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敷地内に唯一設置されている喫煙所は1階ロビー付近にあり、
そこまで警戒に警戒を重ねてエレベーター内でも背を向けず、常に数歩後ろを歩いた。
だが、誰一人いない扉の向こうへと足を踏み入れてしまえば
俺と母の恋人と名乗る男の二人きりの空間となり、妙に息苦しさを覚える。
「…あの」
「あ、あのっ!」
深く息を吸い込み、冷静さを欠いてしまわぬよう努めた俺の声と
明らかに緊張を隠せていないであろう自分より一回りも二回りも年上の男の声。
その二つが重なり、カランと残り少ない百円ライターを落としたのは
後者だ。
「…なんでしょうか。お先にどうぞ。」
「あ、あぁ…すまない。」
自分の足元に転がってきたそれを拾う事はしない。
ただ、2,3歩後ろに下がって持ち主の邪魔にならないよう様子を見るだけ。
こうして人を油断させて置いて、気を抜いた拍子に襲い来る猛獣たちをこれまで何度も見てきたΩだけが知る、ほんの一つの護衛術だ。
男の動きに不自然な意図が無いことを確認すると
ようやく咥えていた煙草に火をつける。
初対面相手に一瞬の隙も見せるつもりは無いが
相手は闇の底を舐めて生きてきたあの母をも笑顔にさせる人間だから。
たとえ何かを企んでいようと、そう容易く俺に危害を加えてくることは無いだろう。
男は、自身の取り出した煙草に火とつけると
ふぅと一つ煙を吐いて切り出した。
「改めて…来碧くん。今日は突然申し訳ない。
君にはお会いしてみたいと思っていたんだ。君のお母さんが、いつも話してくれていたから。」
いつも、か。
母が信じるこの男を、赤の他人の俺がどこまで信用出来るかは置いておいて
少なくとも表情であったり、口調、目を見る限りでは
悪人だとは到底思えない。
「失礼ですが、母とは何処で…?」
「ああ…そうだよね。急にこんな訳の分からないおじさんが病室に訪ねてくるのもおかしな話だろうからね。」
――男は、何度か白い煙をくゆらせながら丁寧に話し始めた。
βでありながら、少なくとも自分より社会的身分も歳もうんと下である俺に対して見下すような態度一つ取ることなく。
彼は、半年ほど前交通事故に巻き込まれ
この病院へ搬送されたそうだ。
毎日飽きるほど真っ白な天井を眺め、カードを追加してはテレビを見つめる日々。
そんな退屈な中でただ一つだけ、ある時から楽しみが出来たらしい。
酷かった怪我も回復へと向かい、定時になれば連れていかれるリハビリ室で見つけた
誰の力も借りず、ひたすらに歩いては息を切らす母の姿。
彼女には、看護師はおろか多数在籍している療法士すら一度も手を貸さなかったようで
自身に手を貸したスタッフに問うたところ
「アレには番が居るから私たちが触れたらおかしくなってしまう」と。
確かに勇気のいる事だ。
Ωの中でも特に、依存性の凄まじかった彼女は
医師ですら不用意に触れたいとは思わない。
だが、彼女は何度転んでも歩くことを辞めようとせず
緩んで脱げてしまった靴を、時間をかけて履き直し、また立ち上がっていたそうだ。
ある日、担当スタッフに呼ばれるのを待っていた時
すぐ傍まで歩いてきた彼女がバランスを崩す。
咄嗟に重心の定まらない身体で腕を掴むと
彼女は酷く驚いた顔をした。
そこに少しも拒絶反応のような症状は無く
みるみるうちに瞳を潤していく涙はとても美しくて。
「初めて、こんな事をしていただきました。
お身体の方は大丈夫なんですか?」
自分の膝は痣だらけだというのに
一番に心配したのは同じくリハビリを受けている患者の男。
まだまだ自立して歩くことは不安定であるにも関わらず
彼女は病的なほど身体が軽く、簡単に支える事が出来てしまった。
そこで周りから褒められたのは、事故による麻痺が残る身体で女性を支えた彼自身。
毎日汗をかき、小さな傷を増やし続けた彼女の努力を称える人間は誰一人として居なかったという。
βというだけで、周りには同じ性別ばかりが集まる。
学生時代に生徒会や重要な役職を陣取るのはいつだってαや目立ちたがりなβの一部。
社会人になっても、βが入れる企業にはまずβしか存在しないのだから変わらない。
おかしい、おかしくない以前に
それがΩとして生まれた者の社会なのだと無理やり納得させられたのだった。
だが、男は知ってしまった。
同じく不自由な身体でありながら、決して諦める事無くリハビリを続ける彼女の強さを。
誰も手を貸さない、誰にも頼らない中でも光を失わない精神力を。
その日の夜、回診に立ち寄った担当医師に告げた。
「あの人と一緒に、歩く練習をしてもいいですか。」
医師は渋い表情を和らげぬまま、ぶっきらぼうに肯定の言葉を投げつけた。
それから、退屈な毎日は楽しみを待つ時間へと変わる。
手を貸して、必要ならば腹や腰も触れた。
だが彼女が悪心を抱くことも無ければ、むしろ顔色は良くなっていっているようにも思えて。
何度かは自分につられ、揃って倒れ込むこともあった。
そんな時は決まって彼女が骨折でもしていないかと気が気でないのだが、
なんとも可笑しそうに笑う彼女の笑顔が綺麗で、また立ち上がる事が出来た。
日を追うごとに心は惹かれ、しかし番の居る彼女と必要以上に接触する事は不可能。
自立歩行の許しが出てから、よく部屋を覗きに行くようになり
番が見舞いに来たような気配も無いことを疑問に思い始めた。
そして、彼女が番に捨てられた事。
それ故、心身に支障をきたしてこのような入院生活になったことを知る――。
「幸い僕には妻子が居ないから、退院して仕事復帰した今でも頻繁にここへ来る事が出来ている。
手を繋いだり、頭を撫でた時の笑顔が本当に綺麗で……って、こんな事を息子さんに話すものじゃないね。不快にさせてしまってすまない。」
彼が母に向けるものは、まさに無償の愛といった所だろうか。
彼の紡ぎだす言葉から見えるのは、母の事を性別の垣根を超えた、同じ人として尊敬しながら
一人の女性として愛おしく思うさまで。
窮屈に締め付けられる胸の理由は、母を認めてもらえた喜びか
それとも、無垢な偽善者だと断ち切ってしまいたい己の歪んだ心への怒りか。
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