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片付けは、簡単だった。
基本的には、全て置いていく。
大切なサイフォンも、もうこれからは使うことは無い。
残った豆と、少しの食材をしまえば終わり。
食器などの備品は、全て置いていく。
・・・次、どんな店になるんだろう。
薄汚れた壁紙も、タバコで煤けた天井も。
傷のついたテーブルや、擦れて生地が薄くなった椅子も。
ここでの思い出も全て、置いていくのだ。
歩さん、びっくりするかな。
ううん、ぼくが出て行ってせいせいしてるだろう。
ベッドに戻って来なかったのは、たぶん、そういうことだ。
リビングのソファで、熟睡していた。
ひりひりと痛む胸を押さえて、ゆっくりと深呼吸をした。
「・・・行こ。」
不動産屋の社長は、ここの常連だった。
それこそ、おじいちゃんと、おばあちゃんを取り合った仲だって聞いたことがある。
表の扉から出た。
鍵を掛けたら、もうこの瞬間から人様のものになる。
そう思ったら、胸の痛みが酷くなった。
ポケットから鍵を出して、鍵穴に差し込んだ。
いつもの感触は、もう二度と感じることのない感触になる。
後ろ髪を引かれながら、ゆっくりと鍵を回して引き抜いた。
目当ての不動産屋は、表通りにある。
そこのおじさんに鍵を渡したら終わりだ。
空気は澄んでいて、それが妙に苦しかった。
俯きながら、早足で向かう。
あっという間の距離で、あっという間の時間で。
欠伸をしながら店先を箒で掃いていた老齢のおじさんを見つけて、ああ、終わるんだと実感した。
「・・・忍ちゃん、おはよう。」
「おじさん、おはようございます。」
血の気が引いた。
過去の自分と決別することが怖くなった。
「・・・とうとう決めたのかい?」
「は、い。・・・きめ、ました。」
前々から話していた。
おばあちゃんが亡くなったら、ここを出て行くと話していた。
「・・・もう?」
もう亡くなってしまったのか聞かれて、首を振った。
「長くは、ないです。」
食べれない。
飲めない。
もう、正常な状態でもない。
一日の殆ど、寝ている状態だ。
そして痛みに目が覚めて、注射を打たれてまた眠る。
「そうか。・・・ひとりじゃ、やれないかい?」
「無理です。大学も、続けられないですし。」
大学を辞めて、店を継ぐ選択肢もあるだろう。
でも、それは選べない。
選べば、息が出来なくなる。
孤独と思い出に縛られて、きっとぼくは死んでしまう。
「鍵です。中にあるものは、そのまま置いていきます。」
「ああ、それは心配しなくて良い。」
鍵を受け取ったおじさんは、静かに首を振った。
「これから、どうするんだい?」
「・・・分かりません。」
就職が決まったところに移住する。
ただ、それだけだ。
「また寄ります。」
そう言うと、おじさんは涙の浮かんだ目のまま、笑ってくれた。
「元気を出して。」
「ありがとうございます。」
さあ、これから色々片付けなくては。
明日は、消防署に行って防火管理者解任届をだして、役所に廃業届と飲食営業許可書の返納をしなくっちゃだし。
税務署には、おばあちゃんが亡くなってからになるだろうけど、事業廃止届出書とか提出しなきゃだし、その他色々やることがある。
忙しくしているほうが、気が紛れる気がした。
歩きながら、ふと思い出した。
『もう帰って良いって言ったよね!ぼくのことは放っておいて!』
『放っておけるか!忍ッ!あったかいメシは心も体も癒すんだ。おっさんの経験値をナメんなよ!』
ふふ。
久しぶりに叱られた。
叱られたのに、思い出すと胸がぽかぽかしてくる。
・・・おっさんの経験値か。
そろそろ起きたかな。
今頃、目玉焼きを食べているかもしれない。
もう会えないけど、歩さん、元気でね。
そして、本当にごめんなさい。
あなたの優しさを利用しました。
ぼくは、心底汚い男なんです。
店の裏に回ると、おおきなネズミが目の前を走って行った。
忍はひとつため息を吐くと、店をゆっくりと見上げたのだった。
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