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八つ当たりの演奏
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◇
大学の音楽室でひたすら鍵盤を叩いていた。今の自分が唯一堂々といられる場所はこの大学の音楽室くらいのものだ。
ピアノを弾いているときだけは何も考えずにすむ。目を閉じ、耳だけで音を追う。何時間でも、ずっとこのまま無意識の中にいたいと思った。
昼間の出来事なんて、一瞬でも思い出したくない。
自分の集中力に甘んじて思考放棄に勤しんでいた弦也は、突如背後で聞こえた鋭い物音に驚いて音を途切れさせた。勢いよく振り向く。
「あ、ごめん」
パイプ椅子から身体を乗り出し、床に落ちた携帯を拾い上げている飛鳥がいた。
「……いつから、そこにいたんすか」
「ん? 二時間くらい前からだけど。っていうかその質問、二度目だよ」
緩慢な動作で椅子の背にもたれた飛鳥は、いつになく無表情で言った。そして深々と、これまた彼には似つかわしくない溜め息を洩らす。
「何時間弾き続ける気なの?」
心底呆れたような言葉に思わず時間を確かめた。午後十一時半を過ぎている。その事実に我ながらぎょっと目を見張った。
「昼過ぎからずっとここでピアノを弾いてるって聞いたけど。誰も怖くて近づけないって。……練習室は君の私室じゃないよ」
「すんません」
咎めるように言われ、若干イラっとしながら頭を下げた。
放っておいて欲しい。
「ずいぶん荒れてるね。何があったの?」
すらりとした足を優美に組み替え、飛鳥が真っ直ぐにこちらを見た。その視線はいつもよりずっと真剣なもので、思わず目を逸らす。
そういえば、飛鳥に会うのはホテルでの一件以来だ。あれやこれやと記憶の蓋が開きかけ、いたたまれない気分で俯いた。
沈黙する自分に、飛鳥は少し困ったような気配を見せる。
「とりあえず、これを返しに来たんだけど」
身じろぎする飛鳥に、ほんの少し顔を上げた。差し出されていたのは、あの晩忘れてしまったマフラーだった。
「……どうも」
受け取ろうと手を伸ばした際に、飛鳥の指先が触れる。空調はしっかり利いているはずなのに、彼の手は驚くほど冷え切っていた。
「例の彼と何かあった?」
単刀直入な質問にぐっと唇を噛み締める。その反応で彼は納得したように一つ頷いた。それからようやく、いつもどおり穏やかな笑みを浮かべる。
「この間のこと、覚えてるよね?」
「え」
急に話の方向が逸れた。虚を突かれてまじまじと飛鳥の顔を見つめ、質問の意味に理解が追いついた瞬間、頬がカッと熱くなる。
「あ、あの、あれは……」
土壇場で逃げ出したあの夜のことを蒸し返されるとは予想外だった。うろたえながら何とか言葉を探す自分に、飛鳥は笑みを深くする。
「あれ、結構傷ついたんだよね。こっちはその気満々だったわけだし。君が逃げたせいで、あのあと一人でするはめになった」
「あ……」
赤裸々に告げられ、ますます肩身が狭くなった。
「連絡くれるかと思ったのに。君って意外と薄情?」
「あの、ほんとすんません……。俺、自分のことで一杯いっぱいだったんで、つい」
苦しい言い訳はどんどん尻すぼみになってしまう。
「ふうん? 例えばどんなこと?」
飛鳥は組んだ脚の上で頬杖をつき、楽しげに問い掛けてきた。
「どんな、って……」
「君が今、何でそんなに荒れてるのか知りたいんだよね。例の彼と喧嘩でもしたの?」
「ち……」
違う、と言いかけて口を噤む。否定してしまえば、じゃあ何でと追及されてしまうだろう。
美月さんの甘い声が耳にこびりついて離れなかった。思い出すだけで胃の奥が不快によじれる。
きっと今、彼女の顔を見たら、自分は平静を装うことすらできないだろう。嫉妬に染まった感情が暴走し、心無い言葉で傷つけてしまいそうだ。
あんなに優しい女性(ひと)にそんな悪感情を持つこと自体、自分がひどく狭量に思えて嫌気が差す。
(美月さんは何も悪くないだろ……。俺が勝手に、あの人の旦那を好きになったんだ)
「ねえ」
だんまりを決め込む自分に焦れたのか、飛鳥がぐっと身を乗り出してきた。
「話してよ。あの夜のことを少しでも反省してるなら、そのくらい教えてくれたっていいだろう?」
そう言われてしまうと、嫌とは言えない。弦也は長く溜め息をついて、仕方なく打ち明けた。
樛に告白しようと決意したこと、そのタイミングがなく、決心が揺らぎかけていたこと、そして今日の昼間に起きたこともすべて。
飛鳥は途中で口を挟むでもなく、ぽつぽつとした自分の言葉に耳を傾けてくれた。
「……それはキツかっただろうね」
静かな声に温かな同情が込められていた。そのたった一言に、少しだけ救われたような気がする。
不覚にも涙腺が緩みかけ、慌てて目頭を擦った。
「それでショックを受けてピアノに八つ当たりしてたわけか」
「別に八つ当たりじゃ」
「八つ当たりだろう」
反論は瞬時に切り捨てられた。飛鳥は右手で自分の前髪を掻き揚げ、鷹揚に息をついた。そうしていると形のいい眉が露になっていて、いつもよりずっと色気が増す。
不意にあの晩の熱を思い出しかけ、慌てて目を逸らした。弱った心に、彼の艶美さは猛毒としか言いようがない。
「だいたいの話は分かったけど。うーん、どうするかな……」
思案するような目で宙を見つめ、束の間、飛鳥は沈黙した。
ややあって、ちらりとこちらに目を向ける。
「いっそ奪っちゃえば?」
「……は?」
なにを。誰から。
「強引にでも、やっちゃえばいいんじゃないかな。その彼と」
「なっ……」
さらりと放たれた一言に弦也は絶句する。
奪えと言うのか。美月さんから、樛を。
「あんた何言ってんだよっ?」
冗談だとしてもあまりに無神経だ。
(強引にやれだと? ふざけんな!)
本気で気分を害し、真っ向から飛鳥を睨みつけた。だが彼はまったく気にした様子もなく、掴みどころのない微笑みを湛えている。
「だって、このままじゃ埒が明かないだろう? 君は彼のことを想い過ぎて前にも後ろにも進めない」
淡々とした言葉には、先ほどのような温かさは欠片もなかった。さりとて冷たいわけでもない。ただ事実を白日の下に晒そうとでも言うかのような、徹底した容赦のなさがある。
「玉砕覚悟で告白してきっぱり諦めるつもりだった、なんて、言い訳にしてもちょっと現実味がなさすぎるよね。実際君は、その彼に〝好き〟の一言すら言えないまま、夫婦の絆に嫉妬してこの体たらくだ」
何時間もピアノを弾き続け、感情の溢れるままに、自分だけの世界に引き篭もっている。
飛鳥は反論の余地すら与えてくれず、残酷なほど鋭い指摘に息を詰めることしかできなかった。
「ピアノに八つ当たりするくらいなら、その彼に本気でぶつかってみれば? 玉砕覚悟なんでしょ?」
「だ……からって」
強引に組み敷いて、拒絶されろというのは違うだろう。自分はともかく、それでは樛まで傷を負う。
(俺は別に、樛さんを傷つけたいわけじゃない。ただ……)
ほんの一瞬でも、振り向いて欲しいだけだ。それが叶わないと分かっていても、自分の心に諦めがつけられない。
「まあ、無理やりっていうのは君には向かないか……」
本格的に懊悩し始めた弦也は、苦笑する飛鳥の声に顔を上げた。
ことさら穏やかな瞳が自分を見つめている。
「君はあの晩、僕を抱かなかった。正確には抱けなかった。僕じゃ代わりにならないって気づいたんだろう?」
馬鹿にするでもなく、恨めし気でもない、ひたすら可笑しそうな表情で飛鳥は言う。
「いまどきそんな純朴な人間がいるって言うのも信じがたいけどね。早く妥協することを覚えなきゃ、そのうち潰れるよ」
飛鳥はふっと唇の端を歪めて笑った。初めて見るその笑みは、どこか自嘲気味なもので、弦也は僅かに面食らった。
彼の笑顔から感情を読み取ることなどできないと思っていたのに。
だがそれはほんの瞬きほどの時間で、あっさりといつもの表情に戻ってしまう。
「玉砕する覚悟を決めたんなら、さっさと砕けちゃって欲しいんだよね。僕としては」
「……ずいぶん意地の悪いこと言うんすね」
他人事だと思って、と眉をひそめると、飛鳥はあっさりと頷いた。
「まあね。君にはピアノに集中して欲しいんだよ。感情に振り回されないで、君が本来持っている才能を発揮して欲しい」
思いがけない言葉に目を見張る。この男の口から、自分のピアノを肯定するような言葉を聞くとは思っても見なかった。
ずっと昔、まだ小学生だった頃、飛鳥に言われたことがある。「努力や情熱だけでなれるほど、プロの世界は甘くない。才能のない奴はあっというまに蹴落とされるか、自滅する」と。
当時既に、高校生という年齢で世界に名を轟かすプロのピアニストだった飛鳥は、たまたま選考委員に選ばれたコンクールで、一位に輝いた幼い自分にそう言ったのだ。
その言葉を、いつの頃からか痛感するようになった。確かに、努力や、ただ楽しいからという感情だけで結果がついてくるほど甘い世界ではなかった。コンクールに出ても何の賞も取れなくなり、拍手の音もひどくまばらになっていった。
飛鳥が言ったとおり、才能がない人間はあっという間に蹴落とされる。そして、自分は才能がないのだと諦観した瞬間から、自滅の一歩が始まるのだろう。
プロになれる腕前ではない。それは自分が一番よく分かっていた。だからこそ、飛鳥が自分のピアノにそこまで期待をかけてくれていたとは思いもよらなかったのだ。
「俺に、才能なんて、あるんすか……?」
半信半疑で問うと、飛鳥は僅かに目を見張ったあと、憮然とした顔つきになった。
「無自覚って、ときどき本当に腹が立つよね。この国じゃ僕のライバルなんて、君くらいしかいないと思ってるんだけど」
拗ねたような口調にも驚いたが、その呟きの内容にはもっと驚いた。
まかり間違っても、自分が飛鳥(プロ)のライバルになれるはずがない。だが飛鳥はいたって真剣な瞳で言った。
「近頃、君の噂をよく聞くよ。千代田区にある喫茶BARで演奏してるんだってね」
「ど、どうしてそんなこと知ってんですか」
知られて困ることはないのに、どうしてかドキリと心臓が軋んだ。
あの店で働くきっかけになったのはピアノの腕を上げるためではなく、樛がいるからだと見抜かれているような気がして、わけもなく動揺してしまった。
「すごく好評らしいじゃないか。君の心境の変化が演奏に良い意味で影響を及ぼしたんだろうね。でも、さっきの演奏を聞いた限りじゃ、前より酷くなってた」
はっきりと告げられ、自然と肩が下がった。
自分でも気持ち次第で演奏が百八十度変わってしまうことは自覚している。悪い癖だということも。
だが、自分ではどうにもできないことなのだ。
「僕としては、ライバルと認めた人間の無様な演奏は聞きたくない。だからさっさとその彼に振られて、ピアノに集中して欲しいっていうのが本音だよ」
好き勝手言いながら飛鳥はピアノに目を向けた。
「……僕も大概、嫉妬深いな」
小さな独り言が耳を掠める。どういう意味なのか問い出す前に飛鳥が立ち上がった。
「とにかく、僕が言ったこと少しは考えてみて。強引に押し倒したら、案外コロッと落ちてくれるかもよ?」
いつぞや自分も考えたような言葉に弦也は顔をしかめた。
「そりゃ、既婚者じゃなきゃ俺だってそうしてるっすよ」
苦し紛れの言い訳を口にすると、飛鳥は肩を竦めて微笑み、挨拶もなく練習室を出て行った。と、思った矢先に再び扉が開く。
ひょっこりと顔だけ覗かせた飛鳥は満面の笑みを浮かべていた。
「もしも彼に泣かされたら、今度こそ僕のところにおいで。上でも下でも相手してあげるから」
「な、なに言って」
とんでもない申し出に青褪める自分を満足気に見つめ、飛鳥は笑顔のまま立ち去った。
呆然と扉を見つめつつ、飛鳥の言葉をもう一度呻吟する。
確かに、このままつらつら考え込んでいても埒が明かない。強引に押し倒すのは無しとしても、せめて一言〝好きだ〟と伝えてみなければ、飛鳥が言ったように前にも後ろにも進めないままだ。
弦也はコートとマフラーを片手に練習室を飛び出した。
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