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『冷たくて、優しい手』
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なんだろう、少し頭が痛い。
(疲れてんのかな?)
大翔はちらりと首を傾げ、すぐに気のせいかと思い直す。口元を緩ませて足早に向かうのは、慧のマンション――今日から我が家と呼べるその場所だ。
瀟洒なつくりのエントランスを抜けて、一直線にエレベーターを目指す。小さな箱の中に乗り込むと、手に提げた紙袋から芳しい香りが漂った。
「慧さん、気に入ってくれるかな」
引越しのお礼として買ってきたのはコーヒー豆だ。銀座にあるブランド店に一時間ほど並んで手に入れたものだが、果たして慧はどう反応するだろうか。
わくわくしながらエレベーターを降りて、慣れた仕草でインターホンを押した。
「はい、ああ……」
すぐに玄関が開き、私服姿の慧が現れる。その姿を見ただけでじわっと胸が温かくなるのだから、本当に不思議だ。
ただ、今日ばかりはいつもと違う。慧の左頬に痛々しく湿布が貼られているのを見て、無意識に手を伸ばした。
「慧さん、ただいま」
冷たい頬を撫でながら、ふわりと笑ってそう口にする。
〝ただいま〟なんて台詞を、この人に言える日が来るなんて思っても見なかったけれど。
「……お帰りなさい」
そんな返事を微苦笑で返してもらえたことの方がずっと嬉しい。頬に添えたこちらの手に、慧が自らの手を重ねてくれたことも。
大翔は上機嫌で我が家へと上がり、ふと目を丸くした。
「あれ、なんかいい匂いする」
食欲をそそるような。これって――。
「もしかして、夕飯作ってくれたのっ?」
「ええ、まあ。大したものじゃありませんけど」
ぞんざいな肯定に心が沸き立った。慧の手料理なんて初めてだ。
リビングに入ってテーブルを覗き、思わず大歓声を上げる。
「おでんじゃんっ!! オレの大好物!」
「そうですか」
それはよかったですね、とそっけない頷きを見せる慧はいつものとおり無表情だ。
「ご飯はどのくらい食べます?」
「並みでいいよ。メインはおでんだもん」
「からしは?」
「いるっ!」
洗練された動きでキッチンとテーブルを行き来しながら、手早く食卓を整えている。
「慧さんって、料理得意なんだ」
大翔はさっそくテーブルに腰を落ち着け、慧の姿を目で追いかけながらしきりに感動していた。
「別に、得意と言うほどではありませんよ。ただ、最低限の家事を必然的に覚えただけです。一人暮らしも十年を越えましたからね」
さらりとした答えに小さく微笑みを返す。十年越え、ってことは、高校生のときからずっと一人で生きてたんだ。ずっと独りで、平気な顔をして。
だけどさ、慧さん。
大翔は薄く微笑み、小首を傾げて慧を見つめる。
「それも今日で終わりだね?」
寂しいのは、もう終わりだよ。これからはずっとオレが傍にいるんだからさ。
そんな胸中の囁きは、面白いことにちゃんと届いたらしい。慧は小さく目を見張ったあとで、ふっと表情を穏やかにした。
「そうですね」
苦笑交じりに笑っていても、もう知っている。慧は嬉しいと耳が赤くなるのだ。
(たぶん、自覚してないよなぁ)
分かりやすくて可愛いけれど、年上の慧にそんなことを言うのはとてもマズイ。急速に不機嫌になって、しかめ面で怒り出すから絶対に黙っていなければ。
「慧さん、もしかしてあんまり食欲ない?」
ものすごく美味しいおでんなのに、慧は箸を進める速度が異様に遅かった。気になって問いかけると、視線が合った。
「そういうわけではないんですが……」
珍しく歯切れの悪い口調で慧が言いよどむ。
「その、……口の中が切れていることを忘れてまして」
「え、し、沁みるのっ!?」
「まあ、多少は」
端的な返答にあわあわしてしまった。そりゃあれだけひどい痣なのだ。口の中だって無傷なはずがなかった。
「っていうか、なんで忘れてたのっ!? 冷たいものの方がよかったじゃんか」
こんな熱々のおでんじゃ、余計沁みるに決まっているのに。
慌てふためく自分に慧は冷静な視線を向けてくる。
「この寒い季節に冷たいものなんて食べたくでもありませんよ。別に食べられないほど痛むわけではありませんから、大げさに心配しないでください」
「でも、だってさ、」
「君もいい加減しつこいですよ。私が平気だと言ったら平気なんです」
鬱陶しげに眉を寄せられたところで、安心できるわけがない。慧の言葉は全部信じたいところだけど、彼が自分自身に対して口にする〝平気〟と〝大丈夫〟だけは信用ならないのだ。
平気な顔をして、いろいろなことを諦めている人だから。
「やっぱりオレ、薬買ってくるよ。薬局ってまだ開いてるかな」
壁際の時計を確かめればまだ午後八時半――駅前のドラッグストアなら開いているだろう。
そう思いながら腰を浮かせると、慧は小さく舌打ちを零した。
ぎょっと、動きを止める。普段から礼儀にうるさい男の舌打ちほど、恐ろしいものはない。
「あ、い、いらない……?」
「ええ、そう言いました。ちゃんと聞こえていたようですね」
背筋が寒くなるような冷笑を向けられ、大翔は口元をきゅっと引き結ぶ。自分がかなり情けない顔をしているのは間違いなかった。
(聞こえたのは舌打ちだったよ……?)
そんな言葉を唾と一緒に飲み下し、すごすごと腰を戻す。あとはもう、黙々とおでんを食べるしかなかった。戦々恐々、慧の顔色を窺いながら。
過剰に心配すると、怒られる。気難しい恋人の癖を一つ身体に刷り込んで、大翔は密かに溜め息をついた。
食事を全て平らげたあとでも慧は無表情のままで、それ自体はいつものことなのに、妙にそわそわしてしまう。まだ怒ってるのかな、と顔色を窺ってみたところで、鉄仮面のような無表情から胸中を読み取るのは不可能としか言いようがなかった。
「あ、あのさ、慧さん」
とりあえず、おっかなびっくり声を掛けてみる。
「なんです?」
抑揚のない視線と声音に心を折られる前に、そっと紙袋を差し出した。こんなご機嫌取りみたいな渡し方をする予定じゃなかったのに、とちょっぴり残念に思うが、仕方ない。
「これ、引越しのお礼っていうか、プレゼント……」
「あ、」
ソロソロと差し出した紙袋を見て、慧は目を見張った。ブランドマークから中身を見抜いたらしい。
「〈アムル〉のコーヒー豆じゃないですか。わざわざ並んだんですか?」
「うん。慧さん、コーヒーは好きでしょ?」
バレンタインの一件で甘いものが苦手なのだと知ったため、間逆のものを買ってきたのだった。
「それはどうも」
反応は予想以上に良好だ。慧は紙袋から豆を取り出し、それがセレクションパックだと知って顔を綻ばせる。五種類の豆がそれぞれカラフルなパッケージで詰められたギフト用なのだ。
「君にしてはいいチョイスですね。ありがとうございます」
ホクホクした笑顔で褒められ、ようやく大翔は肩の力を抜いた。飼い主のお許しが出たことで、自然と口元が緩む。
慧はすぐさま箱を持ってキッチンへ移動し、食器棚からコーヒーミルを取り出した。どうやらさっそく飲むつもりらしい。
「熱いのダメなんじゃないのっ?」
「コーヒーに罪はありません」
慌てて肩口から手元を覗き込むが、慧は既にパックを一つ開封して豆をミルに落としていた。手動のハンドルを軽快な手つきで回している。
「ああ、いい香りですね。さすがブランド物は違う」
本当に、本当に珍しいことに、慧は今にも鼻歌を歌い出しそうなほど上機嫌だ。
(うん、まぁ、いっか……)
ここまで喜んでいるのに、やめておいたら、なんて口にして機嫌を損ねる必要はない。というか、絶対にムリだ。今度は舌打ち一つじゃ許されないだろう。
もはや止める手立てはないので、ヤカンを手に取った。
「オレ、お湯沸かすね」
「ええ、お願いします。君も一杯飲みますか?」
「ううん。オレはココアでいいや」
苦いものは得意じゃない。かといって根っからのコーヒー党である慧の前でミルクやシュガーを投入すると露骨に眉をひそめられてしまうから、大人しく甘いだけのココアを飲むのが常だ。
その返答は大方予想がついていたらしく、慧は小さく苦笑して「そうですか」と頷いている。
どうあれ、慧を喜ばせることに成功したのだ。それだけでくすぐったいほど嬉しくなった。
やっぱり気のせいじゃない。そう気づいたのは深夜近くになってからだ。
風呂に入ってリビングのソファでまったり読書をしていたのだが、刻々と頭痛がひどくなっていた。気のせいか悪寒まで感じ始めている。
(ヤバ……風邪引いたかも)
頭がぼんやりして文字が入ってこない。ふと肘先が隣の慧に触れ、同じタイミングで視線を交わらせた。
いつもそうするように柔らかく微笑みかけてみたが、慧は微かに眉をひそめてこちらの顔を注視している。
「顔色、悪くないですか」
「え、そう?」
すっとぼけて首を傾げながら、内心で冷や汗を搔いていた。マズイ。
「もしかして、病院で風邪をもらったんじゃ――」
「そ、そんなわけないってっ。大丈夫だよ」
あれほど〝先に帰れ〟と言われて帰らなかったのは自分だ。これで風邪などもらっていたら、間違いなく叱られる。
が、取り繕った傍からくしゃみが出てしまった。小さく身体を震わせると、慧がサッと顔を強張らせる。
ひんやりした手のひらが額に触れた。
「やっぱり……熱が出てるじゃないですか」
低いトーンで言われて、きゅぅ、と心臓が縮まった。これは怒られる。絶対に怒られる。
「君、病院を出たあと手洗いとうがいをしなかったんですか」
ジロリとした視線に、無言の肯定を返すしかない。すっかり忘れていたのだ。
慧の目つきがますます険しく眇められていく。
「だから、あれほど〝先に帰れ〟と言いましたよね?」
案の定、その言葉だ。
「……ごめん」
「健康体の癖に、あんな雑菌の温床じみた空間に長居するなんてどうかしてますよ。手洗いさえ怠るなんて、いっそ非常識です。まさかとは思いますが、わざわざ風邪をもらいに行ったんですか?」
「そ、そんなわけないじゃんっ」
「結果としては同じことです。……まったく、楽観主義にも限度を設けてくださいよ」
刺々しい言葉に悄然と俯く。心配してくれているのか、ただただ怒っているのか、分からない。けれど、これは完全に自分の落ち度だ。
「ごめんね……。やっぱりオレ、今日は帰るよ。慧さんに移しちゃいけな――」
「なにを馬鹿なこと言ってるんですかっ!!」
唐突に大きな声で怒鳴られ、びっくりして目を見開く。慧がこんな声を出すなんて思わなかった。
「そんな顔色でどこに帰るつもりなんですかっ。君の家はここでしょうっ!」
うわぁ、と思った。なんて嬉しいことを、なんて厳しい口調で断言してくれるのだろう。
こういう人だから。確固たる厳しさと、その内側にある無意識の優しさで、いつでも自分を思い遣ってくれるような。
こんな人だから。
「うん……ありがと」
好きで仕方ないのだ。
「お礼なんていりませんっ。いいから早く寝なさい」
なんだかちょっと感動していると、慧は寝室を指し示してきっぱりと厳命してきた。
「はーい……」
本当はもう少し隣にいたかったけれど、そんな顔で言われては大人しく従うほかない。大翔はとぼとぼ寝室を目指しつつ、口元を緩めた。
怒ってくれるのは、オレのためなんだ。そう思うと嬉しくて、少しばかり自惚れてしまってもしょうがない。
オレは慧さんの〝特別〟だよね?
心の中で問いかけて、慧の匂いに満ちたベッドに潜り込む。今夜から、ここが自分の寝床なのだ。
しばらく毛布に顔を埋めて深く息をしていると、小さな音を立てて寝室の扉が開いた。
「秋村君、寒いようならエアコンの温度上げますけど、どうします?」
「ううん……いい」
それより、隣に来て欲しい。そう口にしようとして、やめた。風邪をうつしてしまったらとんでもないから。
「そうですか」
なのに、慧はためらいなくこちらに近づいて、そっと額に触れてきた。冷たくて優しいその手のひらに、ふと薄く目を開ける。
吸い込まれそうなほど黒い瞳が自分を見ていた。とても心配そうな顔で、窺うように。
「慧さん――」
キスして欲しい、と。そう思った瞬間、唇が重ねられた。言葉なんかなくても、伝わってしまったのだろう。自分たちの心はあまりにも重なりすぎているから。
触れるだけ触れて、あっさりと離れていく温もりが恋しい。
「しっかり休んでください。……今日は、色々とありがとうございました」
そんなの、お礼なんかいいのに。病院に付き添ったのはつまるところ自己満足で、結局こうして慧を気遣わせることになってしまった。
「あまり熱が上がるようだったら、明日病院に行きましょうね」
今度は立場が逆になったらしいと、微笑む慧を見て思った。駄々を捏ねても、きっと引きずられるようにして連れて行かれるだろう。
「……絶対、すぐ治すもん」
気力で治してやる。そして明日には元気になって、この人を思いっきり抱き締めて、それから――。
冷たい指先に前髪を避けられ、そっと笑って目を閉じる。
「お休みなさい」
その柔らかな声を聞いた瞬間、眠りに落ちた。
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