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不幸は、音もたてずにやって来る…。
久米征久(クメ ユキヒサ)は、地図を手に目の前の建物を見上げて、ほうと息をついた。
建物の周りは、竹垣がぐるりと張り巡らされていた。竹垣の途切れた入り口に一歩足を踏み入れると、そこからみっちりと敷き詰められた石畳の道が続く。数メートル行くと、建物の…立派な旅館の前に来る。出入口のガラス戸上部には、『〇〇旅館』と達筆で書かれた看板が左右の小ぶりなライトに照らされながらも、存在感を強めている。
十二月下旬。各地で初雪の観測が発表される頃。久米がいるこの旅館がある地域も、また天気予報は雪マークがちらほら見受けられた。久米はふっと看板から視線を外して天を仰ぐ。空は闇一色。辛うじて山々と空の境に茜色の光が見えるくらいだ。まるで、眩いほど真っ赤な夕空に嫉妬した天が闇色のカーテンで覆い隠してしまったかのように思える景色だった。腕にしている時計に目を遣ると、針は午後五時を少し過ぎていた。辺りは暗く、気温も低い。…お世辞にも過ごしやすいとは言いにくい。背に負ぶったリュックに地図をなおした久米は、小さく身震いして黒い革ジャンの二の腕部分を繰り返し摩る。…肌寒い空気が、久米の周辺を支配していた。
久米は、二十八歳の男性だ。小柄で痩身。雄々しくない華奢な体つき。青褪めた月の如く白い肌。亜麻色の髪は肩まで切り揃えている。体型からか、後ろ姿で女性と勘違いされる経験が多々あった。…せめて外見だけでも男らしくありたいと黒の革ジャンに蒼いジーンズという格好で来たが、底冷えするような寒さに早くも後悔し始めていた。
久米はごくりと生唾を飲み込んでから、ガラス戸に手をかける。思い切ってガラス戸を引いてみると、案外そこまで力を入れずともカラカラと音を立てて開いていった。
外の暗さが嘘のように、明るいオレンジの光が久米の視界に飛び込んでくる。開いた扉の隙間から、暖かな風が吹き込んで、ふわりと久米の全身を包んだ。通常の家の玄関の倍はあるだろう大きな空間が久米を歓迎する。照明の眩さに、久米は二、三度、瞬きを繰り返した。…あちこちに、絵画や折り紙、置物といった和の調度品がちりばめられている。眺めているだけで、タイムスリップしたかの気持ちに浸れて、わくわくしてしまう。
玄関の右手には、小ぶりなカウンターがあり、更に奥には従業員用の出入り口があった。出入口には、言外に『関係者以外立ち入り禁止』を示すように薄紫の暖簾がひらひらと靡いている。左手には、簡易なロビーの代わりか。八畳ほどの空間があり、赤い革張りの椅子がきちんと整列するかの如く並んでいる。椅子が並ぶ奥には、マガジンラックや本棚が設置されている。椅子の群れの正面には、様々な観賞用の小魚が悠々と泳ぐ水槽が二つ、置かれていた。ライトアップされた水槽は、カラフルな魚が多く、人々の視線を惹きつけてやまないだろうとパッと見で推測される。
中央の廊下は、ずっと床が続いている。…先に進まなければ、何があるかまではわからないだろう。
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