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醜悪な恋心に
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「あーもうやってられない!」
天音は隣のベッドで肩を縮こませる風紀委員を一瞥すると当て付けのように叫び声を上げ、自身のベッドから飛び降りた。蒸し暑い部屋に加え、この合宿中寝起きを共にすることになったのは、冴えない普通科の風紀委員だった。風紀委員になるくらいだ、それなりに優秀で見どころにあるやるだろうと多少の期待を抱いていたが、その期待は見事に裏切られた。咲耶や流星と違い、この風紀委員は他の普通科の生徒と同じように天音に恐れと敬いを含んだ視線をただ送ってくるだけで、話しかけてもまともな会話は成り立たなかった。それでも文句を言わず大人しく発表された部屋割通りに過ごしてきたのは、ひとえに有紀からの信頼を再び得るためだった。だが2日目の夜を迎えた今、天音の我慢の限界値がとうとう超えてしまった。
「今日はもう戻らないから。点呼の時は適当に言い訳しといて」
「え・・・でも、」
「大丈夫。僕らへの点呼なんて建前だけのものだから。ここはそういう学園だって忘れたの?」
じゃーね、と後手に手を振り天音は戸惑う風紀委員の生徒を部屋に1人置き去りにした。安っぽい蛍光灯に照らされた廊下を鬱々とした気持ちで歩きだす。そう、自分は特別な人間なのだ。人口の数パーセントしかいない上流階級に生まれ、誰もが羨む美貌を持ち、有能な頭脳と約束された将来がある。他の人間が喉から手が出るほど欲しいものをこんなに天から与えられているというのに、天音の心はたった決して満たされてはいなかった。たった1人、日野沢有紀という人間を手に入れるまで、天音のカラカラに乾いた心が潤うことはない。随分重い枷を背負ったものだと自分でも呆れる。有紀に嫌われても軽蔑されても、天音の気持ちは揺らぎはしなかった。
「あ・・・」
1階に続く大階段を下り突き当りの角を曲がり合宿所の正面玄関に出たところで、天音は意図せず声を上げた。仲睦まじくこちらに向かって歩いてくる有紀と咲耶の姿が視界に飛び込んできて、心臓を鷲掴みにされたような気分になる。そこにいるべきは月瀬咲耶ではなく雨京天音のはずなのに。その現実と理想の食い違いに吐き気にも似た不快感を得た。
「こんばんは、雨京」
こちらに気付いた有紀は外面用の王子然とした完璧な笑顔を浮かべると、天音のことを名前ではなくあえて『雨京』と呼んだ。その言の葉には天音に対する明確な線引きがされていて、胸の奥にチクリと針が刺さった。その針は醜い毒となって天音の冷静さを徐々に奪っていく。
「こんばんは。2人で仲良く夜道を散歩?」
「ああ。この暑さが結構堪えてね。静かな田舎道ってのなかなか良いものだったよ」
有紀はおどけたように笑うと、実を無くしたアイスバーをひらひらを揺らして見せた。ちらりと咲耶の手元を覗くと同様にアイスバーが見え、2人っきりで夏の夜をアイスを食べながら満喫している姿がありありと想像できた。天音の全身を行き場のない嫉妬心が蜷局を巻く。
「そりゃ羨ましい。ねえ、有紀。これから2人でちょっと話さない?」
断られるのではないかと不安の波が押し寄せ、頼りなく自身の服の裾を掴む。咲耶は僅かに目を広げたが、すぐに伏し目がちに細め視線を天音から逸らした。有紀に任せる、そういう態度だった。
「悪いけど、これから咲耶と大事な話があるんだ」
有紀はそんな咲耶の手を引き寄せるように強く握りしめた。反射的に有紀を見つめる咲耶の瞳はきらりと美しく輝いて見えた。毒の周りが急速に早まり、身体の内側が全て黒く染まりそうだった。
「そうなんだ・・・。でもこの合宿中僕は有紀と話す機会なかったし、今日くらいちょっとの時間譲ってくれても良いんじゃない?ね、そう思うでしょ?月瀬風紀委員長」
天音は蠱惑的な微笑を咲耶に向ける。こう言えば咲耶は引き下がるしかないだろう。プライドの高い咲耶に今の立場を捨てられるはずがない。つい先刻まで有紀に向けられていた穏やかな瞳はすっかり仕舞い込まれ、天音を見据える咲耶のアイスグレーの瞳は学園の生徒が良く知る冷徹で厳格な風紀委員長のものにすり替わっていた。
「俺は別に後でも構わないが。水入らずで話したいこともあるだろ」
造形物のように均整のとれた赤い唇から発せられた言葉は、憎らしいほど凛と澄んでいて余裕すら感じられた。だから嫌いなのだ。有紀の前でだけで変わる表情も、有紀にだけ放つ甘い言葉も。考えただけで身の毛がよだつ。恋を拗らせ妬みで醜く腐った天音の心とは違い、咲耶の心は透明そのものだ。同じ人を思っているというのに何がそこまで2人を分かつのか。有紀が咲耶に惹かれる理由も本当はわかっていた。だがそれでもどうしても悔しくて、苦しくて。こうしてまだ天音は足掻く。
「ほら有紀。月瀬くんもこう言ってるわけだしさ。まだ合宿は明日もあるし、ね?月瀬くんと話せる時間はたっぷりあるでしょ?」
情けなくても惨めでも良い。ただ有紀がこの手の中に堕ちてきてくれるのなら。他に天音が望むものはなかった。一身に有紀を見つめていると、有紀は諦めたように深い溜息をつき、名残惜しそうに咲耶の指先をするりと離した。
「少し、だよ。いいね」
「僕には十分すぎる時間だよ」
ふわりと有紀に抱きつくと、天音は花が綻ぶような笑顔を有紀に向けた。その背に咲耶の揺れる瞳を感じながら。お前にだけは渡さない。嫉妬という毒が天音の淡い恋心を闇の中へと全て飲み込んでいった。
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