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8 逃げたかった話
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逃げたかった話
彼はとにかく機嫌が悪かった。なにを聞いても上の空。先日家族に迎えた仔猫たちとソファーでゴロゴロしているが、そこに覇気はない。
とっさに彼の寝付きが悪くなったかと頭をよぎるが、それはありえない。なんなら半刻前まで寝ていた。そのソファーで寝ていたのだ。機嫌が悪くなったのは起きてからである。
「なにがそんなに不満なの」
彼が寝ているのはL字型ソファーの片側だ。コーナー側に頭を向け寝転んでいるが、背凭れを向いているので表情まではわからない。四匹の仔猫は好きにさせている。黒い仔猫が彼の右頬をぺちぺち叩いてじゃれているが、それすらも気にしてない様子。コーナー側の空いてる方に腰を下ろしてそっと髪に触れた。
「別に」
返ってきた声も、いつもと違いどこか不満そう。夢見が悪かった雰囲気もなく、起きた後に彼の機嫌を損なうなにかが起こっている。正直、こればかりは話してもらわないとわからない。
「それならこっち向いてよ」
優しく声をかけるが返事はない。これはいったい全体どうしたものか。
そう頭を抱えていると、備え付けのインターフォンが鳴り響く。本日、来客の予定はなかったはずだ。なにか荷物が届いたとか? 注文したものはないけど。
不満そうな彼も気になるが、来客を確認することが先である。普段なら無視するところだけど、うるさい。ひたすら鳴り続けるそれは、出迎えるまで止むことはなさそうだ。だから、仕方なしに玄関へ足を向けた。
「誰だよ」
廊下に設置してあるインターフォンのモニターを確認すると、そこにいたのは見慣れた顔。学生時代からの友人にして、現在進行形で機嫌を損ねている彼の兄にあたる人物。
すべてを理解した。こいつが原因か。
「おっせーなぁ。一度ですぐ来いよ?」
扉を開き出迎えたときの開口一発目。いや、君のせいで弟くんは、不機嫌になってるんですけど。口悪すぎない?
「訑灸いるよな? 上がらしてもらうぜ」
返事も聞かず、目の前の男はずかずかと部屋に上がり込む。自由すぎるだろこの兄弟、人の話は聞こうよ。頼むから。
「今日はなんの面倒事を持ってきたのさ」
彼が訪ねてくるときはやっかいごとを持ってくるときだけで、今まで全てそうだった。彼が平和に訪ねてきたことは一度たりともない。
「聞いてねぇーの?」
「聞くもなにも」
君の弟が不機嫌すぎて話にならなかった。という言葉は最後まで発声できなかった。
彼がいるはずのリビングへ戻るがそこに姿はなく、仔猫もろとも姿を消してソファーの上はもの脱け殻。ははー、あの一瞬の隙に逃げたな。
「にゃーにゃーっ」
「みー、みぃー!」
そして、一つの部屋の前から小さな鳴き声と引っ掻くような音が聞こえる。
「部屋に閉じ籠ったみたいだけど」
隣の男へ状況を伝えると、返ってきたのは人の悪そうな笑み。悪巧みを思い付いたときの、やっかいな笑みだ。
頼むから人ん家でいざこざを起こさないでほしい。聞き入れてもらえないけどさ、悲しい話だよね。
「おい訑灸開けろ、閉じ籠っても無駄なんだよ」
楽しそうな笑みを浮かべ、ドアに向かって怒鳴るその男。右手で拳を作りそれを叩くことも、もう片方の手で鍵の掛けられたドアノブを無駄にガチャガチャすることも忘れない。
その行動に仔猫たちは驚いて動きを止める。そりゃあ知らない人間が急に大きな音を立てたら驚いちゃうよね。僕は意識が遠くなるのを感じた。やることが過激なんだよこの兄弟。なんで、大人しくまとめられないの。
中からはなんの反応もない。それでも気にせずガチャガチャし続ける男。間違ってもドアは壊さないでくれよ。
そのとき、なにか動いた物音と板の軋む音がドアの向こうで聞こえた。
すかさず威嚇していた男はドアを離れ、ズボンのポケットからスマホを取り出す。
「夜音、今だ!」
『本当に、やることがめちゃくちゃなんですよ』
電話越しにもう一人見知った友人の呆れた声と窓から逃亡した同居人の声が聞こえる。
始めから二段構えで来ていたと。彼の作戦にまんまと同居人ははめられたのだ。
再びリビングに戻ると、玄関から困った顔をした友人が逃亡に失敗して不服そうな態度の彼を連れてきていた。
「訑灸、これはどういうことなのかな?」
L字型のソファーに腰を掛けて、不機嫌な彼に声をかける。端に僕が座り、その横に丸いクッションへ顔を埋めている不機嫌な彼、コーナーを挟んで満足した笑みを浮かべている兄と呆れている友人の順で並んでいる。
「俺は行かない」
「お前なぁ、行かないで許される歳は終わったっての」
皆まで聞かずとも、なんとなく状況は理解できたかもしれない。たぶん、彼は実家にお呼ばれされているが、それをバックレようとしているのだ。それを見透かした兄が迎えに来たと。
「やだ、ぜーーったいにやだ。あそこは好きじゃない」
「それも知ってる。けど、お前はうちの血を引いてるの。だから、嫌でも顔出せ」
「好きでなったわけじゃない……」
彼の本当に小さな呟きはあっという間にクッションへ吸収されたが、僕たちの耳にはしっかり届き反応に困って眉を潜める。
この兄弟、国内有数のトップクラスを誇る財閥の息子である。しかし、複雑なことに異母兄弟。本妻の子供である兄と、妾の子供になる弟。彼らが一緒に暮らし始めたのも弟が六歳くらいの時期だ。生まれたときから財閥の跡取りとして育った兄と感覚に差が出るのは仕方のないことだった。
「顔を出してりゃ、おっさん方は満足するんだよ。なにかしろとはいってねぇだろ」
「あの空気が好きじゃない」
兄の言葉を好きじゃない、好きじゃないと否定し続ける彼に、僕たちは頭を抱えた。これは絶対に参加すべきだと思う。けれど、無理矢理連れていっては彼の平穏は崩れてしまう。とても、デリケートな問題なのだ。
「はぁー、わかった」
「行かなくていい?」
兄のため息に、折れたと感じた彼はクッションから顔をあげキラキラした眼差しを向ける。
「アホか。行くのは変わらねぇよ。ただし」
「…‥ただし?」
不満そうな顔へ逆戻りした彼に、兄は僕を指差して告げたのだ。
「時野も一緒だ。許可はもらってる、連れていくのは問題ない」
「なんて?」「ほんとに!」
僕の驚愕の声と彼の嬉々とした声は、同時だった。
彼をお家事情へ連れていくために、僕を巻き込むのはちょっと違うんじゃない? それはありなしでいうと限りなく、なし寄りになるのでは?
「親父公認のもと付き合ってんだから家族同然だろ。それに、名目はこれの主治医だ」
「……しゅうはイヤなの?」
再びクッションへ顔を戻し寂しそうにする彼の不安を払拭するため、うずくまったその髪をくしゃくしゃに掻き乱した。
複雑な経緯があれど彼は僕の患者であり、父含め家族公認の恋人関係である。だから、断るつもりはないけど場違いすぎるように感じるんだよね。医者を志したはずなのに、気付けば闇医者に転落していた変わり者なんだ。それに、これ以上あの場で友好関係を広げるつもりはない。
「そんなことないのは、君が一番知ってるだろ?」
彼に優しく伝えれば、撫でた手にすり寄って肯定を示している。
「決まりだな。すぐに着替えこいよ? 集まりはこれからあるんだ」
しっしっと手を払って、僕たちに着替えを促す兄。
急すぎるんだよ、なにもかも。
僕は立ち上がると彼を連れてリビングを出る。スーツはウォークインクローゼットにしまっていたはずだ。
隣を見れば嬉しそうな顔で歩いている彼の姿がある。あの不機嫌な状態よりはるかにいいんだけどさ、どうしてこうなった。
◆ ◆ ◆ ◆
俺は、家が苦手だった。元々住んでた家も引っ越した家もどっちも好きじゃない。落ち着ける場所がないのに、家って呼ぶのは変だろ?
でも、今の家は好き。しゅうがいて、かわいい仔猫が四匹もいるんだ。嫌いになるはずがなかった。だから、どこで寝ても絶対に帰ろうって思うし、そんな俺をあいつは必ず迎えに来てくれる。一番好きな場所になっていた。
だから俺はずーっとここで過ごしていたいのに、周りが邪魔して許してくれない。
今日だってそうだ。急に連絡があったと思えば、家に来いの一言だけ。行くわけないじゃん。だから、無視した。
「なにがそんなに不満なの」
俺の態度を見透かして、あいつがひたすらかけてくる声を聞こえないふりでやり過ごす。
「別に」
一言だけ返してあとはずっと同じ。近くに来た気配は感じたけど、話せば行くことを促されてしまう。それだけは避けたかった。
ただ時間だけが過ぎていたときに、リビングに鳴り響いたインターフォン。あまりのしつこさに悪態をつきながら玄関へ行ったのを見送る。俺にはわかる、奴が来たんだ。
上に乗っていた仔猫を無視して急いで起き上がる。この子たちの運動神経が良いことは確認しているんだ、この程度で怪我をする子は一匹もいない。
ソファーから立ち上がり、目の前の自室へ駆け込む。備え付けの鍵まで閉めることを忘れない。ドアの向こうで仔猫が鳴いてるけど、ごめんな、今回は入れられないんだ。
いつでも逃げられるように、窓際で待機する。きっと、ここまで追っかけてくる。
案の定、ドアの前で足音は止まり、俺を呼ぶ声が廊下に響く。壊れそうな勢いでそれは叩かれ、ドアノブは取れるんじゃないかと思わせるくらいの早さで回されている。
ホラーだよ、なにも知らずこんなことされたら恐怖に震えるって。
正直に話すけど、俺はちょっと怖かったりする。ドア壊れないよね、大丈夫だよね。
いつか壊される。そう感じて、この場にとどまり孤城するのが怖くなった俺は、窓を開け脱出を図る。ここから出れば奴らが来るまでの時間はだいぶ稼げる。
ーー逃げ切る!
と、思ったはずなのに相手は何枚も上手だった。
ニコイチでいる使用人みたい男を待機させてたんだ。
「本当に、やることがめちゃくちゃなんですよ」
「な、んで……」
「すみません、訑灸さん。これは、命令ですから」
たぶん、殴れば勝てる相手だと思う。逃げようと思えば逃げきれる相手とも思う。でも、俺がこの人に手を出したら、黙ってないのは奴なのだ。
俺がしゅうを想うくらいの感情を、奴はこの人に向けている。だから、怪我なんてさせたら、ただじゃすまない。奴を直接攻撃する以上に悲惨な結末が待ってるだろう。
だから、俺は動けなかったし、大人しく捕まるしかなかった。全部奴の思惑通り。
リビングに戻され、改めて四人が集まる。あいつの横に座ってクッションに顔を埋める。三人からの視線に耐えられる自信はない。
「訑灸、これはどういうことなのかな?」
あいつが俺の名前を呼び、ことの内容を改めて確認する。名前で呼ぶときは、きちんと話をしたいとき。
「俺は行かない」
俺が答えられる精一杯。これ以上はなにもいうつもりはない。説明なんてもっての他だ。
俺の言葉に奴がなにやら小言をいっているがイヤなものはイヤなんだ。俺の気持ちなんて誰にもわかるわけないだろ、ほっといてよ。
俺の言葉でなにを不満に思っているのか、瞬時に理解したあいつは困った顔をしている。
奴の言葉にも、ひたすら拒否を示す。絶対に行かない、好きじゃない、とうわ言のように繰り返して。あそこには帰りたくないんだ。
「はぁー、わかった」
奴の諦めきったため息に折れたと感じた俺は、クッションから顔を離して期待の眼差しを向ける。行かなくていいなら、喜んでいかない。
「アホか。行くのは変わらねぇよ。ただし」
結局は変わらない事実に不満を向けるが、奴は変わらず眉を寄せているあいつを指差してとっておきの言葉を続けたのだ。
「時野も一緒だ。許可はもらってる、連れていくのは問題ない」
「なんて?」「ほんとに!」
その言葉は俺にとってなによりも心強い魔法の言葉で、素直に喜んだ。でも、あいつは違うみたい。驚きに満ちた反応で、返しに困っている。
「……しゅうはイヤなの?」
俺は他の誰よりもしゅうが一緒ならどこへだって行ける気がするのに、あいつはそうじゃないんだ。再びクッションに顔を落として、隣の男に声を掛ける。……肯定されたら一生立ち直れない。
必要以上に音を立てる心拍数に意識がくらりとなりかけたところで、襲いかかる衝撃。勢いよく髪を乱された。
「そんなことないのは、君が一番知ってるだろ?」
優しい声にちらりと視線を向けると、俺の大好きな笑みを浮かべている。優しくて暖かくて安心できる、気持ちがこそばゆいけどふわふわした感覚になるずっと大好きな表情。それが嬉しくて、にやける顔を隠すためクッションに顔を落としたまま、俺を撫でていた彼の手にすり寄る。答えはこれで十分だ。
決着したと、奴は俺たちに正装へ着替えるように指示をする。お呼ばれしたときの服装は決まってスーツ姿だ。堅苦しい格好、俺は嫌い。
先を歩くあいつの隣に並んで向かう場所はクローゼット。それも中に入って着替えられるくらいの広さがある。普段使いしない服は全部ここに収納していた。
「……なぁ」
「どうかした?」
スーツを取り出している後ろ姿に声をかける。
「めんどくさいって思ってる?」
俺たちのごたごた、っていうより俺の我儘に巻き込んでしまった。俺がこうじゃなければ、行かなくていい場所なんだ。こいつもまたあの場所を好んでないのは知ってるから、今さらだけど申し訳なさが沸き起こる。
嬉しいけど、気まずい。それらがせめぎあい、どっち付かずで気が重くなる。
「あのさ」
スーツを二着取り出した男が振り替える。声のトーンが低い。怒ってる感じはしないけど、まじめな雰囲気は空気を伝って肌にまで感じる。
「僕は嫌なことは嫌だと断るし、それは君が相手でも同じだよ」
「……っ」
断られたわけじゃないけど、そんな気持ちを錯覚して息が詰まる。だって、この空気が余計に緊張させるんだ。話を振ったのは俺だけど、次の言葉に身構えてしまう。立っていることすらつらくなる。
そんな俺の傍へ歩み寄ると、ふっと息の漏れる声が耳に届く。それから、両腕を背後に回されて優しく引き寄せられた。右手は頭、左手は左肩へ添えられている。正面から抱き締められ、鼻を掠める彼の匂いに沈んでいた気持ちが次第に軽くなる。
「落ち着いた?」
「ん」
なんなら、心地よくて眠くなってきた。けど、これを伝えたら即離れそうな気がするから、グッと堪える。
「……眠くなってるよね。これから出掛けるんだから、寝ないでよ」
バレてた。見透かされていた。そんな優しく抱き締めて、睡魔を誘発させるような匂いをばらまいて、悪いのは明らかにそっちだ!
「少しだけ……」
「ダメだよ。ほら起きる」
「いはいです」
結局離されて、両頬を容赦なくつねられた。起きる、起きるから離してよ、なんで痛くするの。
「君の用事なんだからね。とにかく、僕は行きたいから行くんだ。訑灸のことを傍で守りたいから行く」
わかった?
耳元でそれだけ囁かれて、顔を真っ赤にした俺は顔を上下に振って返事をする。反則だ。そうやって、人の気持ちを翻弄するのは一発レッドカードだと思う。
これ以上好きにさせてどうするつもりだよ!
渡されたスーツに着替えながら、火照った身体を落ち着かせる。一緒に行けるのは嬉しいけど、俺の心臓持たないんじゃないの。どっかで好きが爆発して、尽きるんじゃないの。
一抹のくだらない不安が脳裏をよぎる。
「着替えた? 行こうか」
「うん」
想像通りスーツを身にまとったこいつはかっこよくて、これ以上気持ちを乱されないように足早にリビングへ戻るのだった。
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