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仕事
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ぼんやりしたまま会社の前まで車で送られて、降ろされた場所から黒い車を見送る。
膝からくずれそうな体をなんとか保って会社に入る。
歩くのがやっとな体調に気付くとため息がでた。
仕方がない。
せめて人の足を引っ張らないようにして、今日は早く帰れるように努力をしよう。
「おはよう。南野。すごい車だったな。」
見られていた事に体を固くして 振返って答える。
「おはようございます。昨日体調が悪かった事を知って知人が送ってくれたんです。」
昨夜、電話をくれた河野さんだ。
大柄な身長、ガッチリした体格は学生時代にラグビーをやっていたからだと聞く。
上下関係に厳しいのはその頃の名残なんだろう。
「昨日はすみませんでした。」
河野さんの顔を下から覗いて、笑顔を貼付ける。
「…」
何かおかしかっただろうか、河野さんの反応がいつもと違う気がして、もう一度顔を見る。
「南野、昨日何かあったのか?いつもより、その、色っぽいというか、なんというか。」
もごもごとそんな事を言いながら頭に手を乗せようとしている。この上司は少し独特だ。
握手をしたり、背中を叩いたり、なんて言うかスキンシップが多い。苦手だけど避けるわけにもいかない。手が当たる寸前で、できるだけ不自然に見えないようにかわす。
「何ですかそれ。昨日は熱があって一日寝ていましたよ。」
簡単に嘘が口からでる。
少しでも「普通」に近づく為につく嘘はどれだけでもついていいと信じているから。
昨日の遅れを取り戻そうと鞄を置いてすぐに仕事を始めた。
と言っても、体が怠くて瞼がくっつきそうなくらい重くて。体を引きずっているような感覚がついてまわる。
荷物を運べばひっくり返し、急いで走れば足がもつれる。我ながら呆れてしまう駄目さ加減。
意識はあっても、足がふらふらで睡魔に負けそうな自分が情けない。
「大丈夫か?顔色悪いな。休んでてもいいぞ。」
と気を使われて、熱があるんじゃないかと河野さんが額に延ばした手をよけて、転ぶ始末。
こんな体調で出社するなんて仕事を馬鹿にしていると思われてはたまらない。
トイレで顔を洗って引き締めながら体を動かして、昼休憩に入るチャイムが鳴る頃にはもうぐったりと疲れてしまっていた。
携帯が鳴っているような気がしていたけど、それを確認する元気もなく机につっぷしたまま昼休憩を寝て過ごそうと決めていると襟首にひんやり冷たい物を当てられて飛び上がるほど驚く。
「食欲なくてもこのくらい体にいれとけよ」
首に置かれたのは栄養補助を目的としたゼリー食品。よく冷えているのは、すぐそこのコンビニで買ってきたばかりだからだろう。
「すみません。いただきます。」
お財布を取り出すと、片手を左右に振っていらない。と言われる。
蓋をねじって開封して口に含むと冷たくて喉越しのいいゼリーの感触が伝わる。
睡魔に襲われ続けた体に優しくて心地いい。
僕の好きなグレープフルーツ味。
この先輩は本当に面倒見がいい。体育会系だから、と本人は言うのだが
それだけで他人に優しくなんてできるものなんだろうか。
例えば僕がラグビー部に入っていたとして、そうなれるものなんだろうか。
無理だろう。
他人に優しくできるのは、ある意味才能なんじゃないかと思う。
優しくする。という方法がわかっても自然にそれができる人というのはやっぱり限られた人間だけ。
普通に生きて行く。だけが目標の僕にはできない動作だ。
顎を机にのせたまま、ゼリーを飲み込み、正面の席でお弁当を食べている河野さんを見上げる
「河野さんって優しいですよね。尊敬しちゃいます。」
そう言うと、河野さんは大げさに驚いて
「南野、それ今頃気付いたの?ひっどいなー」
と笑う。
それを見て僕も一緒に笑ってみる。
ここまでの時点で、河野さんが僕に怒っている所はないようだ。
昨日休んだ事と、今日の仕事があまり捗っていない事を心配しているんだけど特に困っている訳ではなさそうだ。
午後こそはもう少しマシな働きをしたい…。
昨日、河野さんに電話で頼まれていたのは資料集めだった。
日の入らない埃っぽい空気の資料室に行き、古い地図を集める。
フタミコーポレーションは地盤を調査している会社だ。
マンションを建てるにしても、高層ビルを建てるにしても、その土地の地中にはどんな物が含まれているのか。粘土や砂、石などはどのくらい含まれているのか、重さに耐えられる地盤なのかそうでないのか。地下水路にはどのくらい掘ったら当たるのか。
下調べがメインの部署にいるので現地調査に赴いた事はないが、現地調査は数日間から長期に渡る事があり、地下での作業になるので長くなればなるほど危険もつきまとう。
そのリスクを少しでも減らす為に事前調査で、古い資料を片っ端から集めてデータに起こす。社内にないような資料は、現地近くの図書館や役所で借りてきて、できる限りの情報を集めるのが僕の配属されている部署の主な仕事だ。
幸いな事に今回はここにある資料だけでなんとかなりそうだった。
山のように資料を積み上げて必要な部分をピックアップしていく。紙の情報をデータとしてパソコンに吸い上げて行く。今時こんな作業をしている会社なんて少ないと思うのだが、チマチマした作業は余計な事を考えずに集中できて数時間あっという間に過ぎてしまう。
人の気配がして、河野さんがきたんだろうと振り向かずに話しかける
「もう少しでまとめ終わります。必要な情報はこれで集まるとー」
耳のすぐ後ろに吐息を感じた。河野さんが予想していたより近くにいる事を知って固まる。
「南野。今日呑みに行かない?」
いつもより上擦った声が聞こえる。僕は、驚いた事を悟られないように、ゆっくりと口角をあげる。
「すみません、本調子じゃないので今日はちょっと。」
「そっか、そうだよな。それより南野いい匂いがするなぁ。」
ふんふん、と鼻を鳴らして近づいてくる。それを笑って避けていると河野さんが後ろから羽交い締めにしてきた。
「なんっですか。」
突き放す力が強すぎたのか、抵抗すると思ってなかったのか河野さんはあっさり手を離した。
「会社休んでキスマークつけてくるとか、南野いつの間にそんな相手できたの?ちょっとショックなんだけど」
と隣にしゃがみこんで僕の首を指差す。
咄嗟にその場所あたりに手をやったけど見えてしまった物は仕方ない。
傷が見られた訳じゃないんだから問題ないよな。
でもこのきまずい場面では「笑ってごまかす」しか切り抜ける方法を知らない。
ここでまた無駄な嘘をつくはめになる。
他人と関われば嘘ばかりついていなくちゃいけなくなる。
本当の自分の話なんて出せないから。
小さくため息をついて、嘘の為に口を開く。
「やだなぁ。駅で倒れた拍子にぶつけたんですよ。」
一緒に河野さんも笑ってくれると思っていたけど、目が全然笑っていなくてひるんでしまう。
その目に浮かんだほの暗い光がいつか見たアノヒトの目に宿った光に似ている気がして声が出せなくなる。
じっとり見られたままの首筋。
その視線に耐えられなくて笑顔を貼付けたまま席を立つ。
広げていた資料を片付けようと数冊取って資料室の奥へと進む。
脚立に登って分厚い本を戻し、巻物状になっている資料を順番に返却する。
どれも古い資料だった事もあって高い所から取り出したものばかりだ。
「南野、これもそっちだろ」
そう言われて脚立から降りかけたところで振返る。
ちょうど首の高さに河野さんの顔があって慌てた僕はバランスを崩した。
「あっぶない。」
背中に河野さんの大きな手が当てられて脚立から落ちそうだった僕の体重を支えている。
のけぞった首に視線が突き刺さっている事が気にかかって、離れようとじたばたしていると
「やっぱりこれ、キスマークだろ」
「だから違いますって。」
静かに言われる声音。河野さんの声にしては聞き慣れなくて、何だかわからないけど危機感を感じた。考えこんでいるような沈んだ声。
「ほっそい首だなぁ。力入れたら折れちゃいそうだな。」
首に当てられたしっとりした指がタートルネックの端をめくってそこに当てられた。
!?
大きく息を吸ったつもりが、喉にひっかかって小さく悲鳴をあげたみたいになって、慌てて笑い声をかぶせてみる。めくった所から、のど仏までをさするように指が動かされて、その指は次第に当てる部分を増やして、掌全体で首を撫でまわしだした。
首に汗ばんだ他人の指。覚えのある状況に体が凍り付く。
アノヒトは達する直前に僕の首を絞める。
自分の呼吸と関係なく気道が塞がれる恐怖。
喉の血管が指でつぶされて、きゅっという音が耳に届く。
脳にも肺にも空気が入らなくて今日こそ死ねるかもしれないと期待する。
目の前が暗くなって意識がなくなる前に手を離される。酸素を求めて口を大きく開けて咳き込む僕を愉快そうに眺める顔。
また死ねなかったという絶望を強く感じる瞬間。
落ち着け、ここは会社だ。
そんな事は起こらない。絶対に。あんな苦しい体験は二度とごめんだ。
凍り付いている場合じゃないっ。
埃っぽい空気。閉ざされた空間。僕を見下ろす黒い光。
やめろ。思い出すな。これは、違う。
アノヒトじゃないし、僕はもう自分の足で立てるはずだ。
ぶちゅっ
と音がして首筋に生暖かい物が触れた。
ぞわぞわと気持ちの悪い感覚。河野さんが首に唇を押しつけている。
な、なんでこんな事っ。
自分の意志で逃げようとした途端にこの仕打ち。
助けて、助けて。と、どれだけ叫んでも誰も助けてはくれなかった。
昔も今も同じじゃないか。
神様なんて絶対いない。少なくとも僕の周りには。
真っ暗な世界をただ揺さぶられるままに歩かされて生かされている。
恐怖が僕を支配して思考が停止する。
”お前は俺の物だから。”
肌が吸い上げられる感覚で、昨夜の事を突然思い出した。
こんなこと、優也さんが知ったら嫌われてしまう。
せっかくの綺麗な思い出が汚れてしまう。
湿った唇が湿った肌の感触を連想させる。
のどの辺りに、すっぱい物がこみ上げてくる。吐きそう。
きもちわるい。
逃げるんだっ。なんでもいいから離してもらうんだ。
背中を支えている手に上半身で体当たりをして払い、そのまま脚立から落ちる。
後ろから落ちたから、痛みはあったけどそれより逃れられた事に安堵して河野さんを向く
「いってー。僕今日、転んでばっかりですね。痣になってそう。」
本棚と脚立の間に落ちて尻餅をついている僕を更に追いやるように立ちはだかった河野さんが真上から近づいてくる。
「だ、大丈夫か?」
大丈夫なわけあるか。
こんなの。こんなのパワハラだろー。って叫びたいのと震えを堪えて口角を上げる。
目の前で膝を床につけた河野さんは僕との距離をどんどん縮めてくる。こんなに近寄られた事は入社してこれまで1度もなかった。
だから恐怖を感じた事なんてなかったけど、大柄な手首や太い首を間近で見ると確かにその手でなら僕の首は簡単に折られそうな気がする。
「わっ。もうこんな時間じゃないですか。そろそろ帰りましょうよ。資料の続きは明日でいいですよね?」
わざとらしく腕時計を見てそう言う。
「あ、ああ。」
尻餅をついたまま完全に河野さんと本棚に挟まれて、この状況を何とかする方法を考えているんだけど。その間に僕の肩が掴まれて真正面に顔がある。
このままじゃキスでもされかねない勢いだ。
「冗談やめてくださいよー。河野さんの彼女に殺されちゃう。」
彼女がいるって話は聞いた事ないけど、この際関係ない。
頼む、笑ってください。笑っていればこれは冗談で、なかったことにできるんだから。
わらえ。わらって。そんな真剣な顔しないで笑ってください。
お願いだから。
「どうしたんですか?ほら、立ち上がってください。腰が痛いんですってば。」
強目に分厚い胸板を拳で音がする程たたく。というか殴ったつもり。
河野さんは目をぱちぱちさせて、僕の肩から両手を離した。
その隙に立ち上がって何でもないかのようにぶつけた所をはらって自分の口角が上がっている事をさりげなく確認してから河野さんに話しかける。
「資料、片付けますね。」
俯いたまま動こうとしない河野さんを横目で眺めながらサクサク片付けて資料室を後にした。
心臓がばくばくと嫌な音をたてていて、悪い事が起こったと知らせているけどかまっていられない。
何でも無い顔をして何事もなかったようにこの場所をでないと。
そうしないと震えてきた体を隠せない。
恐いんだ。他人が。他人の評価が。
嘲られるその瞬間が。
誰ともかかわりたくない。
誰にも嫌われたくない。
この弱さを誰にも知られたくない。
自分の机にパソコンと持ち出してきた資料を置くとトイレに駆け込んだ。
からっぽの胃から胃液がこみ上げる。吐き出せるような物は特に何もないのか、それでも食道が収縮して何かを吐き出させようとしている。苦しさに目の奥がジンとして涙が勝手に出てくる。
ようやく個室からでて口をゆすいで鏡に映る自分を見ると、河野さんが唇をぶつけてきたところが、うっすら赤くなっている。このくらいなら明日の朝には消えているだろうけど。
震えたくないのにがくがくと膝が震えて洗面台につかまって立っているのがやっとだ。
なんなんだ、一体。
何事も無く過ごして行きたいだけなのに。
どうしてこんなにうまくいかないんだろう。
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