか?」
用件を察し、気鬱になりながら近寄った。案の定、予約した客が商品を受け取りに来たらしい。
「でも商品がどこにも見当たらなくて……」
「ええ、原因は分かっています。お客様には私から説明しますので、少し待っていてください」
安見を待たせ、いったん大翔の元へ戻る。リスト表の端を意味なく折り曲げながら、大翔は途方に暮れていた。
「商品を予約された方がお見えになったようなので私は売り場に戻ります」
「え、じゃあオレも」
「いえ結構です。君はここで他店への問い合わせを続けていてください」
顔を上げた大翔を制し、背を向ける。こういう事態にバイトが出てくれば火に油を注ぎかねない。部下の尻拭いは上司の勤めで、そういう損な役割を嫌煙してこなかったからこそ、自分は教育主任という肩書きを持っているのだ。
売り場に戻り、困惑している女性に事の次第を説明する。当然だが、彼女の怒りは熾烈だった。
「どういうことなんですかっ?」
「まことに申し訳ありません。こちらの不手際がありましたこと、心からお詫び申し上げます」
詰め寄るような勢いで怒鳴られ、心の一部が冷えていく。長い間勤めていれば、こういう修羅場は幾度でも踏むことになるのだ。逃げるわけにもいかない。せめて殊勝な態度を取り繕って深く頭を下げる。
「せっかく娘の誕生日に渡してあげようと思っていたんですよっ? あの子だって楽しみにしているのに」
「申し訳ありません」
「もういいです! こんな店、二度と来ませんからっ」
客は憤然と言い放ち、肩を怒らせてこちらに背を向けた。引き止める術もなくその背中を見送る。
大事な客をひとり失ったことよりも、店全体の信用を失くしてしまったことの方が堪える。
僅かな胸の痛みに息をついた時――。
「待って、お姉さん!」
俊敏な影が自分の背後から飛び出した。一瞬誰かと思ったが、今の声は明らかに大翔だ。
(あいつ……)
しゃしゃり出てくるなと言外に命じたはずだが。
大翔は早足で店を出て行く客の腕を掴み、ぎょっとする女性に向き直って勢いよく頭を下げた。
「ほんっとにごめんなさい! 勝手に売っちゃったの、オレなんだ」
客は困惑と苛立ちがない混ぜになったような視線を自分に向けてきた。慌てて大翔の隣に駆け寄り、もう一度頭を下げる。
「指導の至らぬ点がありましたこと、お詫び申し上げます。まことに申し訳ございませんでした」
「で、でもさ、さっき八王子にある本屋に問い合わせたら、在庫あるって言うんだ」
大翔は顔を上げ、言い訳がましく口を開く。心底黙っていて欲しいが、まさか客の目の前で蹴り飛ばすわけにもいかない。
客は大翔の勢いに気圧されたのか、ただただ呆れているだけなのか、ひたすら眉をひそめて沈黙している。
「娘さんの誕生日っていつ? 今日? ならオレ、今すぐ車飛ばしてその本取りに行って来るから――」
「ねえ、あなた」
ようやく客が口を開く。視線は大翔に向いていた。端的な呼びかけに肝を冷やしたのは自分だけではない。大翔はビクリと背筋を凍らせ、「な、何?」とうろたえた声を出した。
(この馬鹿……っ)
黙っていればいいものを。一体どれだけ事を荒立てれば気が済むのだ。
客は一歩大翔へ近づいたかと思うと、見上げるような格好で大翔の顔を注視した。慧は反射的に身構える。もしもこの客が激昂し、大翔に掴みかかるようなら、さすがに止めなければ。
だが彼女はずいぶん長いこと大翔を見上げたまま動かなかった。大翔もどうしていいのか分からない様子で、ただ目を瞬いている。
「あなた、もしかしてモデルのMASATO君じゃないの?」
ややあって、客が訝るような問い掛けを口にした。
「え? あ、うん。そうだけど……」
困惑気味に大翔が肯定する。途端、客が口元を押さえて興奮したような声を上げた。
「嘘っ! 本物?」
「うん、そうだよ」
こういう反応に慣れているのか、大翔は笑顔を浮かべる。文句のつけようもない完璧なそれは本当に心から出たものだろうと知れた。
客は色めき立ち、食い気味に大翔へ近寄っていく。娘がファンだとか、サインだとか握手だとか、大翔の笑みが崩れないのをいいことにどんどん距離を縮めて行った。先ほどまでの怒りはどこへ行ったのだろうか。
「あなた、ここで働いてるの?」
「うん、まあね。正社員じゃなくてバイトだけど。……モデルはまだ駆け出しだから、それだけじゃ食べていけなくってさぁ。世知辛いよね、世の中」
大翔は微苦笑を浮かべつつ、求められるがまま客の要望に応えている。握手、サイン、記念撮影――澱みない動作を見る限り、本当に慣れているらしい。
完全に一人取り残されたような気分で立ち尽くしながら、慧はただひたすら呆気に取られていた。
「でも、ほんとごめん。あの本、すぐ取りに行ってくるから、少し待っててくれる?」
「ああ、いいのよ。明日でも」
「娘さんの誕生日、明日なの?」
客が頷く。
「そっか。じゃあさ、明日オレが直接渡そっか? 誕生日プレゼント」
大翔は口元を綻ばせて笑い、度肝を抜くような提案をした。唖然としたのは自分だけではない。客も同様に目を見開き、やがてゆっくりと頬を紅潮させる。
「そうね。それ、いいかもしれないわ」
きっとあの子も喜ぶ――そういう母親の方が嬉しそうなのは気のせいだろうか。
まあともあれ、一応解決の目処が立ったのは確かだ。もしも、大翔が嘘をついていなければ。
「許してくれてよかったぁ」
弾むような足取りで去っていく客の背中を見送った後で、大翔が安堵の溜め息をつく。
そんな大翔を呆れとともに見上げ、最も懸念していることを口にした。
「本が見つかったという話は本当ですか? 八王子の店なんて、リストにはなかったはずですが」
自分がリストアップしたのは都内二十三区にある大型書店のみだ。八王子なんてそんな遠い場所はリストにない。
「もしも嘘であるなら、どうなるか分かっていますよね?」
疑惑の目を向けると大翔は驚いたように目を見開き、こちらを見つめ返してきた。
「慧さんって、もしかして人間不信?」
「……質問に答えてください。本は見つかったんですか?」
図星を指されたことはこの際無視する。敬語の一つも使えないような無神経な男に、自分を見抜かれてたまるか。
「ほんとだよ。オレが子供の頃よく行ってた本屋にダメ元で問い合わせたんだ。ちっちゃくて古い店だけど、昔の本ならそういうとこの方が置いてあるんじゃないかと思ってさ」
「……なるほど」
小型書店など全くの盲点だったが、確かに一理ある。以外な機転をほんの少し見直しながら、淡々と労いの言葉を掛けた。
背中に窺うような視線を感じつつ店内に戻る。
「なんですか」
あまりに多弁な空気を鬱陶しく思い、事務所の前で振り向いた。大翔が瞬時に顔を強張らせる。叱られた後の子供でもあるまいに、大翔はこちらの顔色を確かめるような情けない視線を向けてきた。
「……やっぱ怒ってる?」
「別に怒ってはいません」
そもそも、怒るほど期待していない。
「ただ――」
慧は腕を組み、大翔を見上げる。これだけはどうしても言っておかなければならない。
「お客様相手にあのような態度を取るのは大変失礼です。後ろから腕を掴んだり、こちらに非があるのに言い訳をしたりしないでください」
「で、でもさ、あのまんま返しちゃったら二度と来てくんなかったかもしれないじゃん」
「それならそれで仕方ありません。そういった場合はもっと上の者がじきじきに謝罪をする決まりです」
あの段階ででしゃばるのは危険が高すぎる。今回はたまたま許してもらえたからいいようなものの――。
「咄嗟とはいえ、腕を掴んだのはいただけません。警察沙汰になってもおかしくなかったんですよ」
「え……あれってそんなにマズかったんだ」
警察、という単語を耳にした大翔は一気に青褪めた。
「些細なミスが店全体の信用に関わるということを肝に銘じてください」
「……ほんとにごめん」
厳しく言い放つと、大翔は肩を落として頭を下げる。この期に及んでも、謝罪の仕方が全くなっていないのはどういうことだろうか。
「〝申し訳ありませんでした〟くらい言えないんですか。君、もう二十一でしょう?」
内心の呆れがそのまま声に出た。大翔は顔を上げ、驚いたようにこちらを見つめてくる。
「オレの年なんて、なんで知ってるの?」
食いつくところが意外すぎてこちらの方が面食らってしまった。視線を逸らして答える。
「……たまたま耳にしただけですよ」
「でも覚えてるってすごくない? オレなんか人の名前とか年齢とか、聞いてもすぐに忘れちゃうよ」
「そうですか」
純粋な敬意を含んだ目線を向けられ、適当な相槌を打った。
別に覚えたくて覚えていたわけではない。見目のいい男の情報は、例え好みのタイプでなくとも自然と記憶してしまう――それだけのことだ。
事務所の扉を軽く押し開けながら、背後の青年を振り返る。端正を自覚する顔に、一糸乱れぬ冷笑を貼り付けた。
「他人(ひと)の名前をすぐに忘れるというなら、私のファーストネームも忘れて欲しいものですね」
当たり前のように下の名前で呼んでくる馴れ馴れしさには、正直うんざりしているのだ。
だが大翔はこちらの冷笑に怯むことなく唇を尖らせた。
「だって〝志槻さん〟って言いにくいし、すぐ忘れそうなんだもん」
「なら、いっそ忘れてくださって結構ですよ」
半ば本気で言い放つと大翔は呆気に取られたように口を開いたまま動きを止める。その隙に事務所の中へと滑り込んで扉を閉めた。自分のデスクに向かい、腰を下ろす。さすがに疲れた。
引き出しから煙草の箱を取り出し、一本抜き取って火をつけた。喫煙したいと思うのはかなりの疲労とストレスを感じたときだけだ。
「まさか見抜かれるなんて……」
緩く紫煙を空中に吐き出しながら、薄く笑う。他人に内奥を見抜かれるというのは、自分にとって一番のストレスになる。客のクレームや怒りなどとは比べ物にならないほどに。
大翔はさりげない一言でこちらの内奥を的確に見抜いてきた。
(人間不信、か)
認めるのは癪だが、確かに自分にはその気がある。他人は所詮他人で一生を掛けても分かり合えない生き物だと、もう分かっているからだ。期待すること、信用すること、縋ること、頼ること――その全てが馬鹿らしいし、時間の無駄だと思っている。他人なんて、結局最後には離れていく。永遠の絆も、愛も、友情も、この世界にはない。そんなものは完全なるフィクションだ。
あのときだって、初めからそう割り切っていれば傷つかずに済んだのに。
苦々しい悪夢を思い出し、振り払うように息を吐いた。腕時計を確かめ、このまま休憩に入ろうと決める。一時間あるから店の外へでも出てなにか食べようか。一瞬そう思ったが、それも面倒だ。
立ち上がるのも億劫で、デスクに肘をつきながら煙草をゆったりとふかした。
「……入ってもいい?」
事務所の扉が薄く開き、怖々と大翔が問い掛けてくる。律儀なのか無神経なのか、よく分からない奴だ。
「勝手にすればいいじゃないですか」
思わず苦笑を向ければ、大翔はほっとしたように笑みを浮かべて中へと入ってくる。
「慧さんって、煙草吸うんだ?」
「たまに。別に好きなわけではありませんけどね」
意外そうな視線を向けられ、意味もなく言い訳を口にした。大翔は断りもせず自分の隣のデスクの椅子を引き出して腰を下ろす。この距離感は実に鬱陶しいが、いちいち目くじらを立てるのも大人気ない気がして黙っておくことにした。
「オレ、仕事が終わったら例の本取りに行くよ」
「車があるんでしたっけ」
「ないけど、免許は持ってる。店のやつの借りたらマズイかな?」
マズイに決まっている。というか――。
「……最初からそのつもりだったわけですか」
「うん、まあ。ダメなら電車で行くよ」
どこまでも図太い神経なのだと呆れた視線を向けても、大翔はあっけらかんと笑うだけだ。まともに取り合うと本当に疲れる。
「慧さんの借りるとか、ダメ?」
「ダメとか、それ以前に私は車を持っていませんよ」
「え、そうなの? なんで?」
「必要ありませんから」
自宅から通勤するにしても徒歩十分圏内だ。免許すら持っていないと言うのは負けたようで悔しいけれど、そんなことはどうでもいい。
「そっか……じゃあ電車で行こっと。あ、一緒に行かない?」
「嫌です」
一体どういう思考だ。即答し、煙草を灰皿に押し付けた。なにが楽しくてこんな馬鹿と八王子まで行かなければならないのか。
大翔は「残念」と肩を竦めて笑う。この男は笑うと小さなえくぼができる。そんなことをこのとき初めて知った。
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