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橋引
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side 橋引
「ねぇ、どうしてあの子だけ、遅いの?」
「ううん。あれは、みんなよりも10周増やされて居るんだよ」
保育園、小学校、中学校。
とにかく、授業参観の日が嫌いだった。惨めな私を見ないといけない。みんなの前で、惨めな私を見せないといけない。消えてなくなりたかった。だから、お仕事が忙しいといつもほっとしていた。
母はプライドが高い人で、私が誰よりも力持ちであることも自慢で、クラスで一番をとれて当然って思ってて、いつも、そう信じてた。
でもね、
誰よりも力があるってことは、先輩たちが受けてきたぶんだけの苦痛を私だけ受けてないってことになる。
それは、それだけは、あっちゃいけない。
先輩が受けてきたくらいの苦痛を、私も持たないといけないの。
部活が長引いた日。
グラウンドを一人だけ、まだ走っている私を見て、やってきた母が、顧問に詰め寄っているのを目撃した。
「橋引さんは、みんなと、パワーバランスが、差がありますから、10周多くしているんです」
それを聞いたであろう母の顔。
既に部活の準備を始めている先輩たちの、楽しそうな横顔が、なんだか今でも脳裏で燻っている。
誰よりも一番をとれるべきであるはずの私が、誰よりも課題を増やされていて、そんなものから遠ざかっている、というのが本当の現実だ。
やっとゴールしたときの安堵以上の、顔を真っ赤にして怒りを堪える母の姿。
あと数分遅く来てくれたら、ちょうどゴールしていたのに。
「どうして……、パワーバランスなんか、関係ない、なぜ一番にならないの?」
「橋引さん、落ち着いてください」
食い下がる母と、惨めな自分。
先輩たちの「仕方がないよね」という顰めた声。
そう、これは仕方がないことなんだ。なぜわからないのだろう。
先輩たちも私も、10周増やすことで折り合いをつけている。
見た目はわからなくても、本当に一番なのは私、それでいいじゃないか。
界ちゃんみたいな器用にヘラヘラ笑ってやり過ごすことも出来なかったし、
色ちゃんのように、今にも倒れそうな儚さも私にはない。
幼いころからの怪力。
とても人間とは思えないようなそれは、感情が高ぶるとすぐに発揮される。
壁や天井はしょっちゅうぶち破っていたし、シャーペンや茶碗は、数か月ごとに買い替える。大人しく怪力を発揮しないようにじっとしていると、今度は、念動力が発揮され、遠くにある花瓶を倒したりして、止まらない。
それで人を怪我させたこと、殺しそうになった事もある。
病院で検査しても理由はわからなくて……、
やがて私の育て方で、父と母が言いあうようようになった。
いっそ、男子にくわえてはどうか、なんて父が言う。
母は、可愛い女の子になって欲しいと思っている。
私は、私でありたかった。
だからそんな男女の枠すら興味が持てず、アニメに出てくる怪物や宇宙人と自分を重ねていた。いつか、町を侵略する。そんな勇気は無かったけれど。
「今日はカレーだからね、鍋を置いておくから、ひっくり返したり零したりしないように」
「はぁい」
あの日。
朝。
いつもの忠告のあとお仕事に出かけた母を見送って、そういえば先に出かけた父さんのことを思いだしたりもして――――
そうそう、私も学校に行かないと、って思って、玄関から離れて部屋に戻って……
その後、人通りが少ないからと、いつも通る、薄暗いビルとビルの隙間の裏路地を歩いて学校に向かった。
その日は、もう少しで路地を抜けられそうな位置に、何語なのかもわからないことを、早口で唸るように話す無精ひげのおじさんが立っていた。
彼は、こちらを見て、なにか、言葉らしきものを発して居る。
唸るような、読経のような、言語のような、不思議な響きのそれが怒っているのか、話しかけようとしているのか、ニュアンスからではわからない。少なくとも聴き馴染みがある言語じゃなかった。英語や、その周辺の言語であれば、英語くらいは授業でやっているから、多少理解出来たかもしれない。
……んだけれど、これは、
知らない。
うにゃうにゃうにゃうにゃ。うららららら。
うわわわわわ。うにゃうにゃうにゃうにゃ。るるるるるるる。
うにゃうにゃうにゃうにゃ!
どこで息継ぎをしているのか、とか、そもそもこれは話しているのか?
とか、そんなことにばかり気をとられていた。
彼は、私の方に、ずかずかと距離を詰めて近寄ってきた。
なかなか、端正な顔立ちをしている。俳優さんみたいだ。
「うにゃうにゃうにゃうにゃ」
聞き馴染みのない言語が、上手く脳内で変換されないため、
イケメンのゆるキャラみたいになってしまう。
なんていうのか、危機感よりも先に、変に気が抜けてしまうと言うのか。
こんな怖そうな人が、
うにゃうにゃうにゃうにゃ。言ってて、
ちょっとかわいい。なんて、思ってしまって――――
強い力で、いきなり、腕を掴まれたことに驚いた。
「!?」
もし、私があの言葉を知っていれば、罵倒だったのか、馬鹿にしていたのか、挨拶してくれたのか、取引をしたかったのか、
それくらいでも、わかったのに。
横から違う人が……
正面の喫茶店の窓から、こっちを見ながら携帯出して、何処かに日本語で連絡してた。
それで、すぐそばを通りかかる男の人が、同じように携帯出してて……
「はい、84番を確保!」
結局何人居たのかしら。
私に与えられていたのは、84という数字。いや、確かめてはなかったんだけど、
直感的に84が私だとわかった。
84番は、車に乗せられるらしく、手配されてた車が今居る路地までやって来た。
考える暇なんかなかった。
捕まったら、終わりだ。
父さんや母さんも、家にいる間は優しいが、本当は私の扱いに困ってるのを知っている。
84番を見る大人たちの目は、父さん母さんの目と一緒だった。
「10周も増やされて、母さんたちは恥ずかしかったんだから」と言うような。
呆れと、珍妙な怪物を見る面白半分の目。
いや、それ以上に嬉しそう?
「いくら叩いても失くならない無限の鉱山を見つけた!」とでも言うような。
彼らは私に、そういう期待をするようになっていた。
私は走った。
路地を逆戻りして足元にあった段ボールとかごみ箱とかを、薙ぎ倒しながら。
走りながら、何度も何度も不安になる。
このまま捕まってしまうのだろうか。
一度素敵な人に出会ってみたかった。
力があるから、とか資産があるから、とかじゃない。私が、ただの少女で良いと言われたかった。あの目は、いつも────
どこをどう走ったのだろう。
出てきた道は、いつの間にか後ろと前とで、彼らに挟み撃ちされていて、逃げ場がなくなっていた。
(2022年7月30日17時36分─7月31日3:30)
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