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分かってはいたけれど、でも。
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◇
言うと決めてもうひと月が経つのに、その機会がまったくない。午前の授業が終わった弦也は盛大な溜め息をつきながら樛の家へと向かっていた。友人から借り受けた教科書を忘れたため、一旦取りに戻らなければならないのだ。
「あー……なんでこう上手くいかないんだよ」
嘆く言葉が白い吐息に紛れる。
昨日だってバイトはほぼ入れ違い、家にいてもなかなか二人きりで話すチャンスがなく、固く決めた心が揺るぎそうになっている。
(言うって決めただろ。今日こそ、絶対に言う!)
もう何度目かになる決心も、日ごと弱まっているのを自覚していた。このままでは逆戻りだ。
いっそ勢いに任せて言ってしまえればいいのだけれど、さすがにバイト先でほかの人に聞かれるのはマズイし、かといって家で話して美月さんの耳に入ったらと思うとそれも怖い。同性愛という特殊な性癖が、そうでない人間には受け入れがたいものだということは嫌というほど知っている。口にした瞬間、あるいは些細なことで気取られた瞬間、態度を豹変させる人間もいるのだ。
別に、自分に優しく接してくれている美月さんを疑うわけではない。きっと彼女は自分がゲイだと知っても、決して露骨に嫌悪感を示したり、冷たい態度であしらったりはしないだろう。いつものように温和な笑顔で、「そうなの」と頷いてくれるだろう。
ただし、それは自分の好きな相手が樛でなければという前提だ。当然、それがバレれば、いくら温和な彼女だっていい顔はしないだろう。横取りするつもりはないけれど、誰だって心から愛する人が、自分以外の人間に性的な好意を寄せられていると知ったら拒絶反応を示すのは当たり前なのだ。まして二人は永遠の愛を誓い合った夫婦で、そこに自分のような異端者が割り込もうとしたら、どれほどの波風が立つか、想像するだけで尻込みしたくもなる。
この想いを伝えるのは樛ただ一人でいい。拒絶されようと、嫌悪されようと、罵倒されようと構わないから、ただ知って欲しい。この願いが傲慢で無責任なものだということは分かっている。それでも、知って欲しいのだ。
そうでなければ、膨らみ切って破裂寸前のこの心に穴が開く。張り裂けてしまったら、自分は二度と恋をできなくなるだろう。
彼を諦めるためには、どうしても、けじめをつける必要があるのだ。玉砕覚悟で一歩踏み出さなければ、ずっと立ち止まったまま、いずれそこから動けなくなってしまう。
(だから今夜にでも、言わなきゃ……)
出て行けといわれればすぐにでも出て行けるよう、準備だけはしてある。行く当ても、一応見つけてはあった。大学の学生寮に住んでいる友人に、内緒で置いてもらえるように約束を取り付けてある。本当は大学側に許可を求め、審査を通った生徒でなければ寮に踏み入ることも許されないのだが、事情が事情だ。そんな面倒な手続きをしている時間はないし、どうせ数ヵ月後には卒業する身だ。多少の不正は露見しなければ不正にならないというのが持論である。友人にそう言ったら、「危険思想だ」と本気で顔をしかめられたが。
とにかく、いつでもあの家を出る準備は整っている。あとは樛に話すだけ……なのだが。
なにぶん、そんな話を切り出すタイミングがない。特に家では。
美月さんは最近、恐縮するほど気を回してくれている。帰りが遅ければ母親のように心配してくれるし、自分のために朝夜のご飯と、大学用にお弁当まで作ってくれてもいた。
『弦也君はもう私の家族でしょ?』
屈託ない笑顔でそう言ってくれる彼女の優しさに、正直頭が上がらないのだ。
それなのに自分は、そんな美月さんの純粋な好意を心の一部で裏切っているような気がして、いたたまれない。
一刻も早く決着をつけて、あの二人から離れなければ。
だが、そんな焦りが強くなればなるほど、またぞろ弱気が顔を出すのだ。別に言わなくてもいいんじゃないか、わざわざ波風立てなくても、このまま家を出ればそれで万事円満に解決するのでは、と思考が一巡して元の木阿弥になってしまう。
知って欲しいという勝手な願いとは裏腹に、卑怯な自分は傷つくことを心底恐れている。正確に言えば、誰かを傷つけることで、自分が醜い人間だと再認識してしまうことを恐れているのだ。
万が一にでも二人の絆に亀裂が入るような結果になったら。そう考えると、自分の決意がどこまでも悪辣なものに思えてくる。まるで自分の首を自分で絞めるようなものではないか。
言わなければそれでいい。けれど、伝えたい。考えすぎたせいか、どうしていいのか分からなくなり始めていた。
この程度で揺らぐような決心だったのだろうか。
もしも樛がこんなひ弱な思考を知ったら、『甘えてんじゃねぇ』と拳骨を食らわせてくるだろう。そんなことを思い、一人で笑った。
少し思い出しただけで、ギュッと心臓が痛む。恋心は末期症状なのかもしれない。
「俺ってほんとに馬鹿だよな……」
コートのポケットに両手を突っ込み、首を竦めて向かい風に耐えた。日中とはいえ、外気温は十度もない。身を切るような冷たい空気は、身体の芯から熱を奪っていくようだ。
マンションに到着し、エレベーターに乗り込む。あと何回これに乗れるだろう。あと何回、ここに来られるだろう。あと何回、樛と話ができるだろう。そんな女々しい考えが次々と頭をよぎり、ふっと息を詰めた。
預けられている鍵をポケットから取り出し、鍵穴に差し込んだ。こんな大事なものを渡してくれているという事実が、そのまま、二人が自分に置いてくれている信頼の強さと重さを伝えていた。
自分には下心しかなかったのに。チリっと胸を焦がすような罪悪感とともに扉を開ける。玄関には美月さんの靴が丁寧に揃えて置かれていた。そのことが意外で、数秒固まってしまう。てっきり仕事に行っているものと思っていたからだ。
今このタイミングで美月さんと顔を合わせるのはほんの少し罰が悪い。いろんな不安と迷いが頭の中をぐるぐるしているせいで、きっと相当に情けない顔をしているのは間違いないし、時折ぞっとするほど鋭い彼女に「どうしたの?」と追究されたら、言う必要のないことをポロリと口零してしまいそうだ。
だから弦也は足音を忍ばせて一直線に自分が寝泊りしている部屋を目指した。教科書だけ取って、美月さんに見つかる前に出よう。そう考え、廊下を摺り足で進む。美月さんが出てきませんように、と心の中で念じていた。
その願いが通じたのかどうか、彼女が出てくることはなかった。ただ、聞いてしまった。
夫婦の寝室から微かに聞こえてくる甘い声を。
危うく鞄を取り落としそうになった。脳天をぶん殴られたような衝撃に、しばし呆然と立ち尽くす。
そういえば、玄関に靴はなかったが、樛だって仕事は夜からなのだ。今ここにいないと油断していたのは、いて欲しくないという自分の勝手な願望でしかなかった。
弦也はショックのあまり暗くなる視界を懸命に凝らし、手のひらで口を覆った。自分が何かを叫び出す前に、ゆっくりと後退する。そしてそのままマンションを飛び出した。
(そりゃ、夫婦だし。そういうことすんのは当たり前だろ)
頭で幾度となく自分に言い聞かせながら、がむしゃらに走った。鋭利な刃物を持って追いかけてくる自分の感情から逃れるため、目的地も定めず無我夢中で走り続けた。
二人の仲を邪魔するつもりはない。したくもない。けれど……。
(あれはいくらなんでも反則だろ……っ)
目尻の端に浮かんだ涙が冷たい風にさらされて、急速に体温が下がる。心臓までもがガタガタと震えているようだ。
樛はどんな顔で彼女を抱いていたのか。想像するだけで脳が焼き切れそうだった。嫉妬。嫉妬。嫉妬――。ドロドロと不快な音を立てて増大する一つの感情を身体から追い出したくて、溢れる涙もそのままに、ひたすら走った。
裏切られたなんて、被害妄想もいいところだ。ただ自分が勝手に樛を好きになって、うだうだと悩んだ挙句、たった一言の本心も告げなかった。そのツケがこれだというなら、神様を恨む資格なんてまるでない。もちろん、樛のことも。
走り続けて息が切れた頃、結局教科書を忘れたことに気づいたが、もうどうでも良かった。どの道、二度とあの家には行けない。
弦也は立ち止まって、ゼイゼイ鳴っている喉を諌めるため肩で大きく呼吸した。ここがどこなのかなんて、今はどうでもいい。
いつの間にか涙は止まっていた。一度だけコートの裾で目尻を拭う。
あの二人は幸せなのだ。最初から自分の存在だけが不必要だった。当然だ。いくら受け入れられ、馴染んだつもりになっても、結局自分はあの二人の家族ではない。
所詮他人だ。出会った瞬間から、別れることが決まっている存在同士だった。
弦也は俯きがちに歩き出す。こんな心細く物悲しい思いをしたのは、あの火事の晩以来だ。どこにも帰る場所がない。
ともすれば崩れ落ちてしまいそうな足を叱咤しながら、弦也は当てもなく歩き続けた。
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