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平穏。そして憧れとの再開
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◇
「ほら唄瀬君、これも食べて? 自信作なの」
「あ、はい」
美月さんの手料理は驚くほど美味しい。弦也は薦められるがまま、どんどん胃袋に収めていった。
結局居座ることになって、もう一週間だ。
「なんかすいません。お世話になってばっかで」
「いいのよ、家が賑やかになって嬉しいわ」
恐縮する自分に、美月さんはたおやかに笑う。
「あなたもほら、全然食べてないじゃない」
「……食ってるよ」
樛は苦笑し、静かに食事を摂っていた。
「美味しい?」
「まあな」
時折視線を合わせては、二人して微笑み合っている。絵に描いたような円満な夫婦関係を目の当たりにし、溜まった胃の腑が不快にうねった。
樛がどれほど彼女を大切にしているのかは、その接し方を見れば一目瞭然だった。いつでも彼女を気遣っている。
(意外と優しいんだな……)
職場では憎まれ口ばかり利いている樛なのに。本当はこっちが素なのかもしれない。
「あ、俺そろそろ授業の時間なんで」
食べ終わった食器を重ねながら立ち上がる。
「あら、もうそんな時間なの?」
「ええ、今日は実技試験の対策があって」
本当は午後からなのだが、これ以上二人の時間を邪魔したくない。いそいそと食器をシンクに運ぼうとすると、それよりも先に樛が食器類を取り上げてきた。
「俺がやっとく。早く行け」
「あ、すいません」
「ねえ、一曲だけ弾いていって?」
テーブルの上に肘を突いた美月さんが僅かに首を傾げてそう言った。
「え、でも……」
「唄瀬は学校があるって言ってんだろ」
一瞬の逡巡を悟られたのか、樛が助け舟を出す。美月さんの「一曲だけ」が一曲で終わったためしがないのだ。弾くのは別に構わないのだが、ここで長居すると授業の嘘がバレる。
「一曲だけよ。あれは弾ける? 〈エリーゼのために〉」
「ああ、ベートーベンの。弾けますよ」
満面の笑顔でねだられてしまうと、どうにも断りづらい。樛が誰よりも大切にしている人なのだ。悲しい顔なんてさせたらぶん殴られるかもしれない。
弦也はリビングの隅にあるグランドピアノに近づいた。僅かに埃がかった鍵盤蓋を開け、ドの鍵盤を叩く。チューニングのズレが気になるが、仕方ない。
一息分だけ深呼吸をして、静かにメロディを奏で始めた。
〈エリーゼのために〉は、とても有名な曲だ。ベートーベンが想い人のために書いた曲と言われている。つまりこれは恋の曲なのだろう。明るく弾んだかと思えば、暗く沈む。気を取り直したかのように優しくなる。けれど……。
この曲の終わりはいつも、悲しい。そんな気がするのは自分だけだろうか。
メロディが止むと、小さな拍手が聞こえた。
「上手ね」
「いや、そんなことは」
掛け値なしに褒められると照れてしまう。
美月さんは都心の音楽教室で子供たちにピアノを教えているのだという。
「プロを目指してるの?」
「まさか。俺なんかが手の届く場所じゃないですよ」
苦笑し、鍵盤蓋を閉じる。
「ねえ、もう一曲だけ弾いてくれない?」
案の定、そう言われた。
樛が溜め息をつく。
「唄瀬は学校だって言ってんだろ。……早く行け」
目配せされ、頷いた。
「じゃあ、行って来ます」
二人に軽く頭を下げ、マンションを出た。
授業はないが大学に向かう。
「プロ、か」
昔の夢はそうだった。プロのピアニストになって世界中で活躍したいと思っていた。けれど。
自分にそこまでの才能はないと、もう気づいてしまっている。努力や情熱だけでなれるほどプロの世界は甘くない。あの人の言葉は正しかった。
コンクールでの落選も当たり前になって、ピアノを弾くことの意味も見失いつつある。『Calme』でも奏者として働いているが、動機としてはただ、樛に近づきたかっただけに過ぎない。決してピアノの腕を上げたいだとか、多くの人に自分の演奏を聞いて欲しいだとか、そんな高尚な理由ではなかった。
「俺……何のために音大に入ったんだろうな」
自問すると憂鬱になる。せっかく親が期待を掛け、進ませてくれた進路(みち)なのに。
校内の敷地に踏み入ると、どこからかトロンボーンが聞こえてきた。ドラムの音。クラリネット。バイオリンクラシックの旋律。音を奏でるための空間は居心地がいい。
校舎内に入って四階を目指す。練習室に先客はいなかった。
「よっしゃラッキー」
呟いて椅子に座る。チューニングの整ったピアノの音にうっとりしながら、即興でクラシックメロディを弾いた。
ピアノを弾くのは楽しい。楽しいから、大好きなのだ。けれどこれが未来に繋がらないかもしれないと思うと、どこか虚しくもある。
迷いが生じたら立ち止まってしまいそうで、それが何より怖い。今までの全てが無意味だったなんて絶対に思いたくなかった。
夢中でピアノを弾いていた弦也は、室内に人が入ってきたことに気づかなかった。
ふと視線を感じ、振り返る。
「……熱心だね」
涼やかな笑みを向けられ、一瞬息が止まった。
「飛鳥(あすか)さん」
窓際のパイプ椅子で長い脚を組んだ男が、頬杖をついたままこちらを見ていた。
「君は相変わらず感情的な弾き方をする」
涼やかな瞳に揶揄するような色を湛えながら飛鳥聖光(きよみつ)は言った。
「いつからそこにいたんすか」
「ん? 三十分くらい前からかな」
いたなら声を掛けてくれればいいのに。無茶苦茶な演奏を聞かれた気恥ずかしさから溜め息が漏れる。
飛鳥はそんな自分に一つ微笑みかけて立ち上がった。スッと糸に吊られるような、優美な立ち上がり方だ。柔軟に引き締まった身体の線が、シックなスーツによく馴染んでいる。
音のない動作で歩み寄ってきた飛鳥が、白く長い指先で鍵盤を弾いた。高音のファ。長く伸びるその音の懐かしさに、弦也は耳を澄ませる。
「最近、調子良くないみたいだね。ちっとも君の噂を聞かない」
静かな囁きが耳を撫でた。なにもかもお見通しのこの人に、自分は一生敵わないのだろうと思う。
「俺には、才能がないんですよ。飛鳥さんが言ったとおりで」
つい愚痴のような言葉が口をついて出た。音にした途端に、じわじわと心の一部が腐食していくような感覚に捉われる。言霊の威力は絶大だ。
飛鳥は一拍の間沈黙し、
「才能、ね」
そう呟いた。同時に、腹に響くような不協和音が鳴る。
唐突な音の変化に身体が強張った。
(やば……なんか俺、地雷踏んだ?)
恐る恐る彼の顔を見上げる。先ほどと何も変わらない穏やかな微笑みを向けられた。この男の心情を表情から読み取ることはできないのだと思い出す。いつだって飄然と微笑んでいるだけで、感情の起伏が乏しい。意図的なのか、それとも元来そういった性格なのかは分からないが、彼の謎めいた笑顔に屈する人間は多かった。老若男女問わず、自分も。
「今日は、どうしてここに?」
掛ける言葉に迷った結果、一番無難なものを音声化した。飛鳥は緩やかに瞬いて、ぐるりと室内を見回す。
「久しぶりに日本(こっち)に帰ってきてさ。古巣巡りって言うのかな。この練習室も、だいぶ懐かしいよ」
飛鳥はここのOBだ。自分にとっては先輩に当たる。とは言え年齢は五つ違うため、実際同じ時間を生徒として過ごしたことはない。
今では世界に名を馳せるプロのピアニストだ。音楽の道に立つ者で、彼の名前を知らない人間はいないだろう。才能にもルックスにも恵まれた日本人ピアニスト、飛鳥聖光(きよみつ)。
彼のピアノに憧れてこの進路(みち)を選んだ。コンサートで彼が奏でていたショパンの夜想曲(ノクターン)第二番は、今でも耳の奥で鳴り続けている。静かで暖かく、どことなくもの寂しいメロディに感銘を受けた。彼は楽譜どおりではなく、自らの思いを乗せて弾く。時に過剰なアレンジをすることもあり、プロとして厳しい批評を受けてもいた。それでも彼は自らの矜持に従って我が道を行くのだ。
決して振り返ることのないその背中に憧れないはずがなかった。
「久しぶりに日本語を聞いたら、上手く聞き取れなくて困ったよ。成田に着いても、東京駅までの切符買うのに英語しか出てこなくってさ」
肩を竦めながら飛鳥が嘆く。
「途中まで完全に英語で話してた。半分くらいで我に返って日本語に切り替えたんだけど、今度は駅員さんがきょとんとしちゃってね。『なんなんだこいつ』って顔で僕を見るんだ」
思わず苦笑した。想像するとちょっとおかしい。
「それは大変だったっすね」
深く頷いて、飛鳥は溜め息をつく。
「エスカレータとか、立つ側も逆だし。こっちにはレディファーストの文化がないから、扉とか押さえてると気障に思われて警戒されるんだ。僕にとっていいことのない古巣巡りだったよ」
その言い方からすると、昨日今日帰ってきたわけでもないようだった。
「そんなわけでさ、今夜とか暇?」
飛鳥は天板に手を乗せて首を傾げる。唐突な質問に弦也は目を丸くした。
「ここらでちょっと気分を変えたくて。夕飯とか一緒にどうかな? 君となら楽しめそうだし」
「はあ……」
理解も納得も難しいが、とりあえず曖昧に頷く。
今日は特に予定があるわけでもないし、帰る時間はなるべく遅い方がいい。なんとなく、あの家に居場所がある気がしないのだ。夫婦水入らずでいる樛たちの邪魔をしたくなかった。
「じゃあ、今晩十九時でいい? 待ち合わせ場所は後で連絡するから、携帯の番号教えて?」
「はい」
言われるがまま番号を教える。
(あれ、俺って今、あの飛鳥聖光さんと連絡先交換してんのか?)
自覚すると身体の芯が震えた。これはいちファンとして凄まじい幸運なのでは。
内心浮かれながら、追加された携帯番号を眺める。
「じゃあ、また後で。練習頑張って」
来たときと同様、足音も立てずに飛鳥は去っていった。
この間の厄日の代償だろうか、今日はやけについている。
「よっしゃっ!」
ガッツポーズを取って、鍵盤に向き直った。今ならいい演奏ができるだろう。
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