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青天の霹靂
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◇
「寒っ」
爽太は自分の腕をさすりながら呟く。ワイシャツの上から厚手のセーターを着込んでいるが、まだ寒い。
十月も半ばになり、衣替えの季節を迎えた。朝晩の冷え込みは既に冬と言っていい。
職員室の暖房を切りながら、窓の外をぼんやりと眺める。まだ六時を少し過ぎたばかりなのに、既に深夜と見紛うほど暗かった。本格的な冬が来るんだなと思い、うんざりと溜め息をつく。寒いのは苦手だ。
「夏井先生、そろそろ皆出ますよ」
ガラリと開いた扉から今泉が顔を覗かせる。
「あ、はい。今行きます」
コートを手に取り、電気を消して扉を施錠した。今日は職員一同で、産休に入る教師の送別会をする予定なのだ。
職員玄関で靴を履き替え、外に出る。既にほとんどの教師は自分の車で会場の居酒屋に向かったらしい。集まっているのは電車通勤をしている教師数名だけだ。
「遅ぇぞ。クソ寒ぃんだから待たせるなっての」
「すみません」
奥園の愚痴に謝罪を返し、彼が所有するワゴン車に乗り込む。十人乗りの大型車は後部座席のシートが二列あり、最後列のシートに久古の姿があった。
ちらりと視線を向けられ、思わず目を逸らす。久古とはあの夜の以来、まともに話していない。機会がなかったというのもあるが、正直どういう顔で接すればいいのか分からないのだ。
あえて久古とは違う列のシートに乗り込んだ。
「揃ったな? んじゃ出発すんぞ」
奥園が言い、ゆっくりと車が進み出す。だが、ゆっくりだったのは最初だけだった。
奥園の運転はとにかく荒かった。自分をレーサーか何かと勘違いしているのではと思うほどだ。ぐわんぐわんと大きく揺れる車内に、乗車していた教師たちは青褪め、会場に着く頃には皆ぐったりと乗り物酔いになっていた。唯一平然としていたのは久古だけだ。
ただしその久古でさえ、会場に着くまではいつもの無表情を心なしか不快そうに歪めていた。
「大丈夫か?」
ふらつく脚で車から降りた自分に、久古が同情的な視線を向けてくる。
「だ、大丈夫……じゃない、かも」
これから酒を飲むのに、早くも胃袋が大荒れだ。口元を押さえて首を振ると頭までぐらぐらと揺れた。気持ち悪い。
「だっらしねぇなぁ」
奥園が呆れたように笑い、思わず恨みがましい視線を向けてしまう。二度とこの男が運転する車には乗らない。
「お前のせいだろう。もっとマシな運転はできないのか」
久古は淡々と奥園を咎めつつ、そっと自分の背中を擦って来た。妙に優しいその仕草があの夜の触れ合いを思い起こさせ、急激に体温が上がる。思わず逃げるように身を引くと、久古は何も言わず手を離した。
それを一瞬でも寂しく思った自分は、どうかしてしまったのではないだろうか。
「早くしろって。皆待ってんぞー」
奥園の急かしに、青褪めていた教師たちがのろのろと動き出す。久古は無言のうちに自分から離れ、さっさと店に入って行ってしまった。
爽太は少し遅れてに店に入り、女将の案内で大広間に足を踏み入れる。既にテーブルの上にはずらりと見目麗しい料理が並べられ、皆がそれぞれ和気藹々と雑談に興じていた。
大学時代に友人たちと赴いた居酒屋などとは格が違う内装に圧倒されつつ、最も下座の席を選んで腰を下ろす。テーブルの下は掘りごたつになっていた。正座の必要がない上に暖かい。なんて至れり尽くせりなんだろう。感動しながらお絞りで手を拭いた。かじかんだ指先がほんのりと温まった頃、
「さて、皆さんおそろいのようなので、そろそろ始めたいと思います」
校長の音頭で送別会が始まった。彼の長い前置きを聞き流し、主役の挨拶に耳を傾ける。
「私は今、この子が無事に生まれてきてくれることだけを心から願っています」
今年二十八になる彼女は、大きなお腹を愛おしそうに撫でながらそう締めくくった。盛大な拍手に微笑む温かな瞳は、既に立派な母親のそれだった。
(母親……か)
チクリと旨が痛んだのは、決して気のせいなどではない。
ただひたすらに子供の幸せを願う。それが母であり、親なのだ。本来はそうあるべきで、けれどそうじゃない母親もいるということを自分は知っている。
無意識に視線が久古に向いた。だいぶ離れた席に座っている久古は、いつもどおり感情のこもらない瞳で上座の彼女を見ていた。
母親に苛まれた過去を持つ男は、今どんな気持ちで彼女の言葉を聞いたのだろう。
乾杯の合図でビールジョッキを傾け、喧騒に紛れて俯いた。楽しげな笑い声がどこか遠く感じる。
久古が気にかかって仕方がなかった。最近、ずっとこんな調子だ。近くに彼がいれば、無意識に視線がその姿を追っている。今もそうだ。
爽太はこっそりと久古の横顔を盗み見た。久古は酒に強いのか、かなりのピッチで黙々とグラスを空にしていく。その隣でほんのりと頬を染めた中村が楽しげに微笑んでいた。
(またミス・マドンナと一緒か……)
近頃、やけに一緒にいることが多いように思う。目につくたび言いようのない不愉快さが込み上げ、つい目を逸らしてしまう。
久古は中村をどう思っているのだろう。
(って言うか、俺のことはどう思ってんだろ……)
あの夜の出来事は、まるで幻か何かだったかのように、見事にスルーされている。自分が意図的に避けているのは認めるが、だからと言って何事もなかったかのように坦然と接してくる久古に納得がいく訳ではない。
全て忘れろと言ったあの言葉は、久古の望みなのだろうか。
忘れて、なかったことにすればいいのか。そんなこと――。
(できるわけないだろっ)
こっちばっかり振り回して、何もなかったみたいに接してくるのは卑怯だ。
「何だお前、全然食ってねぇじゃねぇか」
奥園の声に、潜り込んだ意識を浮上させる。箸を構えたままぼんやりとしていたらしい。
「暗ぇ顔してねぇでもっと食えよ。会費払ってんだろが」
せっつく言葉に曖昧な笑みを返す。
「……あんまりお腹空いてなくて」
「勿体ねぇなぁ」
そう言われても、車酔いのせいもあってなかなか箸が進まないのだ。
「ったく、食わねぇならオレが食っちまうぞ」
「どうぞ」
本気で料理を差し出すと、奥園は眉間にしわを寄せる。どうやら冗談のつもりだったらしいが、今の自分では到底片付けられないのでぜひとも食べて欲しかった。作ってくれた人に申し訳ない。
「マジで大丈夫かお前」
しぶしぶといった様子で料理に箸を伸ばしながら、奥園が問い掛けてくる。曖昧に頷いて誤魔化した。
「ひょっとしてお前もあれか? 美代子ちゃんに気があんのか?」
飲みかけたビールに噎せる。
「ちが、そんなんじゃ、」
否定もおぼつかない自分に奥園がしたり顔を向けてきた。
「とぼけんなって。さっきからずっと美代子ちゃんのこと見てんじゃねぇか」
完全な誤解だが、まさか馬鹿正直に久古を見ていたのだと弁明するわけにもいかない。口ごもった自分に奥園が声を上げて笑った。
「お前も目が高ぇなぁ、おい」
いささか以上に強く背中を叩かれ、思わず顔をしかめる。触らないで欲しい。
やはり誰に触れても痛みは健在だった。むしろ以前よりひどくなっているような気がしてならない。ほんの少し指先が触れただけでも、恐怖心が湧き起こるのだ。
あの路地で野口に再会したことが原因なのかもしれない。他人は怖い。その認識は日ごとに強まっている。例外は久古だけだ。
なぜ、久古だけなのか。そんなことはもう分かり切っている。ただその気持ちを認めてしまいたくないだけで。
認めたところで、どうにもならないと分かっているから。
「ま、諦めるこったな。美代子ちゃんは久古にご執心だ。お前なんかにゃ目もくれねぇよ」
勘違いしたままの奥園に精一杯乾いた笑いを返す。
「あーあ。またベタベタしちゃってよぉ。あんな能面野郎のどこに惚れる要素があるってんだ」
呆れ顔で愚痴を零す奥園に釣られ久古を見れば、確かに中村はベタベタと久古に寄りかかっていた。既にだいぶ酔いが回っているらしく、紅潮した頬がいつにも増して色っぽい。久古はいつにも増して無表情だが、しなだれかかる中村を咎める様子でもなかった。
(まあ、あんな美人に言い寄られたら誰だっていやな気はしないもんな)
視線を引き剥がし、自棄気味にビールを煽る。
空きっ腹に酒を流し込んだせいか、あっという間に酔いが回り、吐き気を堪えて席を立った。既に無礼講と化した会場の喧騒から逃げ出し、外の空気に当たる。
「はー……」
深く息を吸って吐く。寒いが、おかげで少しばかり気分が楽になった。だからと言って、胸の痛みが消えるわけではない。
「忘れろとか……簡単に言うなよ」
あんな触れ方をしておいて。
顔をしかめて呟けば、なぜか涙が滲んだ。
あの夜は久古にとってもはや無かったことなのだろうか。ただの気まぐれで、深い意味はなかったと言うのだろうか。
幾度と無く交わした甘い口づけを思い出し、そっと唇に触れた。
もう一度触れて欲しい、なんて。そんなことを望んでしまう自分が惨めだ。この想いがどこにもいけないまま、ずっと心に留まっていることを、他の誰でもない久古に知って欲しかった。
会場に戻る気力を失くし、惰性で煙草に火をつける。緩やかに昇って行く煙と自分の息の白さに目を細めた。
いっそこのまま帰ろうか。そう思い、溜め息をこぼした時。
「何をしている」
耳に馴染む低い声が聞こえ、爽太は眉を引きつらせた。どうしてこういうときに限って声を掛けてくるのだろう。
振り向けば久古が自分を見ていた。温度のないその瞳と目が合うと胸が張り裂けそうになる。
「酔ったのか? 顔色が悪いぞ」
すっと伸ばされた手の平から逃げ、顔を背けた。
「平気ですよ。ちょっと悪酔いしただけで」
言いながら燻(くゆ)った煙草を口に運ぶ。だが吸い込もうとしたところで、久古の手が素早くそれを奪い取ってきた。
「ちょ、何するんですかっ」
久古は抗議の言葉を無視して煙草を地面に落とし、靴底で火をにじり消してしまう。
「お前には似合わない」
端的な指摘に思わず顔をしかめた。
「そんなの、関係ないじゃないですか」
あんたには。
「俺はもう大人ですし、煙草を吸う権利くらいあると思うんですけど」
真っ向から視線を合わせられず、横目で睨みつける。久古の表情は変わらなかった。啖呵を切ったところで、相手が無反応では虚しいだけだ。
気まずい沈黙が流れる。久古は無言のまま自分を見ていた。
「……会場に戻らなくていいんですか」
こちらの内奥を見抜くような視線に耐えかね、薄く唇を動かす。
「中村先生も待ってるでしょう」
「中村?」
自分の掠れる呟きに久古が胡乱げな声を出した。舌打ちを洩らさないよう奥歯を食いしばる。その名前を久古の口から聞くのも嫌だ。
多分、今の自分は相当に醜い顔をしているのだろう。それを自覚していてなお、溢れ出す嫉妬心を止められない。
久古がつと自分から目を逸らす気配がした。
「お前、あいつに気があるのか?」
「……は?」
聞こえてきた言葉に耳を疑う。いきなり何を言い出すのだこの男は。
「あんた……本気でそう聞いてんのかよ」
呆然と久古を見上げ、歪に割れた声で呟く。
もしもそうであるなら、自分のこの想いはこの男に露ほども伝わっていないということだ。
久古がゆっくりと自分を見た瞬間、堪らず俯いた。間一髪、せり上げてきた涙が地面に落ちる。きっと久古には見られずに済んだだろう。
(俺が好きなのはあんただよ)
認めてしまえば、もう止まらなかった。ずっとこの男だけが特別で、その理由なんて分かり切っていたのだ。自分も久古も男同士だなんて、そんなことは理解している。それでも、一度好きだと自認してしまえば、もうごまかしは聞かなかった。
自分は確かに、久古が好きなのだ。けれど。
こんな不毛な片想いなんて、どこにも行き場がない。久古はあの夜のことを忘れて欲しがった。それはつまり、自身も忘れたいからに他ならない。
無かったことにしたいのだ。この男は。
口元に自嘲が浮かんだ。
(そりゃそうだよな……)
例え一時の気まぐれにしたって、気の迷いにしたって、同性とあんなことをしたなんて忘れてしまいたいはずだ。
「……俺、もう帰ります。お疲れ様でした」
俯いたまま早口で言い、久古の脇を通り過ぎる。コートを取りに一旦会場へ戻らなければならない。
「待て」
すれ違いざま、腕を取られた。大きく力強いその手の感触に心が乱れる。
「触んなよっ!」
強引に振り解き、不審そうな視線から逃げるようにして顔を俯けた。
「どうした」
「っ……」
低い問い掛けに唇を噛む。今、口を開けばとんでもないことを言ってしまいそうだ。
沈黙すると久古は小さく溜め息をつく。そのまま自分の横を通り過ぎて会場へと戻っていった。
引き止めたい衝動を押さえ込んでその背を見送る。酔いがピークに達したのか、頭が痛み出した。ガンガンと響くような頭痛を堪え、地面にしゃがみ込む。
立ち上がる気力すらないまま蹲って肩を震わせていると、唐突に身体が何かに覆われた。薄く目を開け、それが自分のコートだと知って目を見張る。
「立てるか?」
しゃがみ込んだ久古がこちらを覗き込んできた。確かな温もりを感じるその視線に、ジクジクと心が痛む。
この優しさに意味はないのだ。
「爽太」
呼びかけに緩く首を振った。
「平気だから……もう、放っといてくれ」
「勝手なことを言うな」
呆れた声とともに腕を引かれ、強引に立ち上がらされる。
「だから、もう触んなよっ」
揺れる視界と感情に苛立ち、再び腕を振り解いた。
「勝手なこと言ってんのはどっちだよっ? あんなことしといて、忘れろなんて簡単に言ったのはあんただろ!」
湧き起こったのが怒りなのか悲しみなのか判別がつかないが、とにかく溢れて止めようが無かった。
「落ち着け」
「うるさいっ!」
あくまでも冷静な久古に苛立ちが増す。振り回されているのは自分だけだ。いつも、いつも。
「これ以上俺に期待させんな……っ! せっかくあんたの望みどおり忘れようとしてんのにっ!」
なけなしの努力を踏み躙らないで欲しいと、久古を見上げて叫ぶ。だが――。
驚いたように目を見張った久古を見て、自分が何を口走ったのかを思い知る。慌てて口を閉ざしたが、今さら遅過ぎだ。
「期待? お前は何を期待したんだ?」
「っ……何でも、ない」
眇められた瞳に息を呑み、顔を歪めて声を絞り出す。これではまるで――。
爽太は口元を手の甲で隠し、羞恥に染まる顔を俯けた。無駄な抵抗だと自分でも分かっている。
期待させるな、なんて。〝好き〟と言ってしまったようなものだ。取り消すにしても、もう遅い。
訪れた沈黙に心臓が痛いほど脈を打っている。
(最悪だ……)
もう絶対に呆れられた。きつく奥歯を噛み、拳を握り締めて俯く。
「――なるほどな」
やがて久古が静かに呟く。その声には妙に楽しげな響きがあった。
「最近俺を避けていたのはそういう理由か」
恐る恐る久古の顔色を窺う。久古は満足気に口角を吊り上げて笑っていた。目を見開いた瞬間、伸ばされた手に腰を引き寄せられ、一瞬にして唇を塞がれる。
「んッ……」
滑り込んできた舌の熱さに脳が溶けた。うっかり誘うように口を開けば、久古は容赦なく口内を嬲り回してくる。乱暴なのに優しい。矛盾する口づけに混乱し、それでも抵抗できなかった。
「ふ……ッは……っ」
僅か十秒にも満たないキスで腰が抜けそうになり、久古の腕に縋りつく。久古は慈愛すら感じる手つきで、そっと自分の背中を抱き締めてきた。
「よく聞け」
囁くような声が意識に滑り込んでくる。
「俺は好きでもない奴に、気安く触れたりはしない。……この意味が分かるな?」
ことさら甘い問い掛けとともに腕の力が強くなった。目を見開き、久古を見上げる。
久古の瞳は穏やかだった。
「ほんと、かよ……?」
「俺がお前に嘘をつくと思うのか」
呆れた言葉を返され、口を閉ざす。込み上げてきた現実感のなさに呆然とし、しばし黙り込んだ。
「っ……ぁ」
唐突に耳を食まれ、驚いて身を捩る。
「や、やめろよっ。ここ外だぞっ」
いつ誰が出てくるとも知れないのに、久古は抗議の言葉を無視して耳殻に噛み付いてきた。
「よ……せ……ってば」
ぞわぞわと背筋を駆け抜ける快感に声が上擦っていく。
「――煽ったのはお前だ」
耳朶に囁き、久古は喉の奥で低く笑う。『今夜は覚悟しておけ』と、そんな言葉を聞いた気がする。
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