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変化
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ほとんど会話すらないままマンションへと辿り着く。
「わ、なんか久しぶり……」
大翔は玄関先で感慨深そうに呟き、靴を脱いでリビングへと向かった。
「慧さん、コーヒー飲む?」
「私がやります。君はシャワーでも浴びてきたらどうですか」
リビングの明かりをつけるなりキッチンへと向かった大翔を制し、ヤカンをゆすいで火にかけた。
「うん、じゃあ、そうする。……その前にちょっといい?」
なにが、と問い返す前に腕を引かれ、正面から抱き締められた。瞠目する自分の肩に顔を埋め、大翔は深々とため息を吐き出す。
「……どうしたんですか」
動揺を押し隠して問いかけた。なにがあったのか、どうしたのか、知りたくて仕方ない。
「ハグには疲労回復の効果があるって話、信じる?」
大翔はこちらの質問に答えず、くすぐったそうな声で笑う。この程度の触れ合いで多少なりとも機嫌が直ったらしい。
現金なものだと失笑したくなったが、せっかく上向いた気分に水を差すこともないだろう。取り立てて抗議することなくされるがままでいると、大翔の鼓動が伝わってきた。
一秒ごとにゆっくりと重なっていく互いの心音を鼓膜の奥で聞き、無意識に縋りついて目を閉じる。
一見華奢な見た目に反してがっしりと逞しい腕に包まれるのは、案外心地が良かった。疲労回復うんぬんの話はあながち嘘ではないのかもしれない。
刻々と心が穏やかになっていくのを感じ、ひっそりと安堵の息をついた。
「慧さん、なんかいい匂い」
耳元を掠る声に、ゾクっと背筋が震える。
決して不快ではない。むしろ、もうしばらくこうしていて欲しいとすら思った。
稚拙な温かさに捕らわれ、気づけば身動き一つ取れなくなっている。まるで罠に掛かったかのようだ。ただひたすら心を慰む、〝温もり〟という名の罠に。
どちらからともなく身体を離し、無言で視線をかわした後、そっと口づけ合った。
キスなんかまったく好きではないのに、大翔の唇が柔く触れてくると堪らなく飢えるのだ。
こんなものじゃ、まるで足りない。
壊れ物でも扱うかのように繊細な愛撫を繰り返してくる大翔に焦れて、こちらから薄く唇を開いた。誘うように舌を覗かせると、大翔は驚いたように息を止める。
だがそれも一瞬のことだ。すぐさま深く唇を塞がれ、熱い舌先が口内に滑り込んできた。
「っ……んっ」
先ほどまでの穏やかさは幻だったのかと思うほど、本気になった大翔は容赦がなかった。
執拗に口蓋を舐られ、頬の内側を舌先で突かれる。絡まった舌がちゅくちゅくと淫猥な水音を立てた。互いの唾液を貪り合うようなキスに、うっかりすると腰が抜けそうだ。
痺れるような熱に頭がぼうっとのぼせていく。
「ふ……っは……んんっ……!」
息継ぎの間すら満足に与えてはくれない。
きつく腰を支える腕から逃れる術もなく、くらくらと眩暈を起こしながら獰猛な愛撫に耐えた。体格差のせいで、反り返るほど上向かされた喉にねっとりとした唾液が流れ落ちていく。飲み込むたびに言いようのない快感が脳を犯し、足が震えた。それでもまだ、大翔はしゃぶりつくすような口づけをやめようとしない。
翻弄される、というのはこういうことを差して言うのだろう。
気安くけしかけたことを後悔し始めた頃になって、ようやく大翔が唇を離した。
「は……、っ……」
喘ぐような呼吸を繰り返すしかない自分とは違い、大翔は余裕のある微笑みを浮かべている。
「慧さんって、意外と大胆だよね」
含み笑いが耳朶を打っても、まともな言葉一つ出てこなかった。
ヤカンがけたたましい音を立てなければ、いつまでも我に返ることなく呆然としていただろう。
さりげなく大翔の胸板を押し退け、のぼせた頭で火を止める。背後から緩く抱き締められるとまだ身体の深い場所に残った快感の余韻に火がつきそうだ。
「……慧さん。ごめん……っ。オレ、もうダメかも……」
「秋村君?」
唐突な涙声に動揺し、身を捩って大翔を振り返ろうとするが、そうさせまいとでも言うのか、腕の戒めがきつくなった。
小さく洟を啜る音が聞こえる。
どうして泣いているのか。なにがあったのか。
なにがダメなのか。
聞きたいことは山ほどあるが、今聞いてもなに一つまともな答えは返ってこないような気がした。
しばらく自分の肩口に顔を埋めてぐずっていた大翔が、唐突に身体を離した。あっけなく解放されたことに安堵する余裕もない。
「……シャワー、行って来る」
まともにこちらの顔を見もせず、俯き加減に浴室へと消えていく。小さく丸まったその背中を目にした途端、言いようのない焦燥感が湧き起こった。
大翔がなにかを思い詰めているのは確かだろう。追い縋ってでもそれを知りたいと思う自分がいるのも事実だ。けれど。
そうすることで余計に大翔を苦しめてしまうような気がして、結局なにも問えなかった。
ダメとは、なんのことだろう。自分といることか。ストレートだから、男の自分と付き合うことに限界を感じたのか。
聞くのが怖かった。けれど、多分……。
(まだ、大丈夫なはずだ……)
自分と別れたい、という話ではないような気がした。だってさっき、大翔の方から〝会いたい〟と言ってきたのだ。あの言葉には、こちらを拒絶するようなニュアンスはなかった。別れ話をするつもりなら、電話で充分事足りただろう。
自分を抱き締めてきたのも、大翔だ。別れるつもりなら、わざわざあんなことをする必要もない。
でも、だとしたらなにがあれほどまでに、大翔を追い詰めているのだろうか。
あんなに明るい大翔が泣くなんて、よほどのことがあったに違いない。
「俺は、どうすればいいんだ……?」
大翔のためになにができるだろう。
ただ黙って傍にいればいいのか。それともこちらから問い掛けて欲しいのか。今、大翔は自分になにを望んでいるのか、せめてそれくらいは教えて欲しかった。
こんな風に考えること自体、既に大翔が〝他人〟でなくなりつつある証拠だ。そう気づき、慧はふと顔をしかめた。
いつの間にか大翔は、ただすれ違えばいいだけの存在ではなくなり始めている。それは自分にとって大変都合の悪いことだ。
別れ話であって欲しくないと願うことさえも。
のろのろとコーヒーを淹れ、ソファに腰を下ろして片膝を抱える。
大翔に気を許すつもりは今もって微塵もない。こんな恋愛ごっこにはいずれ必ず終わりが訪れるということも、分かっている。
(だけど、少しくらい……)
コーヒーの湯気をぼんやり見つめながら、慧は自分の胸中に言い訳をした。
少しくらい、大翔のことを知りたいと思うのは別に構わないじゃないか。こっちが好きになったわけじゃない。むしろ「好きだ」と言って来たのは大翔の方なのだ。ストレートの癖に。
そんな物好きがなにを考えているのか、多少なら興味を持ってもいいはずだ。
本気で好きになりさえしなければ、いずれ訪れる別れの日に怯えることも、傷つくこともないのだから。
慧は自ら淹れたコーヒーに口をつけることもせず、抱えた膝に頬を預けてぼんやりとしていた。浴室から聞こえたドライヤーの音に顔を上げ、気まぐれに立ち上がって湯を沸かし直す。
大翔のためになにかしてやりたい気持ちはあるが、肝心の大翔がなにを望んでいるのかも分からない。考えたところで、自分が大翔のためにできることなんてなにもないように思えた。
だからせめて、大翔が好きなココアを作る。
「え? あ。……ありがと」
タオルを首から提げ、リビングに戻って来た大翔にマグカップを突き出した。目を丸くし受け取った後、大翔はほんわりと笑う。涙の跡がすっかり消えてなくなっていることに安堵した。
自分の分のコーヒーも淹れ直し、並んでソファに腰を下ろす。カップの中身を慎重に吹き冷ます大翔を横目に本を開いた。
なにも聞かないでおこうと思った。話したいなら、大翔が自ら口を開くだろう。
ゆっくりと、なんの取りとめもない時間が過ぎていく。ひっそりとした静けさは不快とまではいかないものの、どことなく落ち着かなかった。
文字を追うふりをしながら、たびたび隣の大翔を盗み見る。あれだけ続きを気にしていた小説を読むでもなく、大翔はただぼんやりとテーブルを見つめていた。両手に包みこんだままのカップから湯気が消えている。
焦点の合わない瞳を見れば、意識がこちら側にないのは明白だ。きっと自分の内奥を見つめている。硬い横顔は完全に無表情だ。
陰鬱な横顔に眉をひそめながら、意図的に奥歯を噛み締めた。そうでもしなければうっかり問い詰めてしまいそうだ。突き動かされるような衝動を噛み潰し、ひたすら読書に没頭するふりを続けた。
「慧さん」
どのくらい時間が経っただろう。空耳かと思うほどか細い呼び掛けが鼓膜を掠め、顔を上げる。
「ごめん……聞いてくれる?」
「……ええ、もちろん」
こちらを見ることもなく、大翔は未だぼんやりとテーブルの一点を見つめていた。ひび割れた瞳が微かに揺らいでいる。
やっと話す気になったかと、慧は密かに安堵の息をついた。同時に、心の準備をする。
もしも別れたいと言われたら、微笑み一つで快く送り出してやるつもりだった。去る者は追わない。それが信条だ。
躊躇うように口を閉ざした後で、大翔がゆっくりと話し出す。
「オーディション、落ちたんだ」
「オーディション?」
想定外の第一声に、肩透かしを食らった気分で大翔を見つめた。
「オーディションって、モデルのですか?」
「ううん……ドラマの」
「ドラマっ?」
またして予想もしていなかった単語に目を剝く。
ドラマのオーディションなんて、どうして受けたのだろう。
「ドラマって……君はファッションモデルでしょう?」
「うん……でも、ほんとは俳優になりたいんだよ。演技がしたい」
「そ……」
それは初耳だ。絶句する自分に大翔が顔を向ける。
「馬鹿だと思う?」
「思いません」
切なげな笑みを浮かべて自嘲する大翔に断固として即答した。なりたいものになればいいと思う。やりたいことをやればいいと思う。自分の人生を歩めるのは、他でもない自分だけなのだから。
毅然とした返答にほっとしたのか、大翔は肩の力を抜き、ソファにもたれて宙を眺める。
「前にさ、小説の映像化には反対って話したの、覚えてる?」
「ええ、もちろん覚えていますよ」
あの話を聞いたとき、奇妙な同族意識を覚えたものだ。小説は個人的な世界で、それぞれが頭の中で映像化すればいいと。
自分とまったく同じようなことを考えている人間がいると知り、不思議なくらいに嬉しかったことを覚えている。
思えばあの時ではなかったか。大翔に対する見方が変わったのは。
それまではただ鬱陶しいだけの使えないバイトだったが、あの話を聞いて以来、少しばかり大翔に親近感を抱いたのだ。
「原作のある映画とか観るとさ、いっつも思うんだよね。『小説を映像化するならもっと完璧じゃなきゃいけないのに、下手な演技と脚本で原作を汚さないで欲しいなぁ』って。でもそれって、本音を言うと自惚れなんだ」
〝オレならもっと完璧に演じるのに〟
大翔はいつも、そう思っていたらしい。下手な役作りを見るたびに、〝自分なら〟と口惜しみ、悶絶し、挙句には嫉妬すらしていたのだと言う。
「『なんでこんなヘタクソな奴が主演なんだよ』とか、『原作のイメージと全然違うじゃん』とかさ……ほんと、何様って感じだよね」
弱々しい笑みに、根深い自嘲が浮かんでいた。
オーディションに落ちた、ということは、その〝自惚れ〟が木っ端微塵に砕かれたということだ。
「四か所も受けてさ……全部落ちたんだよ? しかも、別に主演オーディションとかじゃなくて、サブ役っていうかさ……主演の友達役とか、家族役とか、そういう端っこの役だったのに、それでも落ちたんだよ? もうさ、『馬鹿じゃねぇの?』って自分でも思う」
大翔は露骨に明るい声を出す。痛々しくてとても見ていられないが、ここで視線を逸らすのはいくらなんでも非道だろう。
同情するのも躊躇われる。そんなことをすればなおさら大翔が傷ついてしまうと分かっていた。それゆえ、努めて無表情を貫く。
無言の自分からつと目を逸らし、大翔が薄く微笑んだ。
「……ヤな奴だよね、オレ。今までさんざん他人のこと馬鹿にしててさあ。いざ自分が演じる側になったら、箸にも棒にもかからないんだもん。審査員たちに、自分の汚いとこ全部見抜かれたみたいで恥ずかしかった」
言った傍から、大翔は恥じ入るように俯き、抱えた膝に顔を隠してしまった。
「ずいぶん生真面目ですね……」
傲慢な自尊心を自ら侮蔑する人間なんて、そうそういないと思う。こんな実直な性格をしていては、この先芸能業界で生き残れないのではないだろうか。
大翔はこの数週間、朝から晩までみっちりと演技レッスンを受けていたらしい。その合間にバイトをこなし、きつい食事制限を自分に課して体調を整え、万全の準備をしてオーディションに臨んだのだ。
その結果、惨敗だった。大翔が気を塞ぐのも当然だろう。
「……それで?」
同情を悟られないように繕った声は、思いのほか冷たく響いた。大翔もそう感じたのだろう。分かりやすく身体を強張らせ、怯えたような視線を向けてくる。
「ごめん……こんな話聞かされてもウザイだけだよね。ほんとごめん……」
ますます気落ちしていく大翔に内心『そうじゃない』と動揺しつつ、弁明の言葉を探した。
勘違いされてしまったらしいが、自分は決して苛立っているわけではない。ただ、なにか伝えなければと思うだけだ。なにを伝えたいのか、本当のところ自分でも理解できていないのに。
「もう諦めるつもりなんですか?」
「え?」
戸惑ったような視線を受け止め、無意識に任せて口を開く。
「もう諦めるつもりなのかと聞いたんです。ここでそうしていつまでも落ち込んでいれば、私が慰めてくれるとでも思っているんですか?」
「そ、れは……」
「甘ったれないでくださいよ。私はそういうウジウジした人間が嫌いなんです。君の取り柄は、しつこさくらいのものでしょう? だったら何度でも諦め悪く挑戦すればいいじゃないですか」
激励なんて柄ではないから、ついついきつい言葉に置換されてしまう。
「ここで諦めてなにもかもを放り出すなら、所詮君はその程度ということになりますね」
息を飲む大翔を視野外に置き、束の間押し黙った。こんな言い方しかできない自分が情けなく、恨めしい。
「……私は、ドラマが嫌いなんです。陳腐で下らないですからね。でも――」
大翔が出演するなら、見てみたいような気がした。どんな演技をするのか、興味があるのだ。
そう告げると、大翔は瞠目したまましばし固まった。
〝もうダメだ〟なんて一言で、諦めて欲しくない。自分が本当に伝えたいのはそれだけだ。
(俺には、〝手に入れたいなにか〟なんてない)
なりたいなにかもないし、したいこともない。未来に期待すらしていない。自分は常に空っぽだ。だからこそ――。
〝どうしても〟という衝動があるなら、その一瞬の感情を大切にするべきなのだ。それは残酷なほど特別なもので、気安く捨ててしまったらもう二度とめぐり合えない。
かつて自ら投げ打った唯一無二の感情は、未だこの胸から欠け落ちたままだ。
〝諦める〟ということは、自分自身のなにかを〝捨てる〟ことと同義なのかもしれない。
こんな空虚な寂しさを、大翔には知って欲しくなかった。
ゆっくりと大翔の瞳が綻んでいく。
あんな言葉で、ちゃんと伝わったのだろうか。
猜疑心を抱きながら大翔を見つめると、大翔は小さく声を上げて笑った。
「うん。慧さんが見てくれるなら、オレ、頑張るよ。頑張るから……っ」
笑いながら目に涙を溜め、大翔は声を震わせる。再び俯きかけた頬を手の甲で撫で、視線が重なった瞬間、そっと口づけた。
〝頑張れ〟なんて言葉を口にするつもりはない。大翔は充分頑張っているだろうし、努力は他人に押しつけられてするものではないからだ。
誰かに強要されなくても、前に進み続けたいと自ら願うことができるのなら、いつかその努力は芽吹くだろう。そうであって欲しい。
「っ……!」
脆弱な子供のように飛びついてくる大翔を、ほとんど条件反射で抱き締める。
微かに震える身体を抱き締め、本当は自分よりもずっと強靭だろう背中を撫で擦った。
こんなことをしてやりたいと思うのは、大翔に限ったことだ。こんなことしかできない自分を歯がゆく思うのも、初めてだ。
もっと深く大翔の心に触れたいと願う傍ら、一抹の恐怖心が鎌首をもたげる。
知れば知るほど大翔が特別になっていく。それが怖かった。
いつか来る別れを予期していながら、自戒したはずの心が刻一刻と融解し始めている。
なにがあっても、大翔を好きになるわけにはいかない。こちらが本気になってしまえば、その想いの自重に耐えかねて、いつか必ず後悔するはめになるだろう。
失ってから傷ついても、時は戻らないのに。
もう二度と、誰かを想って裏切られたくない。否定も拒絶もされたくない。
そう願うから、今までずっと、自らの意思で他人をはねつけてきたのだ。なのに。
(どうして俺はまた……)
他人を相手に、特別な感情を抱き始めているのだろうか。
互いの温もりが伝染しあうことに、言い知れぬ快感と安息を感じているのだろうか。
自分の感情すら見失ったまま、慧は静かに目を閉じた。
今は、なにも考えなくていいのかもしれない。ただ傍にいれば、自分も大翔も満足なのだから。
「別れ話なのかと思いましたけどね」
「え?」
コーヒーを吹き冷ましながら呟くと、大翔が大げさに目を見開いた。
「な、なんで? そんなわけないじゃんっ」
大翔はこちらを見つめ、分かりやすく動揺を浮かべる。だいぶ吹っ切れたらしく血色が戻っていた。
そのことに心の底からほっとしたのも束の間。
「もしかして慧さん……オレと別れたいの?」
ふとか細い問い掛けを耳にし、今のが余計な一言だったと気づく。
「ち、違いますよ」
せっかく戻った顔色がまた失われていくのを目の当たりにし、慧は慌てて言葉を繕った。
「早とちりしただけです。君があまりにも思い詰めているようだったので、てっきりそういう話かと」
「あ、ごめん。オレが勘違いさせたんだね」
ほっと肩の力を抜き、大翔は朗らかに微笑む。
「心配させてごめん。オレは慧さんと別れたいなんてこれっぽっちも思ってないよ」
「……そうですか」
こうして断言されると、それはそれで居心地が悪い。つと視線を逸らし、コーヒーに口をつけた。
とりあえず、良かったとは思う。だが、素直に喜ぶわけにもいかなかった。
今はまだ大丈夫そうだが、いずれは必ず別れたくなるだろう。だから、未来に期待はしない。
「ほんとはさ、さっきの店に行ったの、ちょっと後悔してるんだよ。他の客たち、みんな慧さんのこと見てた」
唐突に身体をすり寄せてきた大翔が、緩く自分を包み込んで囁く。
「みんな慧さんのこと色目で見ててさぁ。……オレ、もうちょっとで怒鳴りつけそうになったよ」
僅かに低くなった声に瞠目する。奇しくも自分と同じようなことを考えていたらしい。
「しばらく、っていうかもう絶対、ああいう店には行かないで? 慧さんの相手ならオレがするからさ」
心地いい声に一瞬、とんでもない言葉を聞き流しかけた。
「あ、相手って、」
なんの、と問う前に、唇が塞がれる。
「んッ…っふ……」
先ほどの続きとでも言うつもりなのか、最初から容赦がなかった。熱っぽい舌先が唇を割り入って口内を嬲り、誘われるまま舌を絡め合う。
僅かにココアの味がした。甘く柔らかな舌の感触にはどこか幼さを感じるのに、その追い詰め方はまるで獰猛な獣のようだ。きつく舌を吸い上げられ、甘く噛まれ、口蓋を突かれ、歯列をゆっくりとなぞられる。
いつの間にかソファの上に押し倒されていることにすら気づかないまま、ただただ、溺れるような熱と快楽に身を任せ、羞恥すらかなぐり捨てて大翔の背にしがみついた。
大翔はゆっくりと、探るような手つきでパジャマのボタンを外していく。
素肌を滑る大きな手の感触すら、快感の波を引き寄せるものだ。
もっと深く、もっと激しく。互いにそれだけを望んでいる。
圧倒的なテクニックを前に、押し返すことも忘れて飲み込まれていった。
「っんん……! んっ……ぁ、んッ……」
扇情的な水音が鼓膜を刺激すると、身体の中心から波紋状に快感が広がっていく。
互いに唾液を混ぜ合い、それでも足りず貪るように口づけを交わした。
「慧さんって、口の中弱いんだ?」
「あッ……ちょ、やめ、」
大翔はクスクスと楽しげに笑い、首筋から鎖骨まで、降らすようなキスを落としてくる。
「ッあ……!」
軽く乳首を食まれ、思わず腰を浮かす。
「あ、ここも弱い?」
弱点を見つけるたび生き生きとしていく大翔から逃れる手段は一つもなかった。執拗に尖りを嬲られ、次第に呼吸が荒くなっていく。
「っあ、きむら、く……うぁ、っ……んッ」
劣情に凝り固まった肉芽を、ねっとりと熱い舌で包み、時折軽く歯を引っ掛けては、こちらの欲を見事に煽ってくる。
そんなことをしてなにが楽しいのか。所詮は男の身体だというのに。
「も、やめ……っ、あッ!」
ゆっくりとした動作で下着を割られ、無意識に身体が強張った。たったこの程度の愛撫で淫猥に昂ぶったペニスから、とろとろとした雫が零れている。
「すご……ちゃんと感じてくれてたんだ?」
「ち、ちが……っあ……ぅっ」
自分の鼓動に合わせて脈打つそれに指を絡め、大翔は緩く上下に揺する。
もどかしい触れ方に唇を噛んだ瞬間、亀頭の先を親指の爪で軽く引っ掻かれた。
「あ、ああッ、」
極端な快感が腰を貫き、反射的に背中を反らせる。大翔は巧みな指使いで裏筋を擦り上げ、こちらの反応を窺いながら再び胸に舌を這わせて来た。
疼くような快感とまとわりつく熱に翻弄されれば、なす術もなく喘ぐしかない。
「ッあ――ッ!」
乳首を噛むのと同時に割れ目を指先で押し抉られ、堪えきれない快感に息を詰めた瞬間、先端から精液が飛び出した。
「ッは、ぁ……」
あっけなくイかされたことに呆然としつつ、引かない疼きに荒い呼吸を繰り返す。
「慧さん、ベッド行こっか……」
大翔は腫れ上がった乳首から口を離し、さらりととんでもない囁きを口にする。
「ベッド、って……」
慄く自分と視線がかち合うと、大翔は朗らかに笑う。
「ここじゃ狭いし、危ないからさ」
無邪気な笑みを、こんなに空恐ろしく思ったことはない。
「君、まさか本気で――」
するつもりなのかと問い質す前に腕を引かれた。
ベッドの間接照明だけをつけ、大翔はそっと自分を押し倒す。
「ね、抱かせてよ。オレ、慧さんを抱きたい」
「っ……」
愚直な言葉に頬が熱くなる。
「ダメ?」
真正面から見下ろされ、息が止まった。
大翔の目は本気だ。
「だ、めでは、ありませんけど……」
決して、ダメではないが。
「けど?」
こちらが言いよどんだことに、大翔は気づいたらしい。真剣な瞳で続く言葉を待っている。
「……本当に、いいんですか」
答えないわけにはいかず、視線を逸らしながら問う。
「私は……男、ですよ」
ストレートの男が男を抱くなんて、普通じゃありえない。気まぐれで始めても、最後まで持たないかもしれない。
自分相手に、大翔が欲情するなんてどうしても信じられないのだ。
土壇場で逃げ出されるかもしれない恐怖心を押し殺してまで、しなくてもいいんじゃないかと思う。
「今さらなに言ってんの」
大翔は小さく吹き出した。驚いて見つめると、大翔は優しく自分の前髪を掻き上げてくる。
「そんなこと気にしなくて大丈夫だよ。だってオレ、もう」
「あ……」
そっと触れさせられたそこは、服の上からでも分かるほどに昂ぶっている。自分に触れただけでこんなになったのかと、驚きつつも安堵した。
大翔は、ただの気まぐれでこんなことをしたがっているわけではないのだ。
「ね? だから大丈夫――」
大翔は囁くように言い、そっと唇を塞いできた。
ベッドの上で互いに昂ぶった下肢を擦りつけ、欲情を重ね合うような口づけを繰り返す。
「ん……っ、ふ、……んッあ!」
素肌を滑るように流れた手に、躊躇いもなく下着ごとパジャマのズボンを引き抜かれた。
両足を割り開かれ、硬く反り返った欲情が晒される。
「ヒクヒクしてる。触って欲しい?」
「っ……!」
濡れた先端にふっと息を吹きかけられただけで、射抜くような快感がせり上げてきた。
「あ、秋村く……っ、ああッ……!」
よせばいいのに、大翔はちろりと先走りを舐め取り、抵抗などまるでないかのようにペニスを頬張った。
「ぅ……ぁ」
じゅぽじゅぽと卑猥な音を立ててしゃぶられ、思わず耳を塞ぎたくなる。亀頭の裏側、一番敏感な割れ目を執拗に舌先で疲れると、食いしばった歯の隙間から堪え切れない声が零れ出した。
痛いほど腫れ上がり、血管の浮いた竿を唇で扱きながら、空いた手がそっと陰嚢を揉みしだく。
「も、離、せ……っ」
切羽詰ったような射精感が込み上げ、咄嗟に大翔の頭を押し退けた。だが大翔は口を離すどころか、最後の追い討ちと言わんばかりに先端をきつく吸い上げてくる。
「ッ、あ、あっ――ッ!」
抵抗など端から無意味だった。とめどなく溢れる精液を口で受け止め、大翔がこくりと喉を鳴らす。
先端の窪みに溜まった白濁さえ舌で舐め取り、大翔はようやく口を離した。
「……オレ、男の人としたことないからさ、」
穏やかに微笑んだ大翔は、ごそごそとベッドサイドの引き出しを漁ってなにかを取り出す。
「色々調べたんだ。どうすればちゃんと慧さんを気持ちよくできるか」
「なっ……」
小さなボトルを目にして、思わず顔をしかめた。大翔が手にしているのはローションのボトルだが、見覚えはまるでない。そんなものがベッドサイドの引き出しから出てくるのは明らかにおかしいだろう。
「君……いつの間にそんなもの用意したんですか」
「ん? この前、こっそり」
呆れる自分に対して、大翔は無邪気な顔でボトルの中身を手のひらに空けていた。
それからゆっくりと尻の窄まりにも垂らしてくる。かなりの冷たさに思わず息を詰めると、大翔が小さく、しまったという顔をした。
「ごめん、冷たかった?」
「い、いいから、」
いちいち中断しないで欲しい。こんな気恥ずかしい行為を大翔としていること自体、いたたまれなくて仕方がないのだ。
大翔はそっと窄まりを指で押し、円を書くようになぞる。それだけでカッと耳が熱くなった。
今までの相手とは、どれだけ恥ずかしい行為をしても平気だった。どうせ二度と会わない相手なのだからと、情欲に突き動かされるまま激しいセックスをしてきた。
けれど大翔とするのはまるで違う。多くの言葉を交わし、他愛ない時間を共有し合って、ほんの少しだけ互いを理解しているのだ。
自分は、大翔が優しいことを知っている。
大翔は、自分が臆病だということを知っている。
僅かとはいえ、自分のことを理解している相手と身体を重ねるのは、途轍もない羞恥を伴うのだと、初めて思い知った。
ゆっくりと窄まりを撫でる指先に知らず息が上がり、頬が紅潮していく。
普段自分でも目にすることのできない部位に触れられるのが、たまらなく恥ずかしかった。ただそれだけで感じてしまうほど。
「痛かったらちゃんと言ってね?」
「う……ぁ」
つぷ、と指先が中に押し込まれる。探るように内壁をつつきながら、焦れるような時間をかけて奥へと侵入してきた。
「大丈夫そう?」
「ん、平気、で、ぁッ……」
こちらの反応を窺いながら、内部で指先が円を描く。もどかしい快感に堪らずシーツをきつく掴んだ。
「っ、あ……ぅ……」
気の遠くなるような時間を掛け、何度も何度も指の抜き差しを繰り返す。
「も、いいから、早く……っ」
次第に指の数を増やし、それぞれが別の動きで自分を追い上げてくる。堪りかねて自ら懇願しても、大翔は決して事を急がなかった。
「もうちょっと我慢して。多分、慧さんが思ってるよりきついから」
焦らしに焦らされ、昂ぶった欲熱に浮かされた頭では、その言葉の意味を深く理解することもできない。
「ん、もう、そろそろ挿入るかな……」
小さな呟きとともに指が引き抜かれる。
「っ、あ……」
ズルリとした排泄感ですら、言いようのない快感を与えてくる。
ぬるんだ後孔に、どくどくと脈打つ灼熱の肉棒があてがわれ、思わず息を詰めた。
硬く反り返ったペニスの先で窄まりをつつき、大翔がそっと身体を押し重ねてくる。しっとりと汗ばんだ互いの皮膚が触れ合うだけでこんなにも心地いいと感じたのは初めてだ。
「ちゃんと息しててね」
「ん、う……ぁあ……ッ」
たっぷりと鳴らされた肉壁はさほど抵抗もなく大翔の欲を飲み込んでいく。思っていた以上の質量に貫かれ、酸欠になりながら喘ぐような呼吸を繰り返した。
じりじりと大翔のペニスが奥へ進むたび、身体の隙間という隙間が全て埋め尽くされたかのような充足感が広がっていく。
「っ、ちょっと、きつい、かな……っ」
ぎっちりと奥まで繋がり、大翔が掠れた声を出した。
「大丈夫?」
「ん、」
気遣わしげな問いに、頷くのもやっとだ。
「ごめん。こうするの、ほんとはきついよね。でもオレ、どうしても慧さんとしたかったから」
大翔はどこまでも優しい言葉を囁きながら、汗ばむ自分の両足を抱え、ゆっくりと動いた。最初はもどかしく感じた律動は、次第に深く、激しさを増していく。
「ッあ、あ、んッ!」
自分の中が押し開かれる感触に、眩暈がするほどの快感を覚えた。きつく閉じた瞳の端に生理的な涙が浮かぶ。
「ね、オレの名前呼んで、慧さん」
「あ、あき、あ、ッ、んん、」
「〝大翔〟だよ」
追い詰めるように腰を動かし、大翔が耳元に囁いた。
ベッドの軋む音と、自分を穿つ男の荒い息遣いを耳にするだけで、なけなしの理性が急速に瓦解していく。
「大翔、も……もっと、」
もっと激しくして欲しい。うわ言交じりにそう口にすると、自分を追い詰める動きから一切の躊躇いが失われた。
内壁を容赦なく押し開き、とろみのある蜜を先端から零しながら幾度となく貫かれる。そのたび蠢動する内壁に大翔の形が刷り込まれていった。
「慧さん、慧さん……っ」
いとおしげに自分の名前を繰り返す大翔の声が、こんなにも心地いい。軽く唇を重ねただけであふれ出す快感に、いっそ泣きたくなった。
これほど心が満たされるセックスは、かつて一度も経験したことがない。
「ごめん、もう、イキそう……っ」
「ん、んッ……はっ、あぁ……」
汗ばむ大翔の背に爪を立て、込み上げる快感に抗うことなく背中を反らせた。
「う、あ、あッ……」
「っ……」
射精とほぼ同時に大翔が息を詰め、熱い雫を奥へと放ってきた。受け止めきれない精液が窄まりから溢れ出す。
普段であれば間違いなく不快だっただろう感触でさえ、今はただひたすら気持ち良かった。
二人で荒れた呼吸を繰り返し、身動きも取れずただ身体を重ね合う。
「慧さん……」
愛おしげな囁きに薄く目を開けた。満たされたような瞳に覗き込まれ、自然と口元が綻んだ。気の赴くまま、両手を伸ばして大翔の髪を搔き回す。
くすぐったがるような笑い声に満足し、そっと目を閉じた。
多分今、自分と大翔は同じ気持ちなのだろう。それを嬉しく思うことがなにを意味するのか、ぼんやりとした頭の片隅でいくつも自問する。
特別だと感じることが、なにを意味するのか。この温もりを手放しがたく思うのはなぜなのか。大翔に限って、傍にいて欲しいと思ってしまうのはなぜなのか。
たった一つ、その答えを手にするより先に、慧の意識は吸い込まれていく。
満ち足りた安息の中へ。
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