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人を幸せにする魔法
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師匠が目覚めなくなってから、もう三日が経った。眠ったままの師匠の口を開いて、水差しから少量ずつ水を落としていく。むせないように気をつけながら、時間をかけてコップ一杯分の水を飲ませ終えたサーシェはため息をついた。
「師匠……今日もよく晴れていますよ、庭をお散歩しませんか? 早く起きないと、アネモネの見頃が終わってしまいます」
声をかけてもピクリともしない。体勢を変えるだけで骨が折れてしまいそうなほどに細くなってしまった体を見下ろした。
このまま二度と目覚めないのだろうか……膝の上で拳を握り締めていると、部屋の扉が開いた。
「ラズ……」
公園で話をした日から、ラズとは口をきいていない。彼の顔を見ると、すがりついて文句を言いたくなってしまうから。
枕元まで歩み寄ってきたラズは、サーシェの目元を指の腹でなぞった。いきなりのことにのけぞってしまう。
「なに?」
「隈、できてんぞ。サーシェが倒れちまう」
「そんなことを言ってる場合じゃないんです」
師匠に視線を移すと、ラズは大きなため息をついた。
「ローリエ、俺にはお手上げだ。お前の口からちゃんと説明してやれ」
ラズが師匠の額を掴んで、引っ張りあげるような仕草をする。すると、半透明に透き通った青年が師匠の中から起き上がった。
「えっ?」
誰だろうこの人は。茶色い髪の青年は師匠とそっくりの癖っ毛だ、もしや若い頃の師匠だろうか。
青年はラズを見上げ、まなじりをつりあげた。
『おいラズ、気持ちよく寝ていたのに何をする』
「愛弟子を悲しませたまま永眠するんじゃねえよ。魂状態なら寝込んでいても話ができるだろう」
やはり彼は師匠らしい。サーシェと目をあわせた師匠はくしゃくしゃに顔を歪めた。
『ああ、サーシェ……すまないな、心配させて。私のことはもう気にしなくていいから、ちゃんと眠りなさい』
「そんな、師匠……!」
師匠はこのまま死んでしまうつもりなのだろう。そんなのは駄目だ、耐えられない。
「大丈夫です師匠、僕が貴方を助けますから! 聞いてください、ここにいるラズは悪魔なんです。僕が代償を支払えば、貴方の病気は綺麗に治るんです! だから……!」
握ろうとした半透明の手は、サーシェをすり抜けた。愕然として言葉を失う。師匠は眉尻を下げた。
『知っていたよ。馬鹿な子だ……私などのために、お主の未来を奪うことなど誰ができようか』
思わずラズを振り向いた。いつから? まさか最初から、二人は知り合いだったのだろうか。
「言いたいことがあるなら今のうちに話したほうがいい。あまり長い時間は顕現させられないぞ」
ぐっと歯を食いしばり、再び前を向く。
「……師匠は最初から、死ぬ気だったんですか」
師匠は窓の外の花畑を、懐かしむように眺めた。
『私はもう十分に生きた、サーシェも無事一人前となった。だから、そうさなあ。死にたいわけではないが、納得はしておるよ』
納得なんて、サーシェにはとてもできそうになかった。こんなにも未熟なのに、一人にしないでほしい。
「嫌です……僕には魔法使いなんて、とても務まりそうにありません」
『ラズに助けてもらうといい』
「師匠じゃなきゃ嫌です……!」
目尻が熱くなってきて、ベッドに突っ伏すようにして目を伏せた。頭を撫でられた感触がしてハッと顔を上げる。サーシェの頭にはラズの手が置かれていた。
「ごめんな、ローリエには借りがある。生きてるうちに返してくれって言われたら、聞いてやらなきゃならないから……サーシェの願いよりも優先しちまった」
『よく言うわ、本当はお主がサーシェを気に入ったから、大切に愛でたいだけであろうに』
「え?」
振り向いたラズは、珍しく焦った顔をしていた。
「おいローリエ、それは言わない約束だろう」
『お主が私を叩き起こすからこうなる。ちゃんとサーシェを支えてやってくれ、そうでなければ安心して眠れんからなあ』
「……返す言葉もないな。起こして悪かった」
苦笑するラズに、師匠は頷いている。二人の間には確かな信頼関係があったらしい。そんなこともわからないくらい、ここ最近のサーシェは余裕がなかったようだ。
「サーシェのことは俺に任せてくれ」
「うむ。二度と目覚めんでもいいようにな』
話している間も師匠の姿は薄くなっていっている。師匠と話せるのはこれが最後かもしれない……サーシェは枯れ枝のような生身の手を握った。
「師匠……」
『どうした、サーシェ』
あまりにも多くの思い出が脳裏を駆け巡り、上手く言葉にならない。それでも、師匠に安心してもらいたくて言葉を絞り出した。
「僕……僕なりに、精一杯がんばります」
月並みな言葉しか出なかったけれど、師匠は晴れやかに微笑んだ。
『うむ、それでいい』
「立派な魔法使いに、きっとなってみせます」
『立派になれんでもいい、お主が幸せであればそれでよい』
サーシェは目を見張った。そういえば、師匠は立派な魔法使いになりなさいなどと一度も言ったことがない。
『魔法は人を幸せにする。サーシェも、人を幸せにする魔法を使いなさい』
そうだった、大切なことを忘れていた。両親のように町を守れなくても、師匠のように多くの人を幸せにできなくても、サーシェにだってできることがあるはずだ。
「……はい!」
頷くと、師匠はそれでいいと微笑んでくれた。そして姿が消えてしまった。
「あ、師匠……!」
サーシェの手は一瞬、力強く握られた。すぐに力の抜けた腕は、その後二度と動くことはなかった。
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