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5 不機嫌な話(しゅう視点)
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不機嫌な話
ありえない、本当にありえない。
僕は一応医者だ。だけど、どこかに所属してるわけでもないし、自分の病院があるわけでもない。フリーで活動し、呼ばれたら診察するなんとも適当な医者になっていた。
そんなことで生計は成り立つのかという話だが、僕の抱える患者はお金持ちが多い。表立って診察できない人達を診ているのだ。本職は精神科医じゃないんだけど、そっち系が多いのはなぜなのか。これ、限りなく黒に近いグレーの医者な気がする。
お金には困ってないしお金持ちのお嬢様やご子爵様を相手にするのは疲れるから、普段は必要に応じて通うことにしていた。なんせ、彼らは話し相手がほしいだけ。正直僕じゃなくてもいい。それよりも家にいる子が最も優先すべきで、かれこれ十日はまともに話せていない。
僕のストレスが、最高潮に達しそうだった。
「ねぇ、先生。また明日も来てくださる? 明日はスコーンを焼こうと思っているの」
きっと、気に入ると思うわと微笑む女性に、ため息が漏れそうになる。この人は十日前に連絡を受けた政治家の娘だ。歳は二十歳を過ぎたくらいでお嬢様学校に通っていたという彼女は、話し方すらも漫画さながらの口調だった。
仕事でなければ、絶対に関わらない相手。
「お誘いは嬉しいですが、明日からは別の診察があるんですよ」
そんな診察、予定にはない。だが、これ以上彼女に関わるのもごめんだ。だから、適当な嘘を吐いて彼女との縁を切る。
そもそも、精神面においても健康面においても、彼女に悪いところなんて存在しなかった。
その事に気付いたのは五日目だった。彼女のなにが不安定なのかわからずじまいで話していたが、呆気なく問題は解決した。この親子のくだらない悪巧みだったのである。
どこでそうなったのかはわからないけど、僕のことを気に入った彼女は父親に頼み込みここへ招いたと。精神病なんていくらでもでっち上げられる。本当に苦しんでる人たちに、失礼な行動だと思わないのか。
ただ、彼女の父親と話をするタイミングで僕は選択を誤ってしまう。ここまで一日中拘束されるとは思っておらず、十日間は毎日通うことを約束してしまったのだ。これは、僕の失態。彼女を満足させるための時間を十日も与えてしまったのだから。
「どうして。今度はいつ来てくださるの」
彼女が不安そうに僕を見つめるが、どうでもいい。この親子にこれ以上振り回されるのは真っ平ごめんだ。
「失礼ですが、僕の診察ではあなたに不安となる要素はなにも感じられませんでした」
「それは、先生がいるから……!」
彼女が僕の腕に掴まり纏わろうとしたので、すかさず一歩下がり言葉を続ける。
「嘘付くなよ。僕は暇じゃないんだ。あんたの恋愛ごっこに付き合ってる暇はない」
「なんですって」
だらだら話していても仕方ないと、ありのまま話す。彼女の顔が、みるみる怒りに染まっていくが知ったことか。
「これでおわり。もう二度と会いに来ないし会うつもりもないよ。さようなら」
「ちょっと待ちなさい!」
彼女の怒声も無視して、この場を後にする。
本当に散々だ。今は三時を過ぎた頃。連日の帰宅時間に比べてとても早い時間だ。隠してるつもりだろうけど今朝の彼は不服そうだった。早く帰って彼とゆっくりしよう。明日はなにがあっても絶対に家からでない、寂しがり屋な彼をとことん甘やかすんだ。
僕は決意を固めて、急いで帰路を進む。
大通りを抜けもうすぐ自宅、という距離でスマホから通知を知らせる音が鳴る。普段ならスルーするところだけど、直感というものか。なんとなく確認しないといけない気になって、立ち止まり画面を操作する。
「樫葵君? めずらしいなぁ」
送り主は、恋人の友人からだった。彼は同じく幼少期からの知り合いで、恋人に付きまとい友人にまで上り詰めた不思議な青年だ。彼が連絡するから成り立っている交友関係だと思う。
アプリを開いて内容を確認する。
『時野さん、本当にすみません。訑灸を怒らせました』
それは今の状況を悪化させるには十分な材料で、僕は頭が痛くなるのを感じた。
彼の言葉遣いはこの地域では独特なもので、他ではメジャーな方言を話している。それは、誰に対しても共通。目上だろうと他人だろうと変わらない。だから、彼からそれがなくなったこの文章はもっとも真面目にしているときで、どうしようもないことを示唆していた。
「どうすれば、そうなるんだよ」
彼が恋人を冷やかしたりおちょくったりしているのは見たことがあるけど、ここまで怒らせたことはないはずだ。そもそも、相手は彼に興味がない。だから、そこまで気にしないのである。それがなぜ、よりにもよって今日、その状態にできるんだよ。
ここにいても解決することはない。機嫌が悪いのであれば、なおさら早く帰らないと悪化の一途をたどる。
彼の機嫌をどう戻そうか、僕は頭を悩ませながら自宅まで残りわずかな道を走り出した。
まもなくして自宅にたどり着き、玄関の鍵を開けて扉を開ける。
「訑灸っ」
靴を脱いで家に上がると一目散にリビングに向かうがそこに彼の姿はない。一緒にいる仔猫の姿も見えないから、この家のどこかにいるはずだ。可能性があるなら、自室か僕の部屋のどちらか。
まずはリビング横にある彼の部屋へ行ってみるが、そこにはいなかった。それならと僕の部屋を覗いてみたが、そこにもいない。
「どこにいる……?」
靴はあったから家にいるのは間違いない。けれど、一体どこに?
自分の部屋の前で考えを巡らせていると、二階からに微かに聴こえる可愛らしい鳴き声。
「二階?」
二階にあるのは物置と浴室、空き部屋くらいだ。そのどこかにいる?
僕は確認するために階段を数段飛ばしで駆け上がる。よりにもよって二階とは彼を見つける時間がもどかしい。
廊下に出ると浴室前で仔猫がひたすら鳴いている。あそこにいる。
「ーーっ」
浴室前という事実に嫌な考えが脳裏を過るが、よく見るとその上に向かって鳴いてる気がする。上を見上げて鳴く子もいれば、後ろ足で立って、前足を上に伸ばしている子もいる。
浴室前、その上にあるもの。
「屋根裏……」
そこに続く蓋は閉められており近くに梯子もないが、この高さであれば彼は難なく上るだろう。そして思い出すのは、彼のこと。
「どうしてそうなるかなぁ……」
彼らがどんなやり取りをしたのかはわからない。けれど、僕が仕事に出ていたことをあまりよく思っていないのは感じていた。重なってしまったのだ。なんともタイミングの悪いことに。
浴室から蓋を開けるための棒を取り出し、物置から梯子を運ぶ。僕はそこへ飛び乗っていくつもりもないし、彼の状態次第では降りるのも難しくなる。だから、多少時間はかかれど正しい方法で屋根裏へと進んでいく。
梯子を登り、空いたスペースから天井をすり抜ける。久しく入っていないそこは埃っぽく長居するにはよくない環境だ。屋根裏に入ろうと床に手を掛けたところで、左右をもふもふした塊が駆けていく。
「……」
仔猫を隔離しなかった僕が悪いんだけど、まさか上ってくるとは思わないだろ。
彼らは一目散に一ヶ所へ駆け寄ると再び鳴き出した。
「訑灸」
最愛の彼の名を呼ぶ。
視線の先には、一番奥の隅に丸まって寝ている彼の姿があった。ひどく苦しそうな表情に顔が歪む。
「訑灸」
傍に腰掛け、再度声をかける。とにかく優しくゆっくりと、目覚めた彼が警戒しないように。彼から反応があるまで、触れることも許されない。これは十年間で学んだことだ。
僕が彼を紹介されたときは極度の人見知りで重度の過眠症と聞いていたが、そんな単純なものではなかった。
男ほしさに身籠り捨てられた女の末路。その結果が彼の悲劇の始まりで、産まれた瞬間から父は見放し、母はひたすら憎み、彼は苛まれていたのだ。
彼女は資産家である男の妻に強い憧れを持っていた。だから、男がすでに家庭を持ち隠していることにも気付かず、子供を身籠ってしまう。当然、本妻がいる男にとって彼女は妾になる。産まれた子供は認知し養育費は支払うが、それだけだ。会うこともなければ、共に生活するなどもってのほか。その理想とかけ離れた展開に彼女は怒り狂った。彼が手に入らなければ、いくら腹を痛めて産んだ子でも興味はなくむしろ邪魔な存在。さすがに餓死させることはまずいとわかっていたので、適度に食事を与え死なない程度に生かしていた。
「醜い顔ね。役立たずな子」
それが彼女の口癖であり、合図でもあった。彼は大きくなるにつれ彼女の癇癪から逃げることを覚えるようなり、それが息を潜めてひっそりと隠れ見つからないようにすることだった。長い間そうするうちに、いつしかその状態で寝るようになり、彼の中で隠れて寝ることが当たり前になっていた。食事もまともにもらえず、寝ることで体力を温存していたのもあるだろう。
とにかく彼は寝て過ごすことで、誰からも干渉されず平和に過ごせていたのだ。
それは保護されてからも変わらず、慣れないーー知らない人の気配を感じては隠れて寝る生活を繰り返していた。
その状態の彼に僕は出会うのだ。それからいろんなことがあったけど、ここ数年は落ち着いていたように思う。寝る癖は相変わらず、ただ逃げるために寝ることはなかった。
だから、安心してたんだ。
ーーそう簡単に、治るはすがないのに。
「訑灸、起きてよ」
声をかけることしかできなくて、ひどくもどかしい。彼が起きてくれないことには、なにもできないんだ。早く目を覚ましてよ。
「にゃ、にゃー!」
「クロ?」
ただならぬ雰囲気を感じて近くで鳴いてる仔猫たちだったが、黒い仔猫が勢いよく鳴きだして彼に近付いていく。
「にゃにゃっ」
「ちょっと」
起きろよと言わんばかりに、彼の顔をいつものようにぺちぺち叩き始める。
普段なら見過ごすところだけど、さすがに今回は焦ってしまう。起きたときの彼がどんな状態かわからないから、余計な刺激は与えたくないのに。
「……ぅう」
寝ている彼が声をあげる。咄嗟に仔猫を抱きあげて彼から離した。不満そうに僕の手を引っ掻いてるけど今は無視だ。
「訑灸、そろそろ起きてよ。みんな待ってるんだ」
「……ゅう?」
もぞもぞと動き、ゆっくりと瞼が上がっていく。微かに、僕を呼ぶ声も聞こえた。
今回は大丈夫そうだ。
「おはよう、訑灸。ほら、仔猫たちも君のこと待ってるよ」
「にゃー」
「なーなー」
仔猫も大丈夫だと感じたのだろう、彼のもとまで歩き身体を擦り寄せている。黒い子は相変わらず猫パンチしそうな勢いなので、僕が確保したままだ。
「……しゅう、が、いる」
何度か瞬きをした彼の瞳に僕が映る。
「ただいま。待たせてごめん」
仔猫を離して彼の頬を両手で挟み、額をくっつける。
「……寂しかった」
「訑灸?」
呟かれた一言が珍しくて、顔を離して表情を確認する。今にも泣き出しそうな歪んだ顔をしていて、ゆっくりと彼の手が僕の手の上に重なった。
「仕事だから仕方ないけど、こんなにいないのはやだよ」
僕は浅はかだったのかもしれない。この子は僕の想像している何倍も想ってくれていたのだ。
変なところで飄々とすることを覚えたから、勘違いしていた。本質はなにも変わっていないのに。
「うん、ごめんね。もうこんなことしないから」
その言葉に驚いたように目を開く。なにかまずいことを話しただろうか。
彼は慌てて起き上がると、姿勢を正してまっすぐ僕を見る。本当に待って、なにがダメだったのさ。
「違う、そうじゃない。そうじゃないから」
「訑灸?」
彼は僕を見てるけどその視線はどこか虚ろで、名前を呼び掛ける。彼はこの状況でなにと闘ってるんだ。
「ねぇ、訑灸。ちゃんと話して」
そうじゃない、大丈夫とうわ言のように繰り返す彼を引き寄せ、少しでも落ち着かせたくて抱き締める。訂正。まったく大丈夫ではなかった。
「なーなー」
仔猫たちが彼の膝にまとわりついている。小さな生き物にもこんなに愛されているのに、もう一人で抱え込む必要がないことを早く気付いてほしい。
なにをそんなに不安に思っているの、僕は君の願いならいくらでも叶えるのに。
「訑灸」
「うぁ」
いやいやと首を横に振る彼を強く抱き締める。どうしたものかと思考を巡らせるも、彼がなにを不安に感じているのか検討もつかないから声もかけられない。
検討違いな発言は、さっきみたいに彼を余計に追い込んでしまうことになるんだ。
「ねぇ」
「なに」
否定以外の言葉が彼の口からこぼれて、すぐに返事をする。萎縮して話すことを止めないように優しく囁くように。
「なんでしゅうはここにいるの?」
「訑灸に会いたくて、探してきたんだけど」
突然彼はどうしたと言うのか、困惑しながらもありのままを答える。
「あの人も、周りも見つけたらイヤそうにしてた。俺はちゃんと隠れてるのに、なんで探すの」
その言葉が重くのしかかって苦しくなる。大切に愛していたけど、彼の深くまで届いていなかったのだ。
虚ろな目が不思議そうに僕を見つめ、言葉を紡いでいく。
「ねぇ、なんで? おれ、ちゃんとしてるのに」
おれはだめなの? どうしたらいい?
まとわりつくようなその言葉が、彼の心情を表していたんだと思う。
「訑灸」
彼の名前を呼ぶ。少しでも理解してもらえるように。
「何度でも言うよ。僕は訑灸が好き。だから、どこにいても探しに行くし、迎えに行く」
「ぅあ」
「ずっと一緒に居たいから、探し来たんだよ」
まっすぐ彼に伝える、伝えたつもりだった。けれど、抱き締めている彼は徐々に呼吸を乱し怯えるように震え始めた。
「訑灸? 訑灸っ!」
彼はいったいなにを見てるんだ。少しでもこちらに意識を向けようと必死で名前を呼び続ける。
苦痛に顔を歪めた彼は、僕に応えることなくぷっつんと意識を手放した。
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