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樛の懺悔
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◇
ずっと水音がしている。樛はソファの上から美月の背中を眺めていた。流し台に立った彼女は上の空で何かを考え込んでいる。
唄瀬が来てからずっとこんな調子だ。傍にいてもどこか遠い。前よりもいっそう、遠くなった。
考えていることは手に取るように分かるのに。
「唄瀬君、本当にピアノ上手よね」
はっきりとした独り言が聞こえた。
「結斗(ゆいと)も、あんな風になったのかしら……」
呟きに食器の割れる音が重なった。細い背中がゆらりと傾ぐ。
慌てて立ち上がり、その身体を支えた。
「美月、大丈夫か」
呼びかけても、彼女は虚ろな目で虚空を見つめるだけだ。まるでこちらの存在など認識していない。
あのピアノを唄瀬に弾かせたのは間違っていたのかもしれない。少しでも過去から動き出せるかと期待したことが、却って過去を引き戻してしまった。
「全部、あなたのせいよ……。結斗が、」
その先の言葉を美月は口にしなかった。強引に身体を捩って、彼女は立ち上がる。ふらつく足で自室に向かった。
唄瀬の前では以前のように明るく振舞っている美月だが、こと二人きりになると人が変わったように生気をなくす。
樛は脱力して床に座り込んだ。水音はまだ続いている。
唄瀬を引き止めたのは美月だった。行くところがないのならこの家にいればいい。部屋は余っているのだからと。
気力を振り絞って立ち上がる。蛇口を捻って水を止めた。
唄瀬が使っている部屋に入ってベッドに横になる。余った部屋。子供用にと用意してあった場所だ。ベッドが大人用なのは、子供の成長が早いから。いずれ買い換えることになるなら最初から大きい方がいいと、そう言ったのは自分だったか、彼女だったか。生まれた子にはピアノを教えるのだと、彼女と二人でその日を楽しみにしていた。
だが自分たちの間には、長いこと子供ができなかった。不妊の原因は自分だ。きつい不妊治療の末にようやく授かった子は男の子だったが、生まれてはこられなかった。
「結斗」
小さく呟いて唇を歪める。生まれてくるはずだった子供に、付けようと決めていた名前だ。ただの一度も、呼んでやることはできなかったが。
(俺と結婚さえしなきゃ、あいつはあんな思いをしなくて済んだんだ)
病院で泣き崩れた彼女の横顔に、なに一つ言葉を掛けられなかった。
『あなたとなんか、結婚しなきゃ良かった……っ!』
震える声で浴びせられた言葉に、心臓が凍りついた。あれから二年が経っている。
あの日、夫婦の絆は途絶えてしまったのだろう。溝は日ごとに深くなり、彼女が自分を見る目もどんどんきつくなっていった。不信と憎悪に満ちた瞳で睨まれると、どう接していいのかすら分からなくなる。そしてさらに二人の距離は開く。悪循環だ。
美月はその一件以来、家に篭るようになってしまった。もともと子供好きだった彼女は都心のピアノ教室に勤めていたが、子供を見るのが辛くなったのだろう、仕事を辞めて、ひたすら家で酒を浴びるような生活をしていた。ほんの少し前までは。
今朝方、美月に向けられた微笑みを思い出す。あれは演技ではない。だからこそ、余計に胸が痛かった。
本来、彼女はあんな風に穏やかに笑って、温かな家庭を築けていたはずなのだ。相手が自分ですらなければ、きっと。
この二年間、幾度となく離婚を考えてきた。もう一度、彼女にふさわしい相手を見つけて欲しいと、今でもそう思っている。けれどそれは、どこまでも自分本位な願いだ。
彼女のためといえば聞こえはいい。だが本音では自分自身が、この息が詰まるような夫婦生活から逃げ出したいだけなのだ。それを卑怯と言わず、なんと言うのだろう。
(情けねぇ……)
大切な人間一人幸せにすることもできずに、逃げ出すことしか考えていない自分が、心底嫌になる。しかもその実、自分には彼女に離婚を切り出す度胸もないのだ。この期に及んで、自分が悪役になることを躊躇している。
ベッドにうつ伏せ、目を閉じた。
唄瀬が来てから、美月は酒を飲んでいなくても笑うようになった。今まで目もくれずにいた家事も率先して行っている。その事実だけ見れば、事態は好転しているかのように思えた。だが……。
結斗のために用意した部屋を唄瀬に使わせたことで、美月は唄瀬を結斗と同一視するかのような行動を取り始めている。これは決して良い兆候ではなかった。
美月は唄瀬のピアノを心底気に入っている。偏執的なまでに。亡き息子の未来を唄瀬に重ねているのは明らかだ。
毎朝、大学に行くため唄瀬が家を出た瞬間から美月は無気力になる。唄瀬に結斗を重ねて見ている美月にとっては、がらんと静まり返ったこの家に自分と二人きりで取り残されるのは、また息子がいなくなったという絶望感を思い出させるものなのだ。だから一曲でも多くピアノを弾かせ、この家に留めようと躍起になっている。
最初に唄瀬を引き止めたのも、もしかしたらこれ以上自分と二人きりの生活をしたくなかったからかもしれない。
唄瀬は人が良く、純粋な性格だ。美月がリクエストを求めれば、素直にそれを叶える。その従順さが、美月の執着を助長しているとは夢にも思わないだろう。
あいつはいい奴で、だからこそ、こんな歪んだ夫婦関係に巻き込むべきではなかったのだ。
「クソ……っ」
小さく毒づき、額を押さえる。
いくらなんでも軽率が過ぎた。唄瀬を連れてきたことも、あのピアノを弾かせたことも、美月に惚れたことすら、傲慢で浅慮な行動だった。
唄瀬がこの家を出る日は必ず来る。その時、美月がどんな思いをすることになるのか、唄瀬にどれほどの負担が掛かるのか、そこまで考えが回っていなかった。
このままではいずれ、なにもかもが破綻する。
(なにもかも、俺のせいだよな……)
樛は自責しながら、泥のような眠りの中に落ちていった。
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