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顧客の無茶振り。それを安請け合いする上司。工場に頭を下げて、嫌味を言われるのが俺の仕事。
大学卒業後、何十社と応募してようやく内定を貰った会社がブラック企業だった。就きたい職業だったわけではない。ただ、苦労して入った会社だから、働きながら就職活動をする余裕と気力がないから、意地で何年も縋り続けている。
幸い今日は早い時間に退社できた。と言っても、店はとっくに閉まっている時間なので今日もコンビニ弁当だ。
ホームの先頭に立っていると、電車到着を告げる放送が入った。電車が線路を照らしながらホームに滑り込んでくる。電車の先頭が見えてきたとき、背中に強い衝撃があった。バランスをとるために足を大きく前に踏み出し、前のめりに線路に落下した。
目を開けると、鉄格子越しに知らない家のベッドが目に飛び込んできた。
「は、何だよ、ここ!」
マットレスを敷いただけの簡素な寝床から飛び起き、目の前の鉄格子にしがみついた。檻の広さは2畳ほど。床の上には服が山盛りになっており、他にテレビやちゃぶ台、ゴミ箱などが見受けられ、生活感がある。檻はごく普通の部屋の一角に設置されているようだ。いずれも見覚えのないものばかりで、誘拐、監禁、刑事ドラマでしか聞かないようなワードが頭に浮かぶ。
「おい、誰かいないのか!? 助けてくれ!」
誰もいない空間に向かって声を張る。服は身に着けておらず、首にはベルトのようなものが巻き付けられていた。檻の中には薄いマットレスの上に薄い毛布、ウサギのぬいぐるみ。他にもペットボトルとお菓子のような箱、ペットシートのようなものが設置されていた。
人の気配はないようだ。これは夢なのだろうか。だとしたら、どこからが夢? 俺は確か誰かに背中を押されて線路に落ちたのではなかったか。
微かな足音と、ガチャッ、ガチャッと鍵が開くような音が聞こえた。
「おーい、助けてくれ!」
反射的に音のした方へ叫んだ。足音が大きくなってくるのを喜んだのも束の間、もしこれが犯人の物だとしたらと思い当たる。ドアから一番離れた隅に避難し、毛布に包まる。閉められていた部屋のドアが大きく開いた。
現れたのは、若い長髪の男。目を惹くのは、頭に付いている大きな黒い耳だ。
「起きたのか。おいで」
目が合うと男はぱっと顔を綻ばせ、いとも簡単に檻を開けた。男の背後で何かがゆらゆらと揺れている。もしかしたら俺は頭のおかしい奴に捕まったのかもしれない。
「ツヨシ、おいで」
開いた入り口の前で男がしゃがんで両手を広げている。何故、この男は俺の名前を知っている? それに、腰の辺りで揺れているものは尻尾のようなものは何だ?
尻尾の揺れがだんだん小さくなり、ついに動かなくなると男は一つ息を吐いて檻の前を離れた。腕に掛けていたビニール袋から弁当を取り出してテーブルの上に置き、男が部屋を出て行く。しばらくして戻ってきたときには片手にカップ麺を持っていた。
テーブルの前に座ってリモコンを付けると、檻のすぐ隣のテレビから音が聞こえてきた。布を巻き付けたまま画面が見えるギリギリのところに移動する。テレビに映る人達にも獣の耳が付いていたり、特殊メイクみたいな爬虫類っぽい顔をしていた。
これは一体、どういうことなのだろう。手で触って自分の身体を検めるが、耳は小さいまま顔の横に付いていて、尻尾が生えている様子もなく見る限り身体に変化がない。
弁当を食べていた男が、俺を見て小さく笑う。
「それ食べていいよ。腹減ってるだろ」
お菓子のような箱を指して男が言う。耳や尻尾ばかりに気を取られていたが、男はかなり整った顔立ちをしていた。
「飯の前に、服が欲しいんだけど」
「え、そう?」
こちらとしては当然の要求をしたまでだ。男が戸惑う様子に違和感を覚える。
「じゃあ今度買いに行こうな」
「今度じゃなくて、今すぐ欲しいんだけど」
渋々といった様子で男が服の山から一枚抜き出して檻の隙間から渡してくる。下も要求すると、ええ、と声を上げられた。さっきからこの反応は一体何なのだろう。下着も欲しいところだが、例え洗濯済みでも他人が着用したものは嫌だ。素肌にズボンを着用すると股間がスースーした。
今すぐ危害を加えられることはなさそうだ。お菓子の箱とペットボトルを持って、テーブルを挟んで男の前に腰を下ろす。箱を開けてみると、中身はシリアルバーみたいなものだった。男が顔を綻ばせ、尻尾のようなものをパタパタと床に打ち付ける。
「それ、生えてるの?」
尻尾を指差すと、男が自分の背後を振り返る。こんもりとした白いふさふさの動きがだんだん小さくなる。
「なんか、チャッピーみたい」
ピンと立った黒い大きな耳、ふさふさの白い尻尾、くりっとした黒い瞳。昔飼っていたパピヨンを思い出す。
「覚えてるの!?」
食い気味に詰められて吃驚する。こちらとしては、男がチャッピーのことを知っていることの方が驚きだ。もしかして、と普通ならありえないことを口にしてみる。
「チャッピーなのか?」
「ツヨシ!」
乱暴にテーブルを脇に避け、男が勢いよく胸に飛び込んできた。その場にひっくり返り、チャッピーと思われる男が馬乗りになってベロベロと口を舐めてきた。
「チャッピー、やめ」
「ああ、違った。ニンゲンはこうするんだっけ」
トン、と唇に口をぶつけて、男が俺の上を退いた。一体何がどうなっているのか訳がわからず、しばらくその場で仰向けになっていた。
テーブルの上でカップ麺が倒れ、テーブルや床に汁が零れていた。容器を縦に直して男がティッシュに汁を吸わせる。
「お前、本当にチャッピー?」
「うん」
風貌がビジュアル系の男が返事をする。にわかに信じがたいが、同時にそうなんだろうな、とも思う。一緒に檻に入れられていたウサギのぬいぐるみは、チャッピーお気に入りのおもちゃだった。
「でも、チャッピーは寿命だったんだ。おじいちゃんじゃなきゃおかしいだろ?」
「ニンゲンは動物をニンゲンの年齢に例えるのが好きだよね。年齢だけで言ったら、俺とツヨシは1年しか違わないよ」
あらかた汁を片付け、テーブルを元の場所に戻して食事を再開する。
「俺は死んだのか?」
ほとんど汁が残っていないカップ麺を啜る男に問いかける。
「死んでない。俺がこっちの世界に呼んだ」
「こっちの世界?」
背後のテレビに目をやる。テレビに映っている、動物と人間が融合したような姿の彼らもまた、チャッピーのように死んだ動物たちなのだろうか。だとしたら、やっぱり俺は死んだのではなかろうか。
「ツヨシは何も考えないで、ただ俺に飼われていればいいんだよ」
「ふざけんなよ! 今すぐ俺を元の世界に戻せ!!」
まただ。声を荒げると、チャッピーは目を丸くした。
「どうして? 昔は犬になりたいって言ってたじゃないか」
「子供の頃の話だろ」
ことごとく会話が噛み合わなくてイライラする。そもそも考え方や倫理観が根本的に違う。服も着せてもらえず裸で首輪を付けられて檻に閉じ込められる。少なくとも、俺が犬になりたいと言っていたのはこういうことではなく、宿題しなくていいとか、いつまで遊んでいても怒られないとか、そんなくだらない理由だったはずだ。
「どうして元の世界に戻りたいの?」
「どうしてって」
反射的に言葉を繰り返すが、すぐに二の句を継げなかった。
「いっつもいろんなニンゲンに怒られて、ツヨシは全然笑っていなかった」
「仕事なんだから、そういうもんなんだよ」
バツが悪く吐き捨てると、ふぅん、とチャッピーはつまらなさそうに相槌を打った。
「それに、向こうには父さんと母さんがいる。親より先に死んで悲しませたくない」
「まあ、それはわかる。俺が死んだとき、ツヨシがずっと泣いてて見ていられなかった」
チャッピーが一瞬悲しい目をする。チャッピーが死んだときのことがよぎり、この瞬間、同じことを思い出していたに違いない。チャッピーは15歳で天寿を全うした。チャッピーは俺が生まれる前にはもう家族の一員で、親であり兄弟のような存在だった。徐々に身体が衰えていき、心の準備をする時間はあったものの、チャッピーの死はしばらく食事が喉を通らないくらいショックだった。
「でも、生きていればいつか必ず死ぬ。事故で死ぬかもしれないし、病気で死ぬかもしれない。それに、ニンゲンは自分で自分を殺すんだ」
最後の一言にドキッとする。死にたいと思うことはしょっちゅうだったし、本気で死のうと思ったことも一度や二度ではない。それでも戻りたいと、口にすることができなかった。
これ以上チャッピーを自称する男と喋りたくなくて、食事が済むと自ら檻の中に戻った。檻は再び閉ざされたが、行く当てがないのでどうでもいい。薄いマットレスに身体を沈め、壁側を向いて目を瞑る。
浅い睡眠と覚醒を繰り返しながら、うだうだと考え事をする。チャッピーのこと、この世界のこと、自分は元の世界に戻れるのか、そもそも戻りたいのか。
「なあ、チャッピー」
時間が経つと、成人男性に向けてチャッピーと呼ぶことに抵抗感がある。チャッピーはまるで気にならないようで、ベッドから身体を起こした。
「俺さ、元の世界に戻ったら転職するよ。もうお前に心配かけないようにする。確かに、何かの拍子で死ぬかも知れないけど、その時はその時だ。だから、俺を元の世界に戻してくれよ」
こんな訳のわからない世界には居たくない。これが俺の出した結論だ。
「それは無理だよ」
あっさりとチャッピーが否定する。
「なんで」
「例えば、俺はヨーロッパ原産の犬だったらしい。もしヨーロッパに帰してほしいって言ったら帰してくれた?」
やはりコイツとは話が噛み合わない。
「犬と人じゃ勝手が違うだろ」
「ツヨシはまだこの世界のことがわかってないみたいだけど、この世界じゃニンゲンの方がペットなんだよ」
ベッドの上から俺を見下ろすチャッピーの目は、見下しているようにも憐れんでいるようにも見えた。
「まだ早いと思ってたけど、やっぱり散歩行こうか」
嫌な予感がする。チャッピーがベッドから立ち上がり、クローゼットを開けた。チャッピーが手に取ったのは、犬のリードだった。
首輪にリードを付けられて外を歩かされるなんて、冗談じゃない。チャッピーが檻を開けて中に入ってきた。隙を突いて檻の外に飛び出す。ドアを開け、部屋の外に出た。後ろを振り返らずに玄関に向かって走る。後ろからぐんと服を引っ張られて首が絞まった。
「まったく、駆けっこじゃ俺の方が足が速かったこと忘れたの?」
さして抵抗もできず、首輪にリードを付けられた。無駄吠えするからと口枷を噛まされ、いたずらできないようにグローブのようなものをはめられた。社会勉強だと言って靴も履かせてもらえず、玄関で抵抗したが無理矢理外に引きずり出された。力もスピードもまるで敵わない。初めてチャッピーを怖いと感じた。
リードを引っ張られると首が絞まって苦しいので、チャッピーの歩調に合わせて後ろを付いて歩いた。アスファルトが熱を持って生温かい。足の裏に小さな小石が刺さる。グローブをはめられた手ではリードを外すことができない。首を掻いて何度もたしなめられた。口枷をしているせいで喋ることができず、だらだらと唾液が垂れてくる。
すれ違う人達は、やはり人間をベースに動物を混ぜたような異形ばかりだった。人間寄り、動物寄り、大小と実に様々。町並みは変な形の家が多い印象だが、普段降りない駅で降りてしまったような、元々いた世界とあまり変わりないように見える。細い通りだからなのか、車は滅多に見かけない。
俺に対する態度は様々で、無遠慮に視線を投げかけてくるやつ、一瞥して目を逸らすやつ、ただ通り過ぎるだけのやつといたが、特に危害を加えられることはなさそうだとわかってとりあえず一安心する。奇異な目を向けられることもなく、助けてもらえることもない。チャッピーはこの世界じゃ人間の方がペットだと言っていたが、実感を持ってその意味を理解した。
チャッピーの背に隠れていたせいで気付くのが遅れた。前から異形と小さな女の子が歩いてくる。
「ヴーッ!!」
女の子に向かって声を上げ、駆け寄ろうとした。すぐにリードが後ろに引かれ、女の子はビクッとして異形の足にしがみついた。
「待て! ツヨシ、どうしたの」
首輪が締まって、頭に血が上るのを感じる。当然息はできなかったが、それでも足を前へ踏み出そうとする。リードを引きながら、チャッピーが肩に手を置いて下に押さえつけ、俺を座らせようとした。全身白い毛皮で覆われた、犬のような異形がさっと女の子を抱え上げ、足早に連れ去ってしまった。
角を曲がって姿が見えなくなると、すぐにその場に膝を落として咽せた。口枷をしているせいでうまく息ができず、ビクビクと痙攣を繰り返す。すぐにチャッピーが口枷を外してくれた。激しく咳き込み、込み上げてきたものを急いで飲み込んだ。
「大丈夫?」
口の中が苦い。呼吸が少し落ち着いた頃、チャッピーに蓋の開いたペットボトルを差し出された。グローブで挟み、温い水を飲み下す。息を整えながら、呆然と異形と女の子が消えた角を見つめていたが戻ってくる気配はない。
「今日はもう帰ろう?」
軽くリードを引かれ、足に力を込めて立ち上がる。あの子はまだ、10歳くらいの人間の女の子だった。裸で、俺と同じく首輪にリードが付いていた。人間がペットである事実に打ちのめされた。助けたかった。なのに、何もできなかった。
来た道を同じように繋がれて歩きながら、あの子が俺に驚いて異形の足に抱き付いたことを思い出した。口枷もグローブも付けられていなかった。せめてあの子が幸せでありますように。
部屋に戻ってくると、檻の中の布に包まって横になった。もう何も考えたくない。このまま眠って、次に目が覚めたときには元の世界に戻っていてほしい。
「ねえ、どうしたの。ツヨシ」
眠ってしまいたいのに、檻の外からチャッピーがしつこく話し掛けてくる。しばらく無視をしていると静かになった。チャッピーを盗み見ると、耳を寝かせ背中を檻に預けている。尻尾はだらんと垂れたままだ。生前、チャッピーは俺が落ち込んでいるときや怒っているとき、いつも傍にいてくれた。
「チャッピー」
寝ていた耳が、ピクッと動いた。こちらを振り返ったチャッピーに、おいでと声を掛ける。すぐにチャッピーが檻の中に入ってきて俺の前に正座する。
「お前、本当にチャッピーなんだな」
頭を撫で、大きな耳を撫でつける。会ったときからずっと触ってみたかった。手触りは俺が知っているチャッピーのもので無性に泣きたくなった。
「酷いな、信じてなかったの」
人間と犬が融合した姿の男が耳を悲しそうに笑うが、白い尻尾はせわしなく床を叩いた。この下手くそな尻尾の振り方もチャッピーそのものだった。
縋るようにチャッピーに抱き付いた。チャッピーによって傷付けられたのに、縋れる相手がチャッピーしかいなかった。
「さっきの女の子見て、どう思った?」
檻の中で並んで寝床にしている布の上に座る。
「どうって……小さくて可愛いなって思ったけど」
やっぱりだ。自分の中の常識はこの世界には通用しない。元の世界に置き換えると、ただ子犬をリードに繋いで散歩しているだけに等しい。だが俺はこの世界の住人ではないので、人間の尊厳が踏みにじられていることが我慢ならない。しかし、そんなことを言っていても何一つ解決しないことはわかりきっている。
「なあ、チャッピー。俺にこの世界のことを教えてくれよ」
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