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難は去っても、まだ続く
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◇
新学期は順調に進んでいる。爽太は学級名簿を片手に勢いよく教室の扉を開けた。
「おはよう皆」
「おはようございまーす」
口並み揃った挨拶が心地よく響くと、自信を持って教壇に上がれる。今日も菊谷は出張だ。来年の五月に控えている修学旅行の下見に行っているらしい。そのため菊谷だけでなく、学年主任の久古も、四組の担任である中村もいなかった。
またあの二人の組み合わせだというのは気になるが、あえて深く考えないことにした。
教壇の上から視線を巡らせ、生徒の様子を確認する。ちらりと視線が合ったのは、長かった髪をすっぱりと切り落とした里中亜美だった。
あの金髪を元の黒髪に戻した亜美は、思い切ってイメチェンをしたのだと新学期初日にこっそり耳打ちしてきた。照れたように赤く染まった頬は以前よりずっと子供らしく見え、同時に微笑ましかった。
亜美はこちらと目が合った瞬間、ほんのりと頬を染めて俯く。最近いつもこんな調子だが、心配しなければならない様子でもない。あの子はもう大丈夫だろうと微笑み、視線を移す。
教室の後方で読書をしている三沢友二とは、あの路地裏での一件があった翌日に話をした。野口たちに絡まれたのは塾帰りの電車の中だったと言う。満員に近い車内で参考書を読んでいたとき、不意にバランスを崩してよろめき、野口にぶつかったらしい。因縁をつけられ、あの路地裏で金を要求されたのだ。
友二はあの日以来、怖くて電車に乗れなくなったらしく、最近の塾通いには専ら母親の車で送迎してもらっていると聞いた。
久古に懲らしめられた野口たちが逆恨みで友二に手を出さないとも限らない。しばらく警戒するに越したことはないだろう。もちろん、自分にできることがあるのなら何でもするし、友二にもそう伝えてある。
友二はふと視線を上げ、こちらを見た。生真面目な顔つきはこの夏で少しだけ大人びた。
『僕、もっと強くなります。困ったときは誰かに助けを求められるように』
以前よりもはきはきと喋るようになった友二のその言葉は、きっと久古が教え諭したものなのだろう。やはり自分は久古に敵わない。そう思いながら友二に微笑みかけると、彼もまた口元に笑みを浮かべた。
「せんせー、早く出欠取ってよ。もう皆座ってんだろ。何待ってんだよ?」
谷村直人が急かす。海好きな父親に付き合って、夏休み中サーフィンに興じていたと話した直人は、真っ黒に日焼けした顔に人の悪い笑みを浮かべていた。慌てて名簿を開き、しまったと顔を歪める。
「悪い、これ五組の名簿だった……ちょっと取り替えてくるから皆待っててくれ」
「えー、せっかく座ってやったのによー」
水を得た魚のように直人が生き生きとこちらを非難してくる。悪意には程遠い瞳に苦笑が漏れた。
「ってか先生が一番夏休みボケしてんじゃん」
直人の言葉に皆が声を上げて笑う。直人は多分に満足気な顔をして椅子の脚を浮かせていた。相変わらずこちらをからかって遊ぶのが楽しいらしい。
やれやれと苦笑を零しつつ教室を出る。ちょうど五組の担任である今泉が名簿を片手にこちらへと向かってきていた。目が合うと彼女は名簿を掲げて朗らかに笑う。
「夏井先生、これ間違えたでしょう」
「ああ、はい。すみません」
恐縮しつつ名簿を交換した。とにかくこれでホームルームに戻れる。
「あ、そうだ」
一安心した自分に、今泉が思い出したように声を掛けてきた。
「芦田君、学校に来たわよ」
「えっ」
その言葉に驚いて思わず声を上げる。芦田というのは、今年に入ってから一度も登校して来ていなかった芦田陸斗のことだろう。まだ会ったこともない生徒だが、入学式の時の写真で顔だけは知っている。ぽっちゃりとした体格の温和そうな生徒だ。
一学期の間に菊谷と連れ立って何度か家庭訪問をしたが、結局一度も会うことは叶わなかった。
その彼が学校に来たという。
「今、どこにいるんですか?」
ぜひとも会っておきたい。そう思って今泉に問いかけると、彼女はふと表情を曇らせた。
「今は保健室にいるわ。でも、ちょっと心配なのよね……」
呟いた今泉は、本当に心配そうな表情でこちらを見る。
「会えば分かると思うけど、あんまりびっくりしないであげてね」
その言葉の意味をよく理解できないまま、曖昧に頷いた。とにかく、後で会いに行こうと決め、今泉と別れて教室に戻った。
ホームルームを終え、早速、一時限目の空き時間に保健室を訪ねることにした。
「失礼します」
「あら、夏井先生」
養護教諭の白川が朗らかな笑みで迎えてくれる。芦田陸斗に会いに来た旨を伝えると、彼女は視線をソファに向けた。保健室登校をしている生徒たちが数人、机に教科書やノートを広げて自習している。
「芦田くーん、副担任の夏井先生がいらっしゃったわよ」
白川の呼び掛けに、一人の生徒が鷹揚な仕草で顔を上げた。
(え……、あの子が芦田陸斗なのか?)
ほんの一瞬、言葉を失う。
「……どうも」
低くくぐもった声で言いながら頭を下げた生徒は、写真で見た芦田陸斗とはまるで別人のようだった。ぽっちゃりと肉付きの良かった身体は枯れ枝のように細くなり、頬もげっそりとこけている。疲れ切った瞳でこちらを値踏みし、陸斗はゆっくりと瞬いた。
「僕に何か用ですか?」
病的なほど青白い顔に無表情を浮かべた陸斗は、決まり文句を口にするかのような平坦さで問い掛けてくる。
今泉が驚くなと言った理由が分かった。あの写真で見た芦田陸斗と、今この場にいる芦田陸斗は別人と言っていいほど様変わりしているのだ。見た目も、恐らく内面も。
下手を自覚しながらも笑みを繕い、陸斗に近づいた。
「初めまして。今年度から二年二組の副担任をしています、夏井です」
無難に自己紹介から入るが、陸斗は興味なさそうにこちらを見つめるだけで、何も反応を返して来ない。
「君の家にも何度か伺ったんだけど、なかなかタイミングが合わなかったよね」
距離感を窺いつつ話し掛けるが、やはり陸斗は無反応だ。どう接すればいいのか、早くも分からない。
「僕に何の用ですか?」
冷たい口調で再度問われ、繕った笑みが凍りつく。頑なに拒絶の意思を感じる態度だ。
「用って言うか……会ってみたくて」
正直に答えると、陸斗は小さく息を吐き出した。小馬鹿にするような色を瞳に浮かべる。
「ならもうお会いしましたよね。それ以外の用件がないなら、僕は勉強に戻りたいんですけど」
「ああ……そっか。邪魔してごめんな」
取り付く島もないとはこのことだ。ここはいったん身を引くしかないと判断し、爽太はそれ以上踏み込むのをやめた。
「また来るから、勉強頑張れよ」
一応教師らしいことを口ずさみ、撤退する。陸斗は興味が失せたと言わんばかりに視線を落とし、二度とこちらを見なかった。
保健室の扉を後ろ手に閉め、溜め息をつく。とっつきにくいとか、そういう次元ではなかった。生徒からあんなに徹底した拒絶を受けたのは、もしかしたら初めてかもしれない。
(まあ、仕方がない……よな)
自分は芦田陸斗のことを何も知らないのだ。以前の彼がどんな生徒だったのかも知らないし、なぜ不登校になったのか、その理由も分からない。副担任とはいえ自分が受け持つクラスの生徒なのに、何も知らないなんて無責任にも程があるだろう。
そんな教師に、心を許せるはずもない。
職員室に戻りながら、陰のある横顔を思い浮かべる。あれは何か、のっぴきならない事情を抱えているに違いない。
(やっぱり、いじめなのか?)
二組の生徒たちがそんなことをするとは思えない。否、思いたくない。けれど。
人は容易く人を傷つける生き物だ。その事実は嫌と言うほど骨身に染みている。生徒だって人間なのだ。ほんの些細な行き違いや誤解が決定的な決裂の原因になってしまうこともあり得る。
とにもかくにも、知らなければならない。芦田陸斗と言う生徒のことを、もっとちゃんと。
職員室に戻り、片付けなければならない雑務に取り掛かりながらも、頭の片隅にはずっと陸斗の顔がちらついていた。
放課後にもう一度保健室を訪ねたが、陸斗は既にいなかった。白川の話では給食の前に帰ってしまったらしい。
「明日も来ますかね?」
「さあ、どうかしら。でも、勉強が遅れているの、本人は気にしていたから、来るかもしれないわね」
白川は眼鏡の縁を押し上げながら言う。尖った顎先と釣り上がり気味な瞳のせいで一見神経質そうに見えるが、彼女は外見とは裏腹に案外さっぱりとした性格をしている。つかず離れずの距離を保つのが上手いため、悩みを抱える生徒は大抵、彼女を相談役に選ぶのだ。
「あの……」
白川なら、陸斗が抱える悩みが何なのか知っているのでは。そう考え、思い切って訊ねてみた。
「芦田陸斗君って、どんな生徒なんですか?」
「んーそうねぇ……」
恥を忍んでの質問に、白川は小首を傾げて難しい顔をする。
「あの子、前はあんな感じじゃなかったのよ。もっとこう……気さくって言うか、誰とでも仲良くなれちゃうタイプの子でね」
品行方正で、誰にでも優しい。それが以前の芦田陸斗だったらしい。少なくとも、今日のように、他人に対して冷徹な態度を取ることはなかったと言う。
「礼儀正しくはあったけど、あそこまで慇懃な態度を取る子じゃなかったわね」
「そう、ですか」
白川の言葉に肩が落ちる。
「俺、完全に嫌われてましたよね……」
「まあまあ。そんなに落ち込まないの」
白川は諭すように苦笑して、穏やかな目をこちらに向けた。
「学校に来なかった理由、あたしもそれとなく聞いてみたんだけど、『先生には関係ありません』って突っぱねられたわ」
微苦笑に一抹の寂しさを乗せ、白川は溜め息に近い吐息を洩らす。
「関係ないなんて言われちゃうと、もう何も聞けないのよね」
強引に踏み込めば踏み込むほど遠ざかる。芦田陸斗のような生徒と接するには、時間と根気が必要なのだと白川は言った。
「でも、彼が学校に来たのは確かな進歩だと思うの。しばらくは保健室登校ってことになると思うけど、彼が自発的に登校して来たなら、教室に戻れる日も遠くはないかもしれないわ」
だから気を落とさないでと励まされ、ほんの少しだけ心が軽くなった。やはりこの空間と彼女の雰囲気は悩みや弱音を吐露するにうってつけなのかもしれない。
「ありがとうございます」
素直に礼を述べ、
「もし芦田君から何か聞いたら、教えてもらってもいいですか」
そうお願いした。
「ええ。本人が教えてもいいって言ったらね。一応プライバシーは守る主義なの」
白川は温和な瞳に確固たる信念を宿しながら、穏やかに頷く。
芦田陸斗が抱える悩みを知るには、相応の時間がかかるだろう。焦らず、ゆっくりと歩み寄っていけば、いつかは心を許してくれるかもしれない。
爽太は自分にそう言い聞かせ、一人拳を握り締めた。
しかしその日以降、芦田陸斗は再び学校に来なくなった。
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